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【回答その1】中庸を考える 東洋思想とアリストテレス

先日の記事で、「中庸」について東洋思想とアリストテレスの共通点や相違点を深掘りしていこう、という企画の紹介をしました。


早速、東洋思想代表の釜田エイさんより5つの質問をいただきました。『大学・中庸』に沿ってのご質問です。
どっちつかずと悪評を受けることもある「中庸」をアカデミズムの外から考えてみようという企画スタートです。哲学をアカデミズムから取り返せ(いいがかり?笑)。


釜田エイさんからの質問に智葉哲三が答えて参ります!
答えは二段階で考えています。

1.質問を受け取った智葉哲三の頭に即浮かぶ回答

2.『ニコマコス倫理学』の出典を丁寧に追って回答

今回は1。アリストテレスに立脚した回答というより、智葉哲三の解釈に近いです。そのため、厳密にはアリストテレスの中庸から外れるかもしれません。しかし、それは智葉哲三の哲学へと再解釈されたと大目に見てください。本来先哲の知恵は再解釈して自分のものとすべきだ。
2の時にはちゃんと真面目に『ニコマコス倫理学』から答えを探します。先述の『大学・中庸』も読んで臨みます(そうしたいです)。

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はじめに。アリストテレスの中庸について

アリストテレスの著書『二コマコス倫理学』によると「中庸」は過不足ない中間を取ること、ちょうど良い塩梅を取ることであるとされます。アリストテレスは人間の性質の中で「徳」を大切にします。「中庸」は人間の徳を高めるために重要なものとされます。
誤解なきよう。「中庸」とは常に1と100の真ん中50を取る、という話ではありません。その時々で90が過不足ない中間かもしれませんし、40がそうかもしれません。臨機応変なのです。たとえば、勇気という徳でも、戦争中は臆病(1)と野蛮(100)の「野蛮寄り90」が中庸かもしれません。議論の場では「臆病寄り40」が中庸かもしれません。
ちなみに、今後はアリストテレスの「中庸」を「メソテース」と表記します。「メソテース」とはギリシア語です。アリストテレスの著作にも登場しているらしい。らしい、というのは、ぼくがギリシア語を読めず本当のことを知らないからです。けしからん!とお叱りの声も飛んできそうですが、同様のことはよくあることです。われわれは神様の言葉を知りませんが、神様について語れます。ここでのギリシア語も同じことです。
脱線しました。アリストテレスの著作を日本語に訳すとき、「メソテース」には儒教の用語である「中庸」が採用されます。現代まで連綿と続く「中庸」のややこしさは、事の発端に含まれていたようです。
というわけなので、以後は「東洋思想の中庸は中庸」と表記し、「アリストテレスの中庸はメソテース」と表現します。
それでは、回答5連発いきましょう!


質問1への回答

質問:第一章から
①中庸という徳の前提に天命に従うという考えがあるが、これはメソテースの概念の中に含まれているものか。

【回答】メソテースに天命の考えはありません。

アリストテレスの倫理は徳倫理と呼ばれることがあります。徳ある行動をして、善い人生を送る(幸福になる)という考えです。徳ある行為をするために自分を律する考えであり、天命との関係はほぼないです。

質問2への回答

質問:第二章から
②(第一章と重複する部分があるが)厳密には別けきれないが便宜上、「中和」を内面的な感情の発生に関すること、「中庸」を実践的な徳の実行に関することと別けるとする。メソテースではこのような分類は、なされているか。それとも同一なものとして扱われているか。

【回答】メソテースでそのような分類はありません。アリストテレスにおいて、徳の発現とは状態や能力ではなく行動とされます。

例え話として、「あらゆる事を成し遂げる能力を持った人間が、ただひたすらに寝ていたとする。この人物は何ら行動をしておらず、徳ある人間とは呼べない」といったことをアリストテレスも『ニコマコス倫理学』であげています。メソテースとは、ちょうど良いを選び取り行動する徳と言えましょう。感情に支配されず、理性で感情を抑え適切な行動を取ることが徳ある人間といえます。メソテース。

質問3への回答

③舜帝は多くの人の意見を取り入れ、両極端な意見から最適な度合を選出して政治を行なった。ここでの舜帝の中庸は外的なものを取り入れての政治の手段ともいえる。
メソテースには上記の様に外の行動、自分以外の者の行動から取り入れて行うものがあるか。それともあくまでも自分自身の心の持ち方にあるのか。

【回答】意思決定において外の影響は受けてはいけません。あくまで自分自身の心の持ち方、そして行動にあります。

こう言うとメソテースからは、勝手気ままな人間も出てきそうですね。しかし、そこはしっかりと境界線を張ってます。
アリストテレスは自分の欲望に従うのではなく、徳を高め切った領域、神の領域へ到達することを「人間の究極目的=幸福」としています。この究極目的を目指して自分の行動によって自分の徳は高まるか、がメソテースの根幹です。しかし、ギリシアの神ゼウスが褒められたかという話はまた別の話。アリストテレスは紀元前350年位に生きた人なので、キリストの影響は受けてません。
騎士道精神や武士道を発揮できているか?に対して、常にYESと答えられる人を思い浮かべると理解しやすいでしょうか。

質問4への回答

質問:第三章から
④中庸を君子の進む道とするなら、最終的にはその効果は世界中に波及する。メソテースにこのような考えは含まれるか。もしくはギリシア哲学に該当する考えや用語は有るか。

【回答】善く生きる、にたどり着きます。主語は私です。世界中への波及という考えはないです。

あくまで、個人がどれだけ高い徳を発揮できるかに着目します。西洋の個人主義は古代ギリシアから受け継いでいると言えるかもしれませんね。
アリストテレスの著作も個人に焦点を当てた『二コマコス倫理学』は社会に焦点を当てた『政治学』へとつながります。まずは個人のメソテースがあって、社会の話へと進んでいきます。
地に足をつけたアリストテレスらしい考えです。有名な絵画「アテナイの学堂」で真ん中の青い服を着ているのがアリストテレス。手のひらを下に向け現実を見ています。一方お隣のオレンジのおじさんはプラトン。イデア界を展開するだけあって、指で天を指しています。師弟で対比的な二人です。

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(写真 Wikipediaより;https://ja.wikipedia.org/wiki/アテナイの学堂)

質問5への回答

質問:第五章から
⑤メソテースの中に家族という要素は含まれているか。

【回答】メソテースに家族という要素は含まれません。

メソテースの結果、家族に良い効果はあると思います。しかし、その結果に着目しているわけではありません。「いかに私個人の徳を高めることができるか」に着目します。

終わりに

メソテースの論拠となる『二コマコス倫理学』を最後にちゃんと読んだのは10年くらい前。次回は再度『ニコマコス倫理学』に向き合って、なるべく文献に沿った答えをしようと努力します。

東洋思想の「中庸」は天との関係がある(らしい)ので、メソテースとは、やはり異なる点がありそうですね。

智葉哲三、ツイッターでも哲学談義やってますのでお気軽にお声がけくださいませ。といってもゆるーくです。哲学をエンタメに!

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