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最初で最後の出張の話

こんにちは、こうんです。

さっき妹に、
「アンパンマン、新しい顔よ!それ!」
と洗濯した枕を投げつけられました。
面白い。笑

でも今日の妹の服装で、なんかブルーな気持ちになってしまった。



ツワリンスキー

肩上で短く切りそろえられた髪の毛。
前髪なしの、おでこスタイル。
黒地に白い模様が細かく散りばめられたワンピース。
柔らかそうな二の腕が剥き出しのノースリーブ型。
背格好。

今日の妹の服装は、
会社で嫌だった、S先輩にそっくりTT

朝出社してきて、「おはようございまーす」と言った直後に、「こうんさーん今日の〇✕△ですけど、あれ■▲ー…」みたいにまくし立てて来る様子を、リアルに思い出してしまいました。

他人から見れば、私が細かすぎるのかもしれません。
でも私だって、思い出したくて思い出しているわけじゃない。こんな風に気持ちが振り回されるのも、もううんざりです。ばーかばーか。

そういえばこの間、あることがきっかけで思い出したことがもう一つ。
S先輩は普通の吐き気のことを、「悪阻(つわり)」と言っていました。
最初聞いたときは、『妊娠したんか!?』と驚いたのですが、話を聞いているとどうもただの吐き気のことを言っているようで。
「悪阻がひどくて、這うように出社してきた~」みたいな。

もうS先輩とかじゃなくて、悪阻野郎って呼んでやればよかった。じゃなければ、つわりんりん。つわりーぬ。ツワリンスキー。

悪阻(本当はただの吐き気)とか、彼女はほぼ毎日何らかの体の不調を訴えていました。本気で心配していたけど、毎度毎度言われるのも、今思うと結構辛かったです。仕事を優先しすぎ、日常生活を疎かにした結果なので。先輩の訴えを聞くたび、あの会社の働かせ方に疑問を抱いたし、私がもっとできるようにならなくちゃと申し訳なさや焦りも感じました。

頼むから休んでくれと思っていました。
具合が悪いと、彼女は機嫌も悪くなりがちなので。
コロナも怖かったしね。なのに私の前でマスクしないしね、あの人たち。(2022年)

ツワリンスキーを見ていても、責任だけ重くなって、人間扱いされなくなっていく出世なんか、絶対にしたくなかったです。


夏、思い出す

一年の季節の中で、私が好きなのは夏でした。
明るいし、寒くないし、普通に車を運転できるし。

でも、今年の夏がやって来たとき、去年の辛かった日々を思い出して嫌な気持ちになりました。まさか、夏の空気であんな気持ちになるとはなー。
それでも夏は好きな方だけどね。これを書いている今は嫌い。

そして先日、安倍首相銃撃事件から一年経過したという報道を見ました。事件が起こったとき、私は出張最終日でした。
説明会を終えた上司と、PCでニュース速報を見ました。
私は安倍政権の政治が好きではありませんでした。「丁寧な説明」とか口当たりの良いことを言いながら議論の余地を与えないやり方も、人をばかにしたような国会も、嫌いでした。彼を憎んでいる輩もいっぱいいたでしょう。だから、事件に衝撃を受けつつも、ついにやられてしまったか…と納得めいたものも感じてしまったのは事実です。でも、そうじゃない。暴力はだめだ…それじゃ何も変わらない…とも思いました。

「銃殺されるなんて、相当業が深かったんだと思う」
と上司は言っていました。
もっと意見を交わしてみたかったけど、疲れていたのと、必要以上に自分を知られることが怖くて、できませんでした。

あれからもう一年、経ったんですね・・・。


くそ出張

そのときの出張は、2022年3月期(2021年度)の決算発表を終えた後で、従業員向けの説明会を各拠点で行うことが目的でした。

説明会のメインスピーカーは上司で、私は事務作業とかのための同伴。2泊3日で、山形、秋田、岩手の計5か所を周りました。

初めての出張で、準備が本当に大変だったなー。
S先輩に聞きながら、確認しながら計画を立てたのに、もうずらせない頃になって、「これとこれは詰めすぎだね。こうんさんは、やらなくていいことも全部やろうとしてる。もっと現地の拠点の人を頼らないと」とか言われて、訳が分かりませんでした。

それ、あの時言ってくれよ。
OKって言ったでしょ、あの時。
何度も聞いたじゃん。
せめて、私だけを責める言い方やめてよ。
こういう時、ツワリンスキーは自分で言ったことややったことを本当に覚えていないのでした。ガチの記憶喪失。

手配をお願いしていた現地の社用車を、現地拠点の人の手違いで使えなくなってしまい、それを直前に知らされて計画を練り直したり、あの頃は仕事が本当に積んでいましたw

7月頭でしたが、ツワリンスキーの所業と激務でメンタルはかなり限界に近く、上司にも出張前に2、3回は相談していました。
あのおじさま、私の切迫した状況を本当に分かってくれなかったなー。環境を変えるとか言って、口だけ。「こうんは、もっと強くならないと」って煽ってくるし。期待するだけ損でした。状況の好転を期待して、裏切られた気持ちになって、こうやって人間不信は出来上がっていくんですよ。

彼の口癖は、「人生はロールプレイングゲーム。ダンジョンをクリアしていくようなもんですから!」でした。
ダンジョンじじい。


遠隔攻撃

緊張と不安に満ち溢れた出張でしたが、S先輩から離れて仕事ができるのは有難かったです。ここぞとばかりに、空港で仕事を進めました🔥
S先輩は数秒おきに話しかけてくるマシンガントーカーだったので、「よーーーうやく仕事を進められるよ( ;∀;)」という感じでした。

でも、出張中でもS先輩の秒単位チェックにさほど変化はありませんでした。電話かチャットがしょっちゅう飛んでくる。

必要な確認もあるけど、もう細かすぎない?みたいなものも多くて、ノイローゼになりそうでした。

一番揉めたのは、説明会の参加者名簿の管理。
某Gドライブを使っていたのですが、その公開範囲などについて揉めました。「IRは情報の取り扱いに十分注意しなくちゃいけない部署なんだから、こういうところでもそういう意識をちゃんと持ってください!」ってめちゃ説教されました。出張前も出張中も。あれ、私がシゴトデキナイせいか…?

細かい説明はできませんが、社内での情報のやり取りにあそこまでしなくてはいけない理由が分かりませんでした。
極秘の案件とか言って、その極秘のプロジェクト名、チーム名になって社内公表されちゃってますやん。なんなら、現地拠点の採用ページにちゃんと載っちゃってるやん。駄々洩れじゃんか。

基準がばらっばらで、足並みの揃っていない会社でした。ダブルスタンダードどころか、ハンドレッドスタンダード。その中で情報の秘匿性を守れー!なんて言われても、水をざるですくわされているような感覚でした。


現地拠点の人と話していて、電話が取れなかったときは、「どうして出なかったんですか?ちゃんと出てくれないと困ります!」ととても怒られました。弁明の余地なんて実際はくれないし、もう「はいはいすんません」と聞き流すしかありませんでした。聞き流せなかったけど。物理的な距離があることだけが、わずかな救いでした。

電車が来るって言っているのに、延々話し続けるし。
なんなんだ、ホントに。
電車の中でも、社用携帯とスマホをデザリングして常にカタカタしていました。「頼ってください。そのために私がいるんだから」みたいなチャットも来たけど、いやいや頼らせてくれないのお前じゃんか話通じねーな。といった感じでした。


社用車、擦る

2日目の夜、次の日の移動のため、現地の社用車を借りました。
急遽借りることになったもので、予定よりかなり大きいファミリーカーでした。乗るの2人なのに。

車は、私が運転することになっていました。
東京に行って9か月くらいになっていたので、運転はかなり久しぶり。慣れない大きい車。そのうえ、体も心もへとへと。フラグ立ちまくりでした。笑

その日は地元の秋田でした。
地元は隣の市だったので、大学時代にお世話になった下宿屋さんに私一人で泊まることにしていました。上司はホテル。この出張で、唯一の楽しみでした。

懐かしのあの場所で、下宿のおじさんに会えて、とても嬉しかったです。でも、狭い駐車場で、社用車のバンパーを擦りました( ;∀;)
おじさんに誘導してもらっていたんですが、ガガッという音が聞こえて、おじさんの「あー…」という声が聞こえました。

私「今ガッって言った!ガッって言った!おじさんどうなった!!??ひーん( ;∀;)」

おじさん「・・・」

おじさん曰く、あそこはみーんな擦るんだそうです。笑
終わったー・・・と思いました。

結果、「これくらいなら大丈夫だよー!」と部署の費用で直してもらえたのですが(まあ上司もそう言うしかない)、ただでさえ足手まといの私が、予算カツカツなのに思わぬ出費を作ってしまったことが、とても申し訳なく、心苦しかったです。ホテルではなく下宿に泊まったのも、私のわがままだし。

今思うと、何事にも失敗はつきものだし、そこまで自分を責める必要はありませんでした。でもあの頃の私は、自分を責めるのが習慣になっていて、自責の念を治める術を知らなかった。
独りのときの口癖が、「ごめんなさい」でした。
直前の出来事や一日を振り返って、「ごめんなさい」と呟くのがお約束でした。

おじさんも、仲間の車修理の人などに連絡してくれたりして、有難かったです。

翌朝、朝ごはんを食べながら、何かの拍子に涙がこぼれ始め、しとしと泣きました。おじさんは黙っていたので、ばれずにすんだかな?と思いました。
でも後日メッセージで、「楽しみ悲しみ生きて行くにはついてまわります。こうんちゃん涙拭いて前向きに進んでくださいね」といただき、あーばれていたんだな、と泣きました。

おじさんはあの時も、あの後もずっと気にかけてくださいました。ありがとうございました。


孤独な長距離運転

3日目の最終日は、秋田県内から岩手に車で移動し、社用車を返しつつ私は週末実家に帰るため、超長距離運転でした(上司は岩手から新幹線で東京に帰った)。

元々運転は好きなので、勤務中に仕事せずに運転できるのは嬉しかったのですが、秋田まで戻る帰りの運転は、とても長くて辛かったです。

幸いなことに、S先輩の遠隔猛攻撃は、最終日は少しは収まっていました。オンライン配信とかがなかったからね。

上司を岩手の駅に送り届けて、社内でS先輩に報告メールをして、何か上から目線のお疲れ様いっぱい学びましたね的な返信をもらった気がします。

ただ計画が少しずれてしまったり、ナビを上手く使いこなせなかったりして、予定時間までに社用車を返却できなさそうでした。
擦ってしまった上に、担当の方を残業させてしまうのが非常に心苦しくて、3時間超?ノンストップで車を飛ばしました。それでも遅れたし、担当の方は「大丈夫ですよ!」って言ってくださっていたんですけどね。

これを読んでいる皆さんは、心身くたくたであんな長距離運転しちゃだめですよ、絶対に。私はぎりぎり無事に帰れましたけど。

車に備わっているナビがたまにとんでもない道を指示してきたり、目を疑うような到着予定時刻を出してきたりするのは、最近の車も同じですかね?保険のためにスマホの地図アプリも開いておいて、無駄に翻弄されました。

道中は、音楽もラジオもかけずに運転していました。焦っていたし、音楽を楽しむ余裕は全くありませんでした。何も聞いていなくても、頭の中で常に「ごめんなさい」が反響していたり、週明け以降への不安がパレードしていたりして、眠くなることはありませんでした。

疲れて、つらくてつらくて、もはや何がつらいんだかもよく分からない状態で、途中からはボロボロ泣きました。マジで危ない。事故らなくてよかった。

社用車を返却するとき、ETCカード利用の記録を記入しなければいけなかったのですが、予定の高速インターチェンジから乗れなかったので、疲れ切った頭で地図を遡って確認したりして、とにかく最後まで散々でした。

社員さんが最寄り駅まで送ってくれて、そこから実家まで電車で帰りました。電車を待っている間、最後の力を振り絞って、出張のお礼と車を擦ってしまった謝罪のメールを、S先輩とJ上司に送りました。
電車のホームを勘違いしていて、最後階段を駆け上り電車に駆け込みました。乗れてよかった。一番最初から待っていたくせに、一番最後に慌てて乗るなんて、自分があほらしかったです。


到着駅までは家族が迎えに来てくれており、家に帰りました。21時は過ぎていたと思います。でも出張中は、残業代出ないんだよ。クソだよね。

家には医療従事者や高齢者がいたので、着いたらまず、準備してくれていた抗原検査キットでコロナウイルスの検査をしました。

家に着いた途端、疲れで涙がボロボロこぼれました。
安心、という感情があったかは分かりません。
とにかく疲れていて、もう何にもできる気がしなくて、
無表情で、ずっと涙をこぼし続けていました。

鼻水もたくさん出たので、検査には苦労しませんでした。笑

母の前で、しとしとと、泣き続けました。
「分からない、分からない」と言っていた気がします。
満身創痍でした。
それ以外あまり覚えていません。

1日目の夜に、J上司と二人でご飯を食べながら色々ゆっくり話して、今後のことは何とかできるだろうか、という僅かな希望は持っていました。
でも、明日が来るのが怖すぎて、やらなきゃいけない仕事が多すぎて、そんなほこりみたいな軽い希望では私の心は保てませんでした。

実際、J上司に出張が続いてしまったため、指示系統をJ上司に統一して私とS先輩の接点を無くすとかいう計画はすぐには実行されず、出張帰り3日目くらいで私が心療内科に行くことになるんですけどね。

その話はまた書こうと思います。


ここまで読んでくださりありがとうございました!

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