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人間の回復のために不条理をあえて選ぶ Ⅰペテロ3章17-18節

2022年5月15日 礼拝

【新改訳改訂第3版】
Ⅰペテ
3:17 もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。

κρεῖττον γὰρ ἀγαθοποιοῦντας, εἰ θέλοι τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ, πάσχειν ἢ κακοποιοῦντας.

3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

ὅτι καὶ Χριστὸς ἅπαξ περὶ ἁμαρτιῶν ἔπαθεν, δίκαιος ὑπὲρ ἀδίκων, ἵνα ὑμᾶς προσαγάγῃ τῷ θεῷ, θανατωθεὶς μὲν σαρκὶ ζῳοποιηθεὶς δὲ πνεύματι:

MiVargofによるPixabayからの画像


| はじめに

前回は、クリスチャンとして生きる奴隷や女性たちの虐げられた現実の中で、どうクリスチャンとして生きてきたのかについて見てきました。奴隷や女性という立場は、発言すら困難であり、虐げられたとしてもそれを直訴する手段さえ皆無でありました。また、迫害する者たちから訴えられるということも生じていたようです。法廷の場、あるいは、処刑場であるコロッセウムの中で、正しさを弁明すること、つまり証しをすることをペテロは求めました。なぜ、正しく弁明することを望んだのかといいますと、訴えた者たちが偽善であることが看破されてしまうからです。今回は、今までのペテロの非暴力による正義の主張への効果と影響について見ていきたいと思います。

| 不条理が現実であった古代ローマ

奴隷制という人権という概念のない古代ローマでは、私たちが生きている社会では考えられないような虐待や抑圧が社会の常識でした。現在に生きる私たちにとっては異質な社会ですが、それでも一定の合理性がありました。ローマ市民の生活を支えるために、奴隷は多用され、さしずめ現代の家電やインフラを奴隷が担っていたからです。人によっては奴隷を人として扱う主人もいたでしょうが、雑に扱う、人としてみなさない主人のほうが大方であったに違いありません。こうした奴隷に対する人間観は、これほど人権が強く叫ばれてはいる現代においても存続している現実があります。また、日本においても、様々なハラスメントを見る限り、古代ローマとは縁がないとは言い切れないのが実情でしょう。これが、人間の根底に横たわる罪という問題であり、未だ解決できていない人間世界の課題であるのです。

ところで、クリスチャンは、はじめはユダヤ人が多く、礼拝や生活面ではユダヤ教のしきたりを守っていました。しかしユダヤ教徒は、イエス・キリストが神の子でであることを否定し、彼らへの敵意を強め、キリスト教の成立直後からしばしば迫害を行ないました。パウロをはじめとする使徒たちやクリスチャンたちの宣教によって、ギリシア人の下層民や女性、解放奴隷や奴隷などが異邦人の中から改宗者となっていきますが、一般のギリシア人・ローマ人にとっては初めはユダヤ教徒とキリスト教徒の区別がつかず、ユダヤ教、キリスト教のどちらもローマ帝国の多神教を拒み、彼らの信じる神々と皇帝の像を礼拝を行わないところから、都市の政治や社会生活にとけ込まない忌まわしき人々と見られていました。

66年〜70年のユダヤ戦争によって、これに加わらなかったキリスト教徒とユダヤ教徒が異なることが認識され、異なる信仰であることがローマ帝国内で明確になってきました。一見すると、キリスト教はローマ帝国内にあっては、急進的な動きをしたユダヤ教とは異なり、穏健派として歓迎されるかのように思われるのですが、そうではなく、キリスト教徒は、偶像礼拝を拒むだけでなく、人の肉を食べるなどの忌まわしい行為を行うカルト宗教であるという噂が広がってきました。こうした誤解といわれのない中傷によって、クリスチャンは忌まわしい存在であるという認識があって、皇帝ネロの時代の64年ローマ大火が起こり、キリスト教徒がその犯人として処刑されていきます。

| 不条理も神の御手のうちにあること

3:17 もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。


皇帝ネロは、ローマ市の再開発を円滑に推進するために、クリスチャンへの悪評を利用しました。

ネロの政策は光と影がある。ローマの大火後にネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策実行、ローマ市の再建は市民に受けがよかった。ネロに批判的だったタキトゥスも、「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と記している。当時のローマ市内は木造建築がメインだったが、大火以降にネロが建築したドムス・アウレア(黄金宮殿)は、ローマン・コンクリートの普及に一役買っている。また、ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれた。ただし、この大火もネロ自身が裏で暗躍し、自分好みの街を作りたかったという望みから起こされたとも言われている。この当時の文献はローマ博物館に寄贈されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ネロ

ネロは、ローマ市民が抱いていたクリスチャンへの悪感情をうまく利用しました。その一つとして、国民に対して、クリスチャンたちを迫害することで、大火の犯人たちとされたクリスチャンに対して報復ができたと溜飲を下げる効果がありました。これは、国民のネロへの支持を上げます。
第二に、大火に強いローマ市を建設し、その復興の主導をネロが行ったということで英雄になれるわけです。しかも、自分好みの都市計画を推進できるという一石二鳥以上の効果があったと言わざるをえないでしょう。

ネロが行ったクリスチャンへの迫害というものは、どう見ても不条理としてしか映りません。彼の政策を推進するために大火を起こし、その主犯としてクリスチャンが利用されたという構図です。現代に置き換えれば、巨悪のなにものでもありません。為政者はしばしば、こうしたレトリックを使って、悪者を仕立て上げ、事実を歪曲し、不正を捏造し、自分たちに有利な情報を世間に拡めることで自分たちが有利になる状況を作り上げてきました。不条理というものはこういうことです。その不条理の根本的な動機というものは、自分の名誉や権力、経済の過度の集中からくるものでした。つまり、自己愛の偏重が他者への虐げにつながっていきます。

こうしたローマの大火以前の不穏な状況を察知していたペテロは、日増しに高まるクリスチャンへの迫害の足音を耳にしながらも、非暴力と弁明という言論に訴えることで、不条理に立ち向かうべきであるということを読者に訴えます。ところが、現実はどうであったのかといえば、そうした弁明も役に立たず、却って苦しみを受けるということが繰り返し行われたに違いありません。何百何万といった殉教者の血が証言していることは、まさにこうしたことでしょう。

Ⅰペテロ3:17
もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。

新改訳聖書第三版 いのちのことば社

『神のみこころなら、善を行って苦しみを受ける』とペテロは語りますが、善を行って苦しみを受けるということは、直接的には神のみこころではありません。しかし、神のご計画という観点から見ますならば、『善を行って苦しみを受ける』ことは神のみこころに含まれるということを、私たちはおぼえなければならないでしょう。

私たちは、神のみこころは善やより良い方向になされると思うのが普通です。しかし、神の特別なご計画というものがあります。それは、聖徒の苦しみを通して全体の益となされる場合です。この記事の場合は、ローマ帝国の常識を変えるために、人間が人間のあり方を正しく学ぶために、迫害という恐ろしい悲劇が用いられたということです。迫害の当事者たちにおきましては、納得できないことだったかもしれません。しかし、それでも、彼らはペテロの言葉を信じて、迫害の道を進んでいきました。
その結果、多くのクリスチャンの犠牲が生まれましたが、そのことによって、ローマ帝国を支えていた奴隷制が崩壊し、古代が終わるということにつながっていきます。

| 犠牲の死の意味

Ⅰペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。


もし、クリスチャンたちが、世に迎合し、皇帝礼拝を行い、神々を拝んで自分たちの信仰を曲げたとしたらどうなっていたでしょうか。ローマ帝国内において、クリスチャンはローマ帝国の友となり、ローマの神々の一つとしてイエス・キリストも祀られ、クリスチャン以外の多くの人の参拝を受けたに違いありません。そうなれば、世間的には、理解されることで危険視されることはなかったかもしれません。ところが、彼らはそうしませんでした。脱落していった人たちがいたことをパウロは伝えていますが、当時のクリスチャンたちの多くは、偶像礼拝を断固として拒否したのです。
そのことが、奴隷制の解放をもたらし、神のもとにおいては人は区別がないという思想が広まります。これでもし、偶像礼拝をしたならば、こうした西洋思想の根幹にある人間の平等の思想が欠落したままであったことでしょう。差別は当然、人間には階層があって然るべきという考えが、今も世界に重く横たわっていたに違いありません。
そうした、人間性の真の回復をもたらしたものは、イエス・キリストの十字架でした。

エペ 2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

新改訳聖書第三版 いのちのことば社

イエス・キリストの十字架がなかったとすれば、人と人の間に分断が放置されたままであったと想像できます。キリストが受肉し、十字架にかかり人々の犠牲になったことで、神と人間との和解が果たされました。
まずは、神と人との間にイエス・キリストが介入したことによって、この分断が断ち切られます。こうして、神と人との交わりが回復することで、人と人との真の結合が果たされていきます。
イエス・キリストを信じて、罪を悔い改めることで、私たちは、神との交わりを回復することで、人間と人間との関係の回復が可能となるのです。
人間と人間の関係の回復は、分断や差別といった人間を切り離すことからの回復です。もし、これで、イエス・キリストがいな方とすればどういうことになったでしょうか。人と人とは、たとえ言葉が通じたにせよ、真の意味で交流できない存在へと固定化されたに違いありません。この結果、人間同士理解できない存在へと堕落し、人と人との間に隔ての壁が生じるという事になったことでしょう。
それだけではありません。隔ての壁の固定化は、人間存在への否定に繋がります。人間存在の否定は、人間社会の否定にもつながる考えともなり、古代ローマがそのまま存続し、力をつけていくとすれば、いずれは、支配のために殺戮が繰り返され、人間の社会自体存続し得なくなる事態にまで発展したのではないでしょうか。
こうしたことも、イエス・キリストがあえて古代ローマの時代に遣わされた意味があるのではないかと思います。

| 真の人間性の回復に遣わされて

古代ローマ時代のクリスチャンたちが、自分たちの置かれた状況を見て、まさか国を変えるために存在していたとは考えもつかなかったと思います。しかし、彼らの純粋な信仰は、国を変え、国を支えていた奴隷制を崩壊に至らしめます。すなわち、人権の確立のきっかけとなっていきました。私たちが現在享受している民主政治にしろ、男女同権や人間の平等という観念は、そうしたものを意図していなかった、クリスチャンたちの多くの血によるものです。こうした土台の上に今の現代社会があり、日本社会があるということをおぼえなければなりません。多くの流された血によって、私たちの自由があり、権利があることを知る必要があります。
救いとは、信仰上のことにとどまるものではありません。人間の全領域にわたって、人間全体の発展と貢献に結びつくものです。私たちの救いは小さな自分だけのものと思う人もいるかも知れません。
しかし、私たちの救いは、周囲を変え、まだ宣教されていない部分において私たちはジグソーパズルのように神からの使命を受けていることをおぼえなければならないでしょう。
たしかに、信仰生活において、平安がもたらされるのは当然ですが、時として、戦いが必要となる時もあります。私たちは、祈りの武具と御言葉に支えられながら、信仰を通して、正しく世に伝える責務があります。世の誤解と中傷の犠牲になることもあるかもしれません。けっして辛いことがないとは言えません。
しかし、そうしたときにおぼえて頂きたいのは、主イエス・キリストが私たちの模範を残したということです。
イエス・キリストの苦しみが、私たちの模範であり、慰めであるということです。