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架橋としての翻訳 イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』(幻戯書房)


 ボスニアに生まれ、東欧諸国を渡り育ち、ユーゴスラビアの最期を見届けることなくこの世を去った作家イボ・アンドリッチ。本書は現在のところ史上唯一となるセルビア・クロアチア語によるノーベル文学賞作家の作品を精選、訳者のひとりである山崎佳代子氏による詳細な解題を付した決定版と言うべき選集である。
 移動する国境線、並存する信仰、人種や文化の不和から生じる紛争、それらを繋ぐ希望の象徴としての〈橋〉。名高き『ドリナの橋』に始まる〈ボスニア三部作〉にも通底する著者の思想は、作家的主題と共鳴するように、詩や散文といったさまざまな文学形式を通して、重層的に読者の裡にも架橋されていく。

 本書は二十年以上前にユーゴスラビア文学の研究者である田中一生氏が編んだ日本オリジナルの作品集を元に新訳・新編されている。とは言うものの山崎洋・山崎佳代子両氏による新訳は、新編に際して新しく収められた小説やエッセイを含めて本書の半分以上を占め、尚且つ田中一生氏による翻訳も改訳がなされており、ほとんど新しく編まれた作品集という認識に誤りはないだろう。

 個々の作品の素晴らしさはもとより、三人の翻訳家が、小説・詩・エッセイと異なる形式からなる作品群を、二十年以上の時間のなかで訳したにもかかわらず、透徹とした一人の作家の文体が隅々にまで行き渡っていることの不思議さ。
 もちろん作家自身による文体の完成度に因るものとしたうえで、完成された訳文の向こう側には、何十何百何千ものの研鑽によって連綿と紡がれる翻訳そのものの営為を感じさせる。

 そして「橋」というモチーフに仮託された、異なるいくつもの国や文化を繋ぐ希望――それは何より、翻訳という行為そのものではないだろうか。
 歴史的背景からひとつの国に永住することの叶わなかったひとりの作家が、それでも抱きつづけた希望を、素晴らしい文章と研究と情熱で纏めあげた本書が、遠い海を隔てたこの日本で長く読まれ続けることを願ってやまない。

(本文章は、第7回日本翻訳大賞の推薦文を改稿したものです)

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