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『ハウス・オブ・グッチ』栄光に侵された女の哀史は、1950年の映画が元ネタだった⁉︎

つい年末に最新作として14世紀フランスからの『最後の決闘裁判』を劇場で傍聴して参りましたが、年が明けてすぐに今度は1978年から『ハウス・オブ・グッチ』がお披露目と、イーストウッドに劣らず老年にして止まることを知らないリドリー・スコット(以下:リドスコ)御大ですが、今作もまた素晴らしい怪作でした(HBOじゃドラマシリーズ『レイズド・バイ・ウルブス』も作ってたよね!)。

事の顛末事態は有名な事件ですし、その他の文献や資料の方が正確なのでここでは詳しくお話しません。

その代わり、今作で描かれていることをリドスコ監督の前作の『最後の決闘裁判』との対比すると見えてくるものがあると思うので、そういった試みでこの『ハウス・オブ・グッチ』をお話していこうと思います。

さらに(次回の記事では)この映画には、実は下敷きにした映画があり、それはビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』ではないか?というお話をします。
(今回の記事の内容も、先日のYoutubeの生ライブでお話しした内容ですので、動画も見て頂ければ幸いです!)


愛を求めた『~決闘裁判』、力を求めた『~グッチ』

この二作どちらも共通するのは、主人公が女性であること、男性権威主義の渦に翻弄されること、ラストカットがどちらも主人公の顔のアップであること(意味は全く違うけど)。

対して異なるのは、女性主人公が男性社会に巻き込まれること/積極的に介入すること、愛を求めたこと/力に魅了されたこと、子を授かったこと/力に潰されたこと、こういった共通と対比の構造があります。

『~決闘裁判』での主人公マルグリッド(ジョディ・カマー)は、ル・グリ(アダム・ドライバー)から受けた暴行を受け、それを裁判にかけることを自ら選択しますが、基本的には14世紀フランスという世界で夫のカルージュ(マット・デイモン)を陰で支え、子を産むことに専念し純粋に愛情を欲した女性として描かれていました。

その純粋さがあるからこそ、神の名の下で行われる裁判を望み、それは神託による決闘という事態へ発展していきます。そして彼女は夫からは決して望む形で愛されはしなかったが、代わりに子供を授かり自身の中から子供へ向けて愛を抱くに至る。

しかし、今作の主人公パトリツィア(レディー・ガガ)は、そう一筋縄ではいきません。彼女には母であるよりもオンナとして愛を欲する純粋な心と同時に、世界に名を轟かせる"GUCCI"への服従にも似た執着があります。

小さいころ、こんな感じの親戚のおばちゃんいたよな?

パトリツィアはその巧みな外交手腕により、グッチ一族と距離を置いていたマウリツィオは次第にその中心人物へと大成し、その陰でマウリツィオ一強体制を着々と構築してゆく。

まさに仁義なきアゲまん妻のパトリツィアであったが、全てを手にしたマウリツィオは、その妻パトリツィアをも排除しようとする。

夫への愛とグッチへ魅入られた女は、その頂点を間近に見ながら最愛の夫から転落させられてしまう。

この二つの作品を比較して分かることは、それぞれの作品における子供の描写ではないだろうか?

『~決闘裁判』ではマルグリッドの静かではあるが子を授かったという結末と微笑で、この映画は締めくくられる(かといって幸福とは言い難い複雑な表情を見せるが)。

今作のクライマックスでは、グッチへの情念により抜け殻のようになろうとも未だにその未練を捨てきれず、"グッチ夫人"であり続けようとするパトリツィアの表情が表れる。

パトリツィアはマウリツィオとの間に産まれた子供に対しての愛情よりも、そして彼が最初に望んでいたグッチから離れたささやかな幸せよりも、地位と名声を兼ね揃えたグッチへの偏愛に執着し身を滅ぼしてゆくのである。

そして、このパトリツィアを怪演するレディー・ガガ、凄まじい!(恐ろしい子!)

グッチと結婚した女、ハリウッドと結婚した女

ここで少しお話がズレますが、皆さまは『サンセット大通り』という映画をご存じでしょうか?ビリー・ワイルダーが監督した1950年の映画で、同年のアカデミー賞三部門を獲得した古き傑作の一つです。

この『ハウス・オブ・グッチ』はグッチ一族の内紛の史実を基に描いた映画に違いないのですが、映画として文脈や展開、細かな演出までもが、実はこの『サンセット大通り』とそっくりなのです!

この章ではそれを細かく検証していきたいと思います。
まずこの『サンセット大通り』のあらすじ。

主人公はハリウッドでヒットに恵まれない脚本家の男ジョー・ギリス。彼が車の故障から立ち寄った古い豪邸で、かつてサイレント映画の時代に一世を風靡した過去の大スター女優ノーマ・デズモンドに出逢う。彼女はかつての栄光を未だ忘れられず再び映画界に返り咲こうとしていた。自身を主役にした映画脚本をジョーに依頼し、その報酬としてノーマは彼の悩みの種である金銭的な問題を解決し、さらにこの豪邸に半強制的に住まわせしまう。ジョーに対する狂信的な恋心と束縛、そして名誉欲に次第に辟易するジョー。ついにジョーはノーマを見限り豪邸を去ろうとするが、そのとき彼女の放った銃弾がジョーの命を奪う。翌日、駆け付けた警察と報道陣のカメラを映画の撮影が始まったのだと思い込みスターの出で立ちで観衆の前に現れるノーマ。ハリウッドの光と闇に狂わされた彼女の精神は、現実と虚栄の境を失った境地に至り、最初で最後の復帰を懸けた怪演の表情でこの映画は幕を閉じる。

この『サンセット大通り』はいわば、過去の幻想に心を囚われた女性の哀しき末路を描いています。どうでしょう?
このあらすじからしても、かなり『~グッチ』に近い話だと思いませんか?

次はさらに細かく見ていきます。

■消極的な男と絶対に落す女

まず『~グッチ』ですが、当初パトリツィアの夫であるマウリツィオは、グッチの経営に関わろうとしていませんでした。むしろ、勘弁してほしいぐらいの気持ちでしたが、パトリツィアの巧みな外交手腕により、あれよあれよとグッチ経営の中核になってゆきます。

同時にこの『サンセット大通り』も、ジョーの嫌悪感混じりの遠慮を構うことなくノーマはずけずけと彼の悩みを金で解決していきます。

この二人はターゲットにした男を落とすために、外堀から攻めていくといった何とも優秀なハンターでもあるのです。

■現実問題は占い師の助言で

パトリツィアは夫をグッチのトップに据えようとしたり、殺害計画を練る際に、その助言をよく占い師のピーナ(サルマ・ハエック)に頼ります。

実際の事件でも占い師のピーナに相談していたパトリツィアですが、ウソのような共通性で、面白いことにこの『サンセット大通り』のノーマも出来上がった脚本を巨匠監督のセシル・B・デミルに見せようと会話するシーンがあり、その際「占い師のアドバイスで、今日に決めた!」という内容のセリフがあります。

どちらの女性も自身の理想を実現するために、最初は非協力的だった男を強引に引き入れ、占い師の助言に頼る。この二人の気質は本当によく似ています。

■覚悟を決めるとき、女は泥を浴びる

ついにマウリツィオから完全に見放されたパトリツィア、彼の暗殺計画を思いついた場所は、占い師と密会していた泥風呂に入っているときでした。

グッチ夫人へと返り咲こうとしていたパトリツィアは、常に美容に気を使っていましたが、このシーンでは愛が憎しみに代わり、具体的な攻撃性をもって覚悟を決める場面です。

対して『サンセット大通り』のノーマも、覚悟を決めたとき、ありとあらゆる50年代では最新式の美容施術を受けます。その中に泥マッサージがあります。彼女の場合は出来上がった脚本をデミルに届けたあと「ついに私は映画界へ復帰できる!」と期待を膨らませているときです。

実際は、その脚本を映画化することなど誰も考えておらず、ノーマを哀れんだデミルを含む関係者は、優しいウソをついたわけです。

夫を殺すことを腹に括ったパトリツィア、映画界への復帰に燃えるノーマ、この二人が身体に泥を塗るとき、それは破滅への道に舵をきったときなのです。

■完全なる破局と死、そして最後のカオ

これはもう言うまでもありませんが、ノーマもパトリツィアも男への想いが完全に踏みにじられ、悲惨な破局を迎えたあと、愛は憎しみへ変わり、二人は死をもってそのお返しをします。

このシーンはコントみたいで笑いながら見ました!

片や殺し屋を通じて、片や直接手を下す。
しかし奇妙なまでにそっくりなのは、その後の演出です。

『サンセット大通り』では、ジョーを殺したノーマは狂気の中に精神が閉じ込められてしまい、翌日駆け付けた警官の尋問や報道陣のインタビューに対して、上の空で応えません。

その後、屋敷の前に待機している報道カメラを映画の撮影だと錯覚したノーマは、厚化粧のまま渾身の演技を周囲に見せつけ、カメラの前にゆっくり近づいて物語は幕を閉じます。

同じく『~グッチ』でのクライマックス、判決を言い渡される殺人犯の二人、ピーナ、そしてパトリツィアですが、裁判官から名前を呼ばれたパトリツィアは一向に応えず起立しません。

そのあと間をおいて立ち上がり、裁判官を睨みつけたパトリツィアは一言「グッチ夫人と呼びなさい」と呼びかけ、グッチへの情念に取りつかれた表情を携えた顔のアップでこの映画は締めくくられます。

両者とも、もう既に手の届かない栄光、過ぎ去った世界をいつまでも手放せず、そしてその思いに精神を侵食され、最後はそれに支配されてしまった哀しき女の末路を、その表情で語らせようという結末です。

まとめ

ということから、実際の事件を単に映画化したわけではなく、リドリー・スコットがこの映画で描いたのは、栄光や富への執着によって最後は自滅する女性の姿であり、それを『サンセット大通り』という傑作を踏襲することによって説得力と、物語の普遍性を訴えようと試みたのではないかと思う。

いつの時代も人生を楽しむには、ある種の"憧れ"と"愛"は必要不可欠ですが、人生を充実したものにするか、はたまたこの二人の女性のように崩壊の一途を辿るのか、そのバランスを維持するのが一番難しいのかもしれません。

一度上げた生活水準は、下げるのが難しいと聞きますし……
こう考えると前回の『クライ・マッチョ』がいかに地に足がついた感覚か身に沁みますね。

最後に『サンセット大通り』で過去の栄光を忘れられない元大物女優ノーマ・デスモンドを演じたグロリア・スワンソンが大人気だった1910年代のころ姿で締めくくらせていただきます。


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