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読書感想文「『せんせい。』を読んで」

【映画「泣くな赤鬼」公開記念
エッセイ&読書感想文コンクール 受賞】
  大学入試の対策のために読書感想文を書くことを大学の教授におすすめされたので、コンクールを探して投稿したものです。
 短編集の中の『ドロップは神さまの涙』というお話について書かせていただきました。

 学校の先生をしている方に読んで頂けたら幸いです。

言わされた謝罪という暴力は無くならないのだろうか。

私はこの本を読むことで、封印して開けずにいた扉を開けてしまった。そうすると、一番傷ついていたのだと分かったのは、嫌がらせそのものではなく、その後の言葉であった。

いじめを意地悪と言ったカワムラさんと同じように私は今もなお、あれはいじめではなく嫌がらせであったと思っている。だって、私は何も間違っていないのだから。だから、私は悪くない。そう信じて、教室で戦った。そのたびに、先生は反省をしていない加害者に謝罪をさせた。時には面と向かって、時には手紙で。そういった対応をすることで先生は満足し、それどころか、被害者である私に対し、「なんで許してあげないの」と問題児化した。何故私が責められるのかわからずとても傷ついた。

けれど、今思えばあれはただの暴力だ。私たち被害者に残された「許さない」という武器すら奪うのだ。

言葉はとてつもなく大きい力を持つ。そして、それは使い方を間違えると大いに人を傷つけるのだ。それがどんなに善意から出たことであっても、相手に受け取ることを強制をしてはいけないのではないか。

作中に出てくる『クラスみんなからの謝罪の手紙』は立派な暴力であった。それを受け取るか受け取らないかは、カワムラさんが決めてよいことだと、ヒデおばは改めて伝えてくれた。受け取らないことを選ぶことを責められる必要はないのだ。

また、言葉の暴力によって「逃げる」ということすら許してもらえないことが往々にしてある。保健室に登校することを細川先生は困るという。来月には保護者会もあるし、個人面談もあるから、と言うことによって、正しいことを言っているように見せた。何の対処もしていないのにただその言葉を生徒に押し付けているという行為に気づかず、言葉を善意として投げかけている。これをぶつけられた者はとてつもなく痛い。けれど、一見は正しいことを言っているようである。だから、逃げることは悪いことだと思い込まされてしまう。これは一種の洗脳に近い。

だからこそ、ヒデおばの言葉にカワムラさんは救われたのだ。いつでも来ていい、自分がそうしたいのなら、と自身のことを尊重してくれ、逃げを否定しないでいてくれた。

私は、教室には行けないが学校には通う意思があった時に保健室登校をしていた。ある日、保健室の先生に「もう来なくていいんじゃない?」と言われた。その意図は今となってはわからないが、私は絶望的に傷つき、学校へ行かなくなった。

言葉は暴力になりうる。子供は思っているほど馬鹿ではなく、その言葉の棘に気づいてしまう。そのことを私たちは、理解して他者と対話していくべきだと改めて感じさせられた。

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