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まど・みちおさんの響き。桜の──。

庭で、小さな水仙が花を咲かせました。たんぽぽも咲きました。踊子草やオオイヌノフグリも、あちこちの空き地をやさしいお花畑に染めあげています。
東京では、もう来週には桜も開花するようです。お住まいの地域によって、春の訪れ、時間差があるとは思いますが……心がやさしく彩られる季節が近づいてきました。

この季節になったら、ご紹介したいなあと思っていた詩があります。
たくさんの詩のなかでも、いちばん好き!と声を明るくしていえる、大切な詩。
まど・みちおさんの「さくら」です。

「さくら」    まど・みちお

 さくらの つぼみが
 ふくらんできた

 と おもっているうちに
 もう まんかいに なっている

 きれいだなあ
 きれいだなあ

 と おもっているうちに
 もう ちりつくしてしまう

 まいねんの ことだけれど
 また おもう

 いちどでも いい
 ほめてあげられたらな・・・と

 さくらの ことばで
 さくらに そのまんかいを・・・

桜の言葉で、桜にその満開を……ほめてあげる。
いつか、そんなことのできる人になれたらいいなと、真剣に願っています。
そのためには、どうしたらいいかなぁ……。
まだ桜は咲いていないので、ひとまず庭の水仙の前にしゃがみこんで、その声をきいてみたいと思いをめぐらせます。

少し前に、わたしの記事でもご紹介したたまはるキネシオロジーさんのご投稿によると、「植物は声を発している。そして、その周波数は、わたしたち人間の可聴域よりはるかに高い」のだそうです。
だとしたら、自分の周波数を上げてみたらどうかしら。

自分自身の周波数を上げることと、可聴域とはまた別のものかもしれませんが……ひとまずできることをしてみます。
周波数を上げるには──これはわたしのやり方なのですが、イメージの中で、自分を回転させてみます。
自分を独楽のように勢いよくまわしてみる、という感じでしょうか。
とはいっても、イメージするときに、自分の体そのものがまわっていると感じる必要はありません(それだと、なんだか目がまわりそうですよね!)
自分のまわりに大きな透き通った球体があると想像したり、逆に、体の真ん中に小さな球体があると思い浮かべたりする。そして、それを独楽のように高速回転させてみる。球体ですから、地球のように、といいかえてもいいかもしれません。もちろん、球体でなくて、別の形を思い描いてもOKです。

これは瞑想の一種ともいえ、とても氣持ちが落ち着きます。回転することで軸ができ、自立する状態がつくれるので、何かに寄りかかりたくなる不安感から自然と解放されていきます。
短い時間で、どこででも簡単に試してみることのできる、心のお薬です。
お花見の季節、桜の枝をみあげながら、ふと思いだしていただけるようなら……とても幸せです。

さて、まどさんのこの「さくら」の詩を、先週、大好きなクリエイターのけいさんも、記事でとりあげていらっしゃいました!
とても素敵な記事でしたので、そちらをぜひご紹介させてください。

数年前
こんまりさんの
お片付けメソッドで
本コーナーを
片付けていた時

ときめくか
ときめかないかで

楽々ときめいて
残っている本

こんな書き出しで、まどさんのご本を紹介されています。

けいさんの書かれる文章は不思議です。
読み始めると、そこに並んだ文字からきこえる言葉と同時に、しんとした「きこえない音」が響いてくるような氣がして……よくよく耳を澄まさなければいけない氣持ちになります。
「きこえない音」に耳を澄ます──。
なんだか、まどさんの「さくら」の詩みたいですね。

けいさんの文章からそういう印象を受けるのは、もしかして、けいさんご自身が、この世界に対して、よくよく耳を澄ませながら生きているからではないかしら──。
けいさんとおつきあいしていると、そんなふうに感じます。
記事を読んでいてもそう思うのですが、けいさんのコメント──他のクリエイターさんのコメント欄に残されるけいさんの言葉からも、わたしはいつも、けいさんの「きく力」を感じています。
なんというのでしょう、相手の言葉、そして言葉には表されていない「きこえない音」にまで、丁寧に耳を澄ます力。
そして、ききとったそのままを、そのままの言葉で相手に伝える力。
それって、まどさんの言葉をお借りするなら、「相手の言葉で相手をほめてあげる」──そういうことじゃないかしら!

ああ、素敵だなあと思います。
桜の言葉をききとれるようになる前に、わたしももっと、人の言葉に耳を澄ませる──そういう人になりたいなあと思います。
きこえる言葉にも。
きこえない言葉にも。
よくよく耳を澄ませる人になりたい。

桜の言葉や、植物の声に限らず、誰かの心や、誰かの書いた文章から響いてくる「きこえない音」って、やっぱりわたしたちの可聴域の外側にあるのだろうと思います。
そこに存在しているけれど、可聴範囲の外だから、わたしたちにはきこえない。
だから、耳を澄ます、のではなく、本当は、体のどこか別の場所を「澄まして」みるといいのかもしれません。

はからずも、けいさんの記事中で紹介されている「もうひとつの目」という詩で、まどさんは、こんな表現をされています。

もうひとつの すばらしい目が
見はっていて くれるからだ

いつも
あたしたち にんげんの
心のまん中に いて

「いつも心のまん中にいる、もうひとつのすばらしい目」だったり、「耳には届かない桜の言葉」だったり。
まどさんは、この世界を、体のどこで、みて、きいて、感じていらっしゃったのだろうと、思いを馳せたくなります。
まどさんの体の、いったいどこを経由して、このやさしい言葉たちはわたしたちの世界にもたらされたのだろう、と、想像したくなります。

まどさんが亡くなって、先月、ちょうど10年となりました。
まどさんが残してくださったたくさんの言葉たちは、その間にも、たくさんの人たちの心に、やさしい波となって生き続け、広がり続けています。
目にはみえない波です。耳できくこともできない波です。でも、そこに存在して、伝わり続けています。
まどさんの言葉が、いまわたしの体のどこに生きているのか。どこで響いているのか。
あらためて、その場所を探ってみたいと思いました。まどさんの言葉が響き続けるその場所で「耳を澄ませば」、桜の言葉がきこえてくるかもしれない──そんな氣がするからです。

大切なものを大切に抱えながら、まずは、自分の体の音に耳を澄ませてみよう。
どこで何が響いているのか。
わたしはいったいどんなものでできているのか。
そうして、ゆっくりと、丁寧に、それを言葉にしていこう。
まどさんがしてくださったみたいに、ひとひら、ひとひら、大切に言葉にしていこう。

そうして、いつかきっと、桜の言葉のきこえる人に。
いつかきっと、桜の言葉を話せる人に……!

大好きな桜の季節の足音が、もう、すぐそこにきこえます。



【まど・みちおさんのプロフィール】
詩人、まど・みちお。童謡「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「一ねんせいになったら」などの作詞で知られる。
1909年、山口県に生まれる。
戦後50年近くたって出版した全詩集では、戦時中に書いた戦争協力詩もあえて収め、そのあとがきのすべてを割いて謝罪の言葉を綴った。85歳で児童文学のノーベル賞と言われる国際アンデルセン賞を受賞。100歳を過ぎても詩作を続けた。やさしく深い言葉に込められた、まっすぐな思いが語られる。2014年2月28日、満104歳で亡くなられる。
(NHKアーカイブス ホームページから抜粋。一部加筆)

プロフィールを探していたら、同じホームページ上に、まどさんの素敵な言葉をみつけました。そちらもあわせてご紹介させてください。

人間は なぜ詩を書くか 私は 詩を書かないと死んでしまうほどでは ございませんけども 息の次に大事なものがあります 「言葉」でございます そういうものがどうしても 出てくるのでございます

まど・みちおさんの言葉 

記事中でご紹介した、たまはるキネシオロジーさんの、植物の会話についてのご投稿はこちらです。↓↓↓




こちらの記事に、特スキバッジが届きました。実際には、こちらの記事に、ということではなく、この週に、わたしの記事全体にたくさんスキをいただいた……ということなのかもしれませんが(調べても、この辺りがはっきりしません)、この週に投稿した記事はこれひとつなので、ここに掲載させていただきます。
スキをくださったみなさま、記事にご協力くださったみなさま、本当にありがとうございました!↓↓↓

数週に渡り、計4つのコングラボードも届きました。スキをくださったみなさま、記事にご協力くださったみなさま、本当にありがとうございました!↓↓↓

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