冷たい男 第4話〜束の間の死〜(8)
「それから50年以上、穏やかな日々が続いたわ」
この場所に来て老婆の口元に初めて小さな笑みが浮かんだ。
冷たい男は、祭壇の前で横たわる父親を見る。
「その後、お父様は?」
「あの人が用意してくれた蝋燭と糸玉のお陰で今までの苦しみが嘘のように和らいだ生活を送れてたわ」
痛みがなくなった父の顔に笑みが戻った。
これまでも老婆を安心させるように笑みを浮かべてきたが何かに耐えるようで心の底からの笑みではなかった。
食欲も戻り、とても美味しそうに食べた。
本を読む余裕も出来た。
そして何よりも心地よく眠ることが出来る様になった。
「それでも新しい傷が出来たらそれは塞がることはない。私は、父に仕事はしないようお願いした。その変わりに私が働くから、と。報酬も払わないといけないからね」
当然、父は反対した。
娘に養われるつもりはないし、自分がどうなろうがお前が気にかける必要はない、と。
「俺のことよりもお前はお前の幸せを考えろ!」
父の気持ちは娘を思う親として当然の感情だ。
何も間違えていない。
しかし、父は間違っていた。
父が苦しんで生きることに私の幸せはないのだから。
老婆は、それから幾つも仕事を掛け持ってがむしゃらに働いた。
これまでも高校までは何とか卒業してから少しでも父の助けになるようにずっと働いていたのだがこれからは父の分まで稼がねばならず、未知の魔女の報酬も払わなければならない。
休んでいる暇などなかった。
幸い父に似て働くことは好きだったので苦ではなかったが魔女の報酬を払わなければならない時だけはキツかったという。
「なんせ聞いたこともないような物を当然のように言ってくるからね」
ここから南に海を渡った島の寺に納められた河童のミイラのヒレを取ってきて。
50年に一度しか咲かないこの世でもっとも小さな蘭の蜜を取ってきて。
幻の化け狸の作った料理を貰ってきて。
大金を要求された方がよっぽど楽だとだったと言う。
しかし、報酬を手に入れる為にも先立つものが必要だ。
その時に生きたのがこの報酬を手に入れてくる経験だった。
「この報酬を得る過程をね。本にして見たのよ」
彼は、訝しげな表情を浮かべる。
「本?」
「そう、"魔女からの手紙"って本聞いたことない?」
知らないはずがない。
世界的にも有名な児童書だ。
海辺の街に住む少女がお父さんの病気を治す為に魔女からの依頼を受けて東へ西へと走り回る冒険譚。
世界中にファンがいて本屋や図書館に必ず置いてあり、シリーズ発行部数は確か億を超えるのに今だ連載中と言う人気小説だ。
少女が学校の図書館から毎日シリーズを借りて楽しそうに読んでいたのを今でも覚えている。
「ひょっとして・・・」
「そう、私の本よ。ただ、経験したことを書いただけなのに随分と人気が出て驚いたわ」
老婆は、おかしそうに笑う。
「あの人も私の本を読んで『何が流行るかなんて魔女にも分からないものね』と笑ってたわ。娘さんも愛読書にしてると喜んでいたわ。父は読む度にこんな危険なことしてるのか、て青ざめてたけど」
冷たい男は、唖然とした表情で話しを聞いていた。
「とにかくこれで資金も得ることが出来て報酬を見つける為の情報や手段を得やすくなった。代理を立てるのは契約違反になるから私が取りに行くんだけどそれも段々楽しくなってきてね」
順風満帆だったと言う。
父生活の心配もなく、思いもかけぬ栄光も手に入れ、家族を得ることはなかったが、何よりも穏やかな表情を浮かべ、痛みのない父と過ごすこと出来たのが嬉しかった。
いつまでも年を取らない父を見て「愛人か?」「隠し子か?」と騒ぎ立てられることもあったが気にしなかった。
父と一緒に平穏に暮らせる以上の幸せなのないのだから。
しかし、幸せと語る老婆の顔は晴れない。
時折、笑みは浮かべるものの曇天のように暗いままだ。
「でも、物語と一緒でね。どんな幸せも長く続かないの」
それが起きたのは2週間前のことだった。
小説が売れるようになってから老婆と父は生まれ育った土地へと戻った。
家のあった土地は、国の所有地となっていた為、その近くの土地を買い、家を建てた。2人ぐらいなのでそんな大きな家はいらないので生活に困らない程度の規模のものを。
編集者は、尋ねてくる度に「これが"魔女の手紙"の作者の家"?」👨🍼と言った顔をするのが面白かった。
しかし、海を見れば作品の創作意欲を生む為かと納得し、父を見れば愛人の巣かと陰口を叩かれた。
父は、陰口を聞く度まで申し訳なさそうな顔をするがその度に「好きに言わせておけばいい」と笑った。
父と過ごす日々は、とても穏やかで、そして心地良かった。
あの地獄の日々を返却し、平穏を取り戻しているかのようだった。
こんな日々がずっと続くと思っていた。
しかし、平穏な日々とは突然に崩れるものなのだ。
それも予想も立たないようなことで。
その日は、季節外れの嵐だった。
と、言っても嵐自体は驚くようなことではない。
海の近くに住めば嵐の直撃なんて珍しいことでもない。窓を激しく揺らす風の音も、地面を痛めつける雨も、猛るように暴れる海も見慣れすぎて子どものはしゃぎ声のようにしか聞こえない。
老婆と父は、魔女の家で買ったお茶を飲んでいた。
父を救ってくれたあの人は20年前に引退し、どこかに旅立ち、今はあの小さかった娘が後を継いでいる。
あの人曰わく、娘はとても優秀とのことだがお茶の味はあの人の方の上のように思う。
突然、電球が切れた。
電球だけではない。
テレビも、エアコンも、お茶を入れ直そうと水を入れた電気ケトルの電源も落ちた。
停電か、とその時も軽く考えていた。
海辺に住めば珍しくない。
その為に予備バッテリーを備えてある。
何時もなら直ぐに切り替わるはずなのに切り替わらない。
しかし、その時も私は深く考えないままに電気室を見てくると父に言って席を立った。
父は、自分が行くと言ったがもし何かあったら嫌だとあの時の記憶が一瞬でも甦り、それを断って電気室へと向かった。
しかし、今にして思えば父が見に行った方が良かったのかもしれない。
老いて衰えた脳と目ではなく、寿命が無くなり、時の止まった父の方が遥かに物事を正しく見えたかもしれないから。
電気室に着くと部屋は暗かった。
やはりブレーカーか何かが落ちているようだ。
何年か前にも同じことがあった。
その時はブレーカーを弄ればそのまま復旧した。
老婆は、記憶を辿り、暗闇の中を手探りしながらブレーカーの所まで歩く。
そしてうっすらとブレーカーの影が見えたことにほっとし、それに手を伸ばす。
その時、なぜ気づかなかったのだろう?
うっすらと見えたのは配線が老朽化して飛び散った火花のせいだったと。
老婆は、気づかぬままにブレーカーに触れようとする。
「危ない!」
背後から父の声がした。
父は、ブレーカーに手を伸ばした老婆の手を叩く。
老婆は、そのまま尻餅をつく。
バチッンと何かが破裂する音がした。
大きな光が目を焼く。
老婆は、反射的に目を覆う。
目が眩み、頭が車酔いしたように回る。
そして眩んだ目が落ち着き、目を開くと父が仰向けに倒れていた。
電気が復旧する。
電気室の床に倒れた父の目と鼻と耳、そして口から血が流れ出る。
「お父さん?」
老婆は、父に寄ると身体を揺さぶって声を掛ける。
父は、目を覚さない。
口から大量の血を吐くだけだ。
老婆は、絶叫し、何度も父に呼びかける。
しかし、父が目を開けることはなかった。
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