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低次元の贋作づくり

タイトルのまま・・

なんかデザイナーってのは、どこに屈することなく良質を生み出す勇気を持った人間を指すとずっと思っているのだが、それとは真逆と言えば良いか、世の中の出来事に必要以上の影響を受け(いや、影響を受けているというより迎合しているというべきか)それを企業の中にある制度や縦割りという狭き了見で“ヒラメ”に徹する・・それってと首を傾げてしまいます。

そもそもが低次元のものを世の中の中心だと言わんばかりに正当化し、つくり・・それを取り上げるメディア、どこも狂気、視点がずれ過ぎていて失笑ものです。
しかし、それを堂々と取り上げるのは端的に言えば“金のため”なのでしょう。
いや、その前にその贋作の元ネタが質の悪い“贋作”なわけですが、そこに注意のカーソルは向かないんだな・・まあいいか。。

ある日考えていて思ったんです。
金にならない、またはなり難いモノゴトが一番、社会に世界に必要なことだ、ということ。これをもう少し違った言い方をすれば、務めと稼ぎという分離された仕事のあり方とそれができて初めて一人前という日本に古くあった考え方が、稼ぎがそのまま勤めとして成立して、ひとつでしか語らなくなったことの弊害なのではないかとさえ・・
そんなことの再来を考えたところで、これが中々難しい時代になったものだとは思うから、個々人が悪いとまでは言えないと思うのです。
が、その反面、そういう風潮に順応することこそが生きる道、残る道だと思わされている影響、またはそれに徹することでただこなすだけを覚えた個々人には少々吐き気を催さずにはいられません。
こんなことを言うと老害とか言われかねませんが、僕はやっぱり現代社会にあるあらゆる物事に違和感しか感じていないのです。
手間暇を惜しみ、大切なものを金にならないからと切り捨て、即座に結果が出るものばかりに目を向けるその態度が、この国を一歩、また一歩と終焉に向けてひた走らせている原動力だと思っています。

何かもっと猥雑と言えば良いかあらゆる場に潜むそう言う類のものを解放しごった煮にするような空間があるべきです。静寂とは正反対にある雑沓・雑音が容赦無く押し寄せる中から生まれる何かの方が余程、創造性に磨きがかかるのではないかと思っています。
あるバイアスで高く聳え立つ壁だらけのキレイや効果のあるというもっともらしいデータを並べ立てて出来上がる醜い空間より、あらゆるバイアスのない勝手気ままないつ何時にも解放された空間に集積される圧倒的アンバランスなバランスからの連想の方にこそ創造は宿るのだ、と・・

ま、僕などがそんなことを言ったところで、一緒にやりたいとはならないのが現実でそれが苦悩であり、創造の源泉であるわけですが😂

何の変哲も無い冷凍鯛焼きを両面カリッとするように焼くと香ばしく美味です

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