いつものペンションで、今夜も乾杯。
「乾杯」
夫婦になって4年目の僕らは、月明かりだけが頼りの真っ黒な湖を前にグラスを傾けた。夜の湖は波もなくそれはそれは静かで、グラスの乾いた音だけが響いていく。
この日、白樺湖は”僕ら”にとって特別な場所になった。
***
「乾杯」
今よりも少し高い声の僕と姉、今よりも少し皺の少ない父と母がグラスを合わせる。
父は、ルートの営業をしていた、いわゆるサラリーマン。家に帰ってくるなり一目散に風呂に入り、パンツ一丁で「プハーッ」っとビールを飲むのが日課の、優しい父。いつも僕らが夕食を食べ終わった随分と後に帰ってきた父のスーツからは、吸わないはずのタバコの匂いがしていた。今思うと、疲れていたり、人との付き合いだったりがあったのだろう。
母はそんな父を一歩後ろから支えるような、これまた優しい母だった。時に天然な雰囲気を出しつつも、譲らないところは譲らないところがある。僕はそんな母のDNAを確かに譲り受けたのだろうなと納得してしまう。
今から20年以上も前。白樺湖でのひと時は、僕たち家族にとって、かけがえのない夏の楽しみだった。
白樺湖は、長野県の蓼科高原にある。高原にある湖畔の夏は涼しく、驚くほど過ごしやすい。
夜10時頃、僕らは父が働いている街の中心部まで電車で向かい、スーツ姿の父と合流する。ここから、翌朝までのドライブが始まる。あらかじめ姉と抜群のチームワークで買い込んだお菓子を車に詰めた夜中のドライブは、最高だ。
規則的に流れ続ける高速道路の光。
パーキングエリアで海老天おむすびを頬張る背徳感。
ラジカセから流れる尾崎豊とテレサ・テン。
父は、お決まりの旅のコースが好きだったらしい。
湖に着くなり、いつものペンションのいつものオーナー夫婦が迎え入れてくれる。幻想的な白樺に囲まれた湖も、キラキラと歓迎モードだ。
父と僕、母と姉の組み合わせでタンデムバイクに乗って湖を一周したり、スワンボートでゆったり揺られたり。
ドイツ風の雰囲気が粋なペンションで、きっと他愛もない話をしながら、洋風のディナーを楽しんだのだろう。
「乾杯」
あの頃、ペンションのぼんやりと柔らかな光の中で、僕らは家族の時間を確かに紡いでいた。ゆっくり、ゆっくりと。
***
今回、僕と妻が白樺湖にくることが決まったのは、実はその前日だった。
予定していた沖縄旅行が台風の影響でキャンセルになり、さてどうしたものかと途方に暮れていた。
そうだ、白樺湖に行こう。
僕には、一つの小さな夢があった。あの、家族の想い出の地である白樺湖に、自分が新しくつくる家族で行ってみたいという夢が。
そうだ、どうせならあのペンションに泊まりたい。今も営業しているのだろうか?
恐る恐る調べてみると、まだやってる!すぐさま予約をし、翌朝レンタカーを走らせた。
うん、確かにこんな雰囲気だったな、と記憶の引き出しを一つひとつ開けてみる。
迎えてくれたのは、あの頃のオーナー夫妻。20数年前にここに何度か宿泊したこと、いつか自分の家族と来たかったことを伝えると、笑顔で喜んでくれた。
妻とタンデムバイクに乗り ー妻は古めのスワンボートが苦手なのでそれは再現できなかったがー 懐かしの湖を堪能した。
繁忙期から外れたこの時期、宿泊は僕らだけ。当時から変わらない雰囲気の二階のソファから、こんな感じだったなーと湖を眺める。空が淡い朱色に染まっていくのに合わせて、湖面も変化していく。
オーナー夫妻から、長男がこのペンションを継ぐために白樺湖に戻ってくるのだと聞いた。その時のお二人の嬉しそうな顔が忘れられない。
僕らも、ここで家族の想い出をまた紡いでいけるのかと思うと、嬉しくなる。
***
「乾杯」
僕の小さな頃の家族との大切な想い出が、いまは妻との想い出になりつつある。
そしていつか僕らに子供ができたなら、それはまた家族の想い出となり、子供もいつかの僕のような気持ちを持つのかもしれない。
こうして、家族の想い出は混じり合い、そこに見たことのない色が広がっていく。
静かな湖は、相変わらず静かに見守ってくれている。