2022年アドベント第4週 信仰と希望と愛 『キリストに生きる』Ⅰコリント13章13節
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2022年12月18日 礼拝
Ⅰコリント
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
はじめに
今週でアドベントも終わり、来週はいよいよクリスマスですね。今年のアドベントは、『信仰と希望と愛』と最初のアドベントとの関わりを見てきました。今回は、その中心であるイエス・キリストをとりあげていきます。
信仰と希望と愛の中心──イエス・キリスト
『信仰と希望と愛』をそれぞれのアドベント週に分けてご紹介しましたが、その中心は、キリストであったということでした。
『信仰』(ピスティス)
『 イエスがメシアであるという確信または信念 、 キリストを通して神の国の永遠の救済を得るという確信』であり、何を信じていてもいいというものではありません。キリストが救い主であるという確信が信仰でした。
『希望』(エルピス)
明るい未来を期待する、未来に望みをかけるという意味ではありません。それは、『神が予定し、神が後の世に必ず実行に移されることを待つこと』という意味であるということです。
私たちが想像する未来のような曖昧で不確かな期待を示すことではなく、神が準備しておられる救いの成就を待つ期間に対する疑うことのない姿勢を『希望』というのです。
『愛』(アガペー)
聖書の愛(アガペー)とは、私たちが抱く愛情とは意味を異にしています。アガペーとは、『愛される価値のない者を愛する愛』という意味があります。愛される価値のない対象を、愛してくれるという意味です。つまり、好きとか嫌いとか、価値があるなしに関わらず、神が私たちを選んで愛の中に加えてくれるということが聖書の愛アガペーに意味です。つまり、私たちが人々の目に価値のない者として映ったとしても、神は私たち一人一人を尊重し、「価値のない人間を価値ある者」と認める権利が付与されるという意味を持ちます。
マリヤとヨセフらが目撃した最初のクリスマスの当事者たちは、こうした『信仰と希望と愛』によって生きていた人たちでした。『信仰と希望と愛』の中心にあったのは、『イエス・キリスト』であるということです。
一番優れているのは愛
クリスマスは神の愛の実
ところで、Ⅰコリント13章13節には、
愛(アガペー)が一番優れていると記しています。
イエス・キリストの誕生は、神の愛の実践でした。そのお生まれを見ると、神の愛がいかなるものであったかがよくわかります。
イエス・キリストはその誕生から波乱がつきまといました。
ルカによる福音書を見ますと、イエス・キリストが誕生する直前に、ローマ皇帝のアウグストゥスの勅令によって、ローマ帝国全土の国民に向けて住民登録をせよという命令が下ります。その命令とは、本籍のある町に行って登録をしなければならないというものでした。
マリヤが住んでいたのは、ガリラヤ湖の近くのナザレという町でした。
そこから、ヨセフの先祖ダビデの故郷であるベツレヘムに行かなければならないというものでした。
ナザレからベツレヘムへの行程
臨月が迫ったマリヤにとっては、起伏の激しい道の旅は過酷であったでしょう。最短ルートでも150キロメートルの旅をおよそ、一週間ほど続けなればならなかったのではないでしょうか。
おそらく、この勅令は前もって伝えられたものではないように思われます。
ベツレヘムに到着しても、宿屋は満室で行くところがなかったようです。前もって告知がされれば、こうした混乱もなかったと思われますが、突然国民に布告され、すぐにも登録しろという勅令であったようです。
この勅令が命じられて、多くのユダヤ国民は国を揺るがすほどの騒動であったに違いありません。帝政ですから、民主主義のように反対派の意見などというものは通用しません。当時のローマ皇帝の一声は、神の声でしたから、逆らうわけにはいきません。逆らった途端、ローマ兵に拉致連行され、挙句の果てには暴行、殺害といったことになったでしょう。
全世界の救い主、メシヤの誕生とはいえ、ローマ皇帝の命令には逆らうことなく、従わざるを得なかったということでした。
旅の道中については聖書は何も語っておりませんが、その道中も平坦ではなく、宿を求めても、どこも満室で空きがないという状況の中旅を続けていかなければならなかったでしょう。
ベツレヘムにようやく到着をしましても、マリヤは臨月を迎えており、いつ破水してもおかしくない状況でした。ですから、ヨセフは慎重には慎重を重ねたでしょう。山がちのイスラエルを考慮して、なるべく平坦な道を選びながら、どの人よりもゆっくりと旅をしていったのではないかと思います。ヨセフの頭には、いつでも出産に用意できる準備というものもしていたに違いありませんから、携える荷物も余分に増え、到着には余計に時間が掛かったものと思われます。
ですから、無事にベツレヘムについたとはいえ、その道中は常に、妻マリヤへの心配がつきまとっていたと思われます。到着時間というものも、おそらくは決められており、その期限を過ぎると受け付けない、あるいは罰則が加えられるということもあったでしょうから、ヨセフにとっては様々な心配が胸中にあったと思われます。
なんとか、破水もせず、ベツレヘムまで持ちこたえましたが、ベツレヘムにやってきますと、北の辺境の地であったナザレから来たということで、遠方であったわけです。しかも、妊婦を連れての旅ですから、当然遅くなってしまうわけです。ベツレヘムで住民登録をする人のうちで最も遅く到着したのではないかと思います。若者であれば、さっさと登録を済ませて、もう自分の家に帰ってしまった人もいたでしょう。ヨセフとマリヤが訪ねていった宿屋は、おそらく、遠方に住んでいた人々や、からだの利かなくなった老人や幼子を連れた家庭などで埋め尽くされていたに違いありません。
ヨセフとマリヤは、ベツレヘムで住民登録をした人たちのしんがりであったのではないでしょうか。
こうしてみると、イエス・キリストは、その生まれる直前まで、あらゆる人の最後となってくださっていたということです。
宿屋がなかったということですが、言い換えれば、私たちにその住むところを提供してくださったという意味にもとれます。
メシヤであるイエス・キリストはその生まれる前であっても、私たちに優先権を与え、あらかじめ住まう場所を提供してくださるということを行われました。
イエス・キリストが生まれた場所は、『飼葉おけ』と記されています。
わかりやすく言えば、家畜小屋の中ということです。多くの人のイエス・キリストの御降誕のイメージはこのような写真だと思います。
ところが、当時の家畜小屋というものは、崖に横穴を掘ったものであったということです。しかも、飼葉おけというものも石をくり抜いて作ったバスタブのようなものでした。イエス・キリストの生まれた時期がいつであったかは、わからないのですが、冬でなかったことは事実であるようです。
冬でなかったことは幸いかと思いますが、季節を問わず、湿気に満ち、家畜の便臭が漂い、唾液や糞尿がついた飼葉おけに寝かされたということは、衛生面で劣悪と言わざるをえません。
また、母マリヤにとっても、出産する際、感染症など考慮した場合、家畜小屋で出産というのはありえないことです。
イエス・キリストというお方は、人間以下の扱いを受けて、人間が享受する権利すら奪われた誕生であったわけです。
ある意味、イエス・キリストは虐待下にあったわけです。そのお生まれを私たちは、尊び喜び祝福する。これが最初のクリスマスの真実です。
アガペーは自己犠牲の愛
なぜ、そのような出生をしたのかといえば、神の御子キリストは、私たちの救いのために、自ら進んでいのちをお捨てになった自己犠牲の愛をその生まれから果たされた事実を物語っています。
救い主であるイエス・キリストは、報酬を求めないどころか、自分を犠牲にする愛をそのお生まれから示されました。
その十字架の死においても、イエス・キリストは敵を赦し愛することばでした。
アガペーの成就
さらにキリストは旧約聖書をまとめて、神への愛と人への愛がその中心であることを説いており、
イエス・キリストが、その旧約聖書を全うし成就したお方であることを公にしました。
パウロは、ローマ書13:10節で「愛は律法を全うする」と語りましたが、
その愛とは、イエス・キリストご自身を示しています。
イエス・キリストは、そのお生まれから、私たちにその道を譲り、自分が受けるべき場所を提供し、自分を蔑みの場に置いたお方です。
クリスマスにあなたは何を見るでしょうか。私たちにアガペーを与え、アガペーを見せ、アガペー行われたイエス・キリストを見つめていただきたいのです。
イエス・キリストは、私たちに「互いに愛し合うように」(ヨハネ13:34)と語られました。その愛とは、アガペーです。つまり、「私たちに対するキリストの愛のような愛」をもって互いに愛し合うことを命じています。
このキリストのこの言葉は、キリストがお生まれのときに見せた、神からの人への積極的な愛(アガペー)を示したことばです。キリストの積極的な愛をクリスマスにおいて私たちに示した以上、私たちも、このイエス・キリストの愛のことばによって生きたいものです。
この言葉を胸に秘め、私たちがこの世に向かう時、本当のクリスマスが私たちから始まるのです。