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正しく発信する勇気 Ⅰペテロ3章16節

2022年5月8日 礼拝

【新改訳改訂第3版】
Ⅰペテロ3:16
ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

ἀλλὰ μετὰ πραΰτητος καὶ φόβου,συνείδησιν ἔχοντες ἀγαθήν, ἵνα ἐν ᾧ καταλαλεῖσθε καταισχυνθῶσιν οἱ ἐπηρεάζοντες ὑμῶν τὴν ἀγαθὴν ἐν Χριστῷ ἀναστροφήν.

| はじめに

受難節とイースターを挟んで、Ⅰペテロの講解が中断しましたが、前回の3章15節を振り返りたいと思います。

ペテロが15節で伝えた背景には、古代ローマの経済活動が奴隷制度によってもたらされていたことがあるということでした。同時に、女性の立場も非常に弱く、常に主人に隷属しなければ生活を営めないという背景がありました。そうした奴隷や女性といった社会的弱者に拡大していったのがキリスト教でしたが、当時の社会情勢を変革するまでの影響力に乏しかったというのが現実でした。

そうした、背景もあって、信じてはいても、虐げられた現実は信じる以前と何ら変わることはありませんでした。
しかし、ペテロが求めたことは、社会の変革や改革、ひいては力による革命といったことを要求するものではありませんでした。
ペテロが当時の古代ローマに生きるクリスチャンに求めたことは、自分の周囲を変えるといったことや、社会を変えるといったことではなく、自分自身の変革でした。

当時は、現代の先進国とは異なり、言論の自由といったものは期待できません。なぜならば、皇帝を頂点とする徹底した上意下達の専制政治の社会でした。その社会というものは、支配者身分が、被支配者身分層を独断的に統治する政治であり、 支配者層と被支配者層とが身分的に分かれていた社会であったわけです。

こうした社会に特徴的なのは、身分的支配層が被治者と無関係に営む統治の社会でしたから、社会的弱者の声は当然のことながら、支配層には到達することはありえません。
不満を抱えていても、その不満は封殺されるか、黙殺されるということが当たり前の社会であったわけです。

ですから、信仰を持ったとしても、キリスト教を伝えることには困難があったことは想像に難くありません。特に奴隷や女性のクリスチャンが、主人に対して信仰を伝えることは相当に難しかったでしょう。
主人を代表する身分的支配層は、ローマ社会を護持するという役割もありますから、神殿でローマ神話の神々に対する礼拝や、皇帝礼拝を行うといった宗教行為を進んで行うなど、クリスチャンからすれば、これほどアウェーな社会はなかったのではないかと思います。

そうした極めて困難な立場に追いやられていたクリスチャンたちが信仰生活を継続するためには、前回紹介したように

聖霊によって私たちの心に注がれていると教えています。つまり、私たちは、希望が常に神より泉のように注がれていることが明らかです。こうした希望が注がれている事実を周囲の人は感じ取っていることを忘れてはいけません。私たちはクリスチャンらしく振る舞うといったことを意識するのではなく、主をあがめる信仰があるなら、人々は私たちのうちに主がおられることを認めるのです。

https://note.com/crucifice/n/nb206b513f3cf

心のなかで主をあがめることがもっとも大切であることでした。この主イエスをあがめることが、自分を変革し、罪に染まりやすい私たちへの霊的な革命であると私は考えますが、この結果、周囲が変わり、社会全体が変わっていく鏑矢となるということです。

| 力に訴えても何も生まれない

 古代ローマ社会というものは、ある意味完成された、言い換えれば硬直した社会制度にありました。そうした社会制度を守り、継承し、護持することが社会の目的でした。こうした硬直した社会制度の犠牲になるのは、奴隷や女性、占領された国の人々といった物言えぬ社会的弱者たちでした。虐げられた人々の嘆きは、伝えれらることはほぼありません。しかし、そうした人々であっても、自分たちの自由と権利の回復を求めて暴動を起こす、反乱を起こすということがなかったわけではありません。支配層たちに一矢を報いようとする行為から、人々への自由への渇望が見えるのです。

圧政に耐えかねて奴隷たちが大挙して、暴力に訴えるということが、奴隷戦争というような形で表出したのですが、中小の暴動は枚挙にいとまがないほどでした。聖書の中にもローマに対する反乱について記された箇所があります。

使徒の働き 5:37
その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。

新改訳聖書第3版
いのちのことば社

特に、1世紀頃のユダヤでの動乱は凄まじく、徹底的にエルサレム神殿を破壊しなければならないほどの動乱がありました。詳しくはヨセフスによるユダヤ戦記が有名なところですが、ユダヤ人たちの徹底したローマに対する抗戦とローマ軍による鎮圧が記されています。

パクス・ロマーナ(ローマの平和)という言葉がありますが、この平和というものは、圧倒的な軍事力によって、自由を求める人々を抑圧下においたことを意味するものでした。

言い換えればローマ社会というものは、暴力によって維持され、暴力が権威であるということでした。当然、抑圧される側からすれば、目には目を、歯に歯をという気持ちになることは理解できますが、ペテロはそうは言いません。

ペテロは、何と言ったのかと言いますと、

Ⅰペテロ3:16
ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。

新改訳聖書第3版
いのちのことば社

と語るのみでした。『優しく』と訳されたπραΰτητος(プライテートス)ですが、柔和という意味を持ちます。詳しく見ていきますと、単に『優しい」ということではありません。自分の権利を放棄し、神の御心を行う姿勢が、優しくという言葉だということです。

プライテートスは、アリストテレスによって、怒りに早急なことと、怒るのに遅すぎることのちょうど中間の均衡のとれた状態と定義されています。
つまり、プライテートスは、主によって達成された「魂の織り込まれた恵み」(R. Trench, 152)、すなわち「神の支配下にある力」(Wm. Barclay)なのです。プライテートスは、強すぎる力と十分でない力という二つの極端な状態を避けている。 プライテートスは、しばしば個人的な権利を放棄することを必要とします-主にとって正しいことをするために。
モーセは「プラユス・スフォドラ」(「非常に柔和な」、民数記12:3)と呼ばれています。 これはモーセが神の御心を行うために、自分の意志に従って行動する特権を放棄したことを強調しています(ガラ2:20参照)。

The Discovery Bible
http://thediscoverybible.com

ですから、ペテロが『優しく、慎み恐れて』ということは、主人や
支配層に対して、恐怖に怯えて事をなすということではなく、主の権威に対する敬意と崇拝をおぼえて弁明をするということです。

| 悪口を言われて当然

ところで、私たちは、悪口や中傷を受けないように心がけているかもしれません。しかし、そう心がけていても、悪口や中傷は決してなくなりません。すべての人は罪人だからです。

この節がなぜ書かれたのかと言えば、クリスチャンに対して、支配層である人々や、クリスチャンでない人たちが、悪人のようにクリスチャンを中傷したり、クリスチャンの良い行いを誤って非難する者に対して、善を行うことが、最大の武器であり、神の御心だということです。そのためには、神の御前において正しい良心を持つことだというのがペテロの主張です。

ペテロが、この世に打ち勝つ秘訣として下記を提唱しました。

  1. 良いことに熱心になる

  2. 義のために生きること

  3. 主を聖別すること

  4. 柔和と恐れを持つこと

  5. 正しい良心を持つこと

  6. クリスチャンとしてふさわしい会話を持つこと

この言葉は、1ペテロ2:12とまったくおなじですが、
何度、繰り返しても良い秘訣ではないでしょうか。
私たちは、忘れやすいのです。
繰り返すことで、私たちの行いと言葉と思考が身についてきます。これも大事な訓練です。おろそかにしてはいけません。

こうした、心の鍛錬を経て、私たちは練達したクリスチャンとして整えられていきますが、その結果、何を報いとして得るのかといいますと、決して良いことばかりではありません。
人の悪意によって、皮肉を言われたり、中傷を受ける、場合によっては制裁を受けるということに直面することだってあります。しかし、私たちは、善を行うことに飽いてはいけません。主を崇め、主とともに歩むのです。
そこに私たちの平安があり、この世での安住の地がそこにあるのです。

| 地の塩として

そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

新改訳聖書第3版
いのちのことば社

ところで、『ののしる人たち』と訳されているἐπηρεάζοντες(エペーレアゾンテス)は、直訳を「脅迫、罵倒」という意味を持ちますが、正しくは、悪口をいう人の意図に沿って、脅迫や言いがかりを使って威嚇することを意味します。つまり、 これらの卑怯な手口は、誰かの評判を落とすために行うことです。さしずめ、現代流に言えば、フェイクニュースやデマをされた上に脅迫されるというハラスメントにあたる意味です。

こうしたハラスメントを受けたクリスチャンたちが、執政官の位を持つ属州統治者の法廷に立たされることがあったことをペテロは念頭において、この節を書いていると言います。まさに、イエス・キリストが、十字架に架けられる前に秘密法廷に立たされ、尋問を受けた時の様子を想起させますが、当時のクリスチャンたちも主イエスとおなじように、いわれのない嫌疑をかけられ、法廷に引き渡されたようです。

何も言えない、封殺された言論の自由すらなかった、社会的弱者たちが唯一証言できた場が法廷でした。その法廷に引き渡されるということは、証しができる唯一の場でもありました。その機会を捉えて当時のクリスチャンは自らの証言台に立ったということです。

そうした中で、ペテロがクリスチャンたちに望んだことは

Ⅰペテロ3:16
ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。

ということです。主人や支配層に対して、恐怖に怯えて事をなすということではなく、主の権威に対する敬意と崇拝をおぼえて正しく弁明をするということです。正しく行えば、仕返しもあるということでさらに恐怖におののくということもあるかもしれません。
しかし、ペテロが念頭においた場所を考えてください。法廷です。つまり、明るみに出される場であるということです。

不正があったときの態度

不正や問題があったときに私たちは、どうするのか。人の顔を恐れて、何も言わないでいるべきでしょうか。そうではありません。伝えるべきことは、明るみに出すこと。その場で言わなければならないことは言うこと。それも、客観的に、御心に沿った正しい良心に基づいて証言することです。

確かに、真実を伝えることは勇気がいることです。しかし、私たちは世のしがらみにとらえられてはいけません。
言わなければならないことは言う姿勢。
これが過去の幾多の名もなきクリスチャンがしてきたことです。

自分の罪を見ると、人のこと言えないのではないかと矛を収めてしまう、なんとなく、その場の空気を乱さないようにしてしまうということもあるかもしれません。しかし、言わなければならないことというのは、自分の身の回りの世界にかならずあると思います。職場や学校、社会を腐らせる問題、腐敗等々こうしたものに巻かれ、霊的に居心地の悪い状態を温存することは果たして賢明なことでしょうか。

地の塩、世の光として遣わせられている私たちです。
この社会の不正、不義に対して言葉をはばかってはいけません。
正しい良心をもとに発信していく責務をも負っているのです。