見出し画像

022 発端は四杯のジョーキセン

日本の産業の近代化は、黒船の来航がきっかけで始まりました。
後に鎖国と呼ばれることになる、江戸時代の二百数十年間、私たちは長崎・出島を通じてオランダと、さらに対馬や琉球を経由して支那や朝鮮とわずかに交易を行うだけで、実態は、ほぼ、世界史の舞台から隠れて、ひっそりと泰平の眠りを味わっていました。
その間、西欧では自然科学が学術的にも実践面でも大きく進歩をとげていましたが、日本国内では相変わらず豊かな自然の恵みをうけて、四書五経を素読みで学ぶ世界にありました。
そんな状況のなか、黒船がやってきて、門をたたきます。ペリー率いる、4ハイの蒸気船が浦賀に姿を見せたのは、1853(嘉永6)年6月です。
ペリーは和親条約の締結と開港を幕府に迫り、1年後に回答するとの約束をひきだしていったん日本を離れます。その対応は、やさしく「コン、コン」とノックしたなどというやわなものではなく、英語で何というかわかりませんが、いってみれば「いつまで寝とるんじゃ。早よ、門を開けんかい!」という脅しまがいの催促です。
当時の日本は、寛永12(1635)年に武家諸法度で定めた「五百石積以上の軍船は建造してはならない」という「大型船建造禁止令」のもとにありました。大型の船を持つことは、兵站に大きな機動力を持つことになるとして、諸大名の反乱を恐れた幕府が大型帆船や軍船の建造を禁止していたのです。第3代将軍家光の時代です。幕府と言っても諸大名からなる幕閣の采配、つまり自主規制です。
そのため、せいぜい五百石~七百石(積載量70~80トン)から千石ほどの大きさの、「朱印船」と呼ばれるジャンク型一本マストの「弁才船」が建造され、北前船などの内運に使われているにすぎませんでした。外国貿易が制限されていた状況では、大型の外航船の必要がなかったのです。
そんなところへ、突然、東京湾の入り口に、積載量2,450トン、乗組員300名の巨大な蒸気船の軍艦サスケハナと、1,692トン、乗組員260名のミシシッピが、大きな帆船プリマス(989トン、260名)、サラトガ(882トン、260名)を従えて現れたのです。
「泰平の眠りを覚ますジョーキセン、たった四杯で夜も眠れず」と狂歌にも歌われた事件です。もちろん夜も眠れなかったのは幕府の首脳。庶民はその幕府のあわてぶりを、当時人気のあった銘茶「上喜撰」にひっかけて、4杯も飲んでは興奮して眠れないはずだ、と揶揄しています。
見るからに巨大な外国軍艦の来襲に、国じゅうが危機感をもって騒ぎ出すかと思いきや、庶民はあたふたとあわてふためく幕府をちゃかして笑いとばす余裕があります。何とも頼もしい限りではありませんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?