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023 開国――脅しに屈して不利な条約を締結

狂歌では四杯のジョーキセンとうたわれていますが、正式には、蒸気船は2ハイで、残りの2ハイは帆船でした。それにしても秀逸な狂歌ですね。現代なら、たちまちマスコミが騒いでコピーライターとして時代の寵児になっているでしょう。

これだけの歌が読み人知らずとは、評価が低い。日本人がいかに、サブカルチャーをないがしろにしてきたかを物語っています。浮世絵は売れたが、俳諧や和歌、川柳の形になっていないコピーは売れなかったのですね。

盆暮れの支払いという世界に先駆けた信用販売のシステムを開発しながら、マーケティング・市場的には販促にコピーを使うという文化が広まらなかったのは不思議です。コピーは実質の伴わない舌先三寸の詐欺商法というイメージが持たれていたのかもしれません。コピーライター第一号の呼び声が高いエレキテル、土用のウシの日の元祖・平賀源内も、100パーセント信用があったのかといわれれば、庶民にとってはなかばマユツバで面白がりの関心でしかなかったのかもしれません。話が横道にそれました。

江戸幕府は長い間、海外との交易を厳しく制限していました。その間も長崎・出島にはオランダ船が来航していましたし、対馬などでは唐船も出入りしていました。しかし、いずれも帆船です。

蒸気船が日本にやってくるのは初めてでした。スクリューが導入される前の外輪型です。黒塗りの船体から巨大な煙突がそびえ立ち、石炭のボイラーから煙をもうもうと吐きだす蒸気船の異様な姿に、なにごとかと物見高い野次馬が浦賀に集まり、幕府はとうとうアメリカ軍艦の見物禁止の触れを出さざるをえなくなりました。

そして半年後の翌1954(嘉永7)年1月、今度は計9隻で江戸湾深くに侵入し、神奈川沖までやってきます。前回、幕府に1年後の回答を約束させながら、半年後に、しかも9隻もの艦隊でやってきたのは、早く回答せよとの圧力をかけるのが狙いでした。

当時、日本をめぐる情勢は決して安穏としたものではありませんでした。

1840年ころから盛んに欧米の船が日本の周辺を行き来し、国内ではこの対策が求められていました。オランダから入ってくる情報から、日本が技術的にも遅れていることに多くの藩も気づき始めます。開けた先進的な藩の首脳たちは、こうしたことに危機感を持ち、長崎に人を派遣して情報を収集させます。海外の情報を集めれば集めるほど、進んだ技術や文化を学ぶ必要性を痛感します。

江戸湾深くに侵入して脅しをかけられた幕府は、3月に日米和親条約を締結し、下田・函館港を開港してこれに対応しました。そして、そのあと、1858(安政5)年日米修好通商条約に続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも和親条約・修好通商条約を結び、翌59年に、通商のために函館・横浜・新潟・神戸・長崎の5港を開港します。

脅され、せかされた末の日米修好通商条約の締結で、したたかな相手の戦略に翻弄されて、条約の内容も、アメリカ側に領事裁判権(日本国内で、アメリカ人が起こした事件はアメリカ領事が裁判を行う権利を有する)を認め、日本に関税自主権がなかったなど、決して対等な条約ではありませんでした。

通貨(円―ドル)の交換レートにしても不利な条件で妥結してしまい、明治政府はその後、1860(万延元)年の遣米使節団などでもこの条約の改正交渉に苦労することになります。

幕府は、いくつかの国と修好通商条約を締結し、5港を整備して開港しましたが、それで日本人の海外渡航が自由になったわけではありません。貿易、輸出入が行われるようになったといっても、取引はもっぱら外国商人が日本の港にやってきて、5港で取引をするだけ。日本人の海外渡航禁止令は、解かれていないのです。

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