見出し画像

いかにして完全犯罪は私たちの眼前で為されたか 福永武彦『完全犯罪 加田伶太郎全集』(創元推理文庫)

「さあ久木さん、今晩は一つ推理競争をしましょう。伊丹先生のお弟子さんの腕ぶりを拝見しなくちゃ、」と香代子が言って、一冊の英語の本を持って来た。「私は六十頁まで読みました。面白そうよ。」
 それは輸入されたばかりの新刊の探偵小説だった。香代子はその本を気前よく二つに引き割いた。
「私が読んだ分だけあなたに回します。全部で三百頁だから、だいたい二百五十頁までは大丈夫ね。」
「香代子さん、あとの方をめくって見ちゃいけませんよ、」と久木が注意した。
「私は卑怯なことはしません。でも、あなたが心配なら、」と軽蔑したように言いながら、最後の五十頁をまた破り取ると、煖炉の台の上に載せた。「さあ始めましょう。」
福永武彦「温室事件」


 本が好きだ。一束の書物のなかに綴じこめられた誰かの言葉、無数の文字から編みあげられる物語と同じように、本そのものが好きだ。
 カバーに包まれた内側で意匠を支える表紙、本を開いた誰もを歓待する化粧扉、モノクロームで構成された紙面を控えめに彩る花布、頁に指をかけたときの紙のさわり心地、読書のよき伴走者である栞紐、文字を写しとるインクの匂い。紙の選び方、製本ひとつとっても、この世に同じ本は存在しない。

       *

 福永武彦の『加田伶太郎全集』という奇妙な題名の作品集をはじめて読んだとき「温室事件」の一場面で、本を引き割く人物に出会って、どんな感情を抱いただろうか。
 登場人物の女性が読んでいたのは、一冊の推理小説だ。英語で書かれている、おそらくはペーパーバックだろう。カバーもない平綴じの、読み捨てられることを前提とした素朴なつくりの本。たとえば硝子戸の書棚の奥に百科事典や文学全集と一緒にならべるようなものではない。ただ、そうは言っても本は本だ。その内容如何を差し置いても、一定の尊厳をもって接するべきだとも思う。

 不思議なことに、本を引き割く彼女に対して嫌悪感はなかった。愛書家であれば誰もを昏倒せしめる犯行に衆人環視のもと堂々と手を染めながら、目撃者であることさえ認識させない、まさに完全犯罪と言える。
 かのパリ警視庁の警視総監も「創造的な芸術家」と称すであろうこの犯人は、いったいどういう人物なのか。〈灰色の脳細胞〉と評されるベルギーの元警察署長や、ニューヨーク東38番街に住む高等遊民のように心理分析的手法を試みつつ、素人探偵の気分で戯れに推理をしてみよう。
 この文章の冒頭に配された、エピグラフとするにはすこしながすぎる引用が、きっと手掛かりとなるだろう。

       *

 まず①犯人は探偵小説愛好者である。
「温室事件」の発表は1957年。書かれた当時と言わずとも、輸入された海外の探偵小説を新刊で買って読んでいるあたり、犯人である彼女がきわめて熱心な探偵小説愛好者であることは明らかである。「面白そうよ」と、素直に褒めないところも、いかにも愛好者らしい振る舞いだ。研究者や海外在住経験が長いようにも見えない彼女が、探偵小説の新刊を直接海外から取り寄せたとも思えない。紀伊國屋書店の洋書部などで、棚にならべられたぺーバーバックを吟味する姿を想像すれば、それは愛書家のそれと何も変わらないはずだ。
 しかし、却って謎は深まるばかりとなる。探偵小説愛好者たる犯人は、なぜ本を引き裂いたのか?

 次に②犯人は教養がある。
 これも論を俟たないだろう。犯人は輸入されたばかりの原書で探偵小説を読んでいるのだ。つまり、一編の長編小説を英語で読み切る程の教養があると言える。安っぽいスリラーやサスペンスならともかく、彼女の読んでいる本が本格的な探偵小説であるならば、真相は論理的に解決されていなければならない。ひいては、真相が理解できる前提で探偵小説を読んでいる以上、彼女自身も紙上の名探偵が有する論理的思考を持ち合わせた人物であるということだ。
 探偵小説において、論理的思考は名探偵のみならず犯人にも必要とされる条件である。彼女は探偵小説における犯人の条件も満たしているといえる。

 また③犯人は遊戯精神を有している。
「推理競争をしましょう」という犯人の提案から、今回の犯罪は端を発している。読書という行為は大抵の場合ひとりでおこなわれる、個人的な行為だ。彼女は読書そのものを創造的に捉えているが、この創造性も優れた犯人の特質と言えよう。論理的思考と創造性を具え持つことで、記憶に残る犯人が(そして名探偵が)生まれる。
 ユダヤ系移民であるアメリカ人の従兄弟同士が共作のもと生み出した名探偵、その活躍譚のなかでも国名を題に冠した諸作品では、提示された情報を元に論理的思考をもってして犯人の指摘が可能であるとして、解決編の直前に「読者への挑戦」が作中に付されている。かくして謎の一典型に過ぎなかった「誰がそれを為したのか(Who done it?)」は特別な遊戯となった。一編の小説をはさんで、作者と読者が互いの意図を読み合い知恵を競い合う、異様な熱を孕む知的遊戯に。読者同士ではあるものの推理競争を提案するこの犯人も、同様の遊戯精神を解した人物と言わざるを得ないだろう。

 そして④犯人はフェアプレイを重んじている。
 たとえば探偵小説であれば、余程高度な技巧と繊細な手掛かりが配置されていない限り、解決編までに登場していない人物を犯人として推理することはできない。探偵小説が遊戯であるとした以上、その遊びは一定のルールに則っておこなわらなければならないからだ。故に作者という犯人は大胆に伏線を張り、さりげなく手掛かりを配置して、ルールの範囲内でミスリードを誘う。
 けれども、ここで犯人と呼んでいる彼女はもちろん探偵小説の登場人物のひとりであり、本を引き割いた場面には、作者の影らしき仕掛けも見受けられない。作中で言及される、ある探偵小説の読者がふたりいるのみ。作者対読者のように暗黙のうちに認められるフェアプレイも、登場人物同士のあいだでは担保されていない。だからこそ、彼女は第三者(ここでは私たち読者というべきだろうか)にもわかる方法で……探偵小説の解決編のみを引き割くといった驚くべき方法で、読者対読者の知的遊戯におけるフェアプレイを宣言したのだ。

 ここに至って私たちは「本を引き割くという尋常ならざる犯行に手を染めながらにして、それを犯行と認識させない」完全犯罪を為しえた犯人、彼女の行動心理の一切が、知的遊戯としての探偵小説がもつ醍醐味をことごとく体現していることに気付く。犯行に至る一連の所作は台詞から行動のひとつとっても無駄なく彼女の心理にもとづいており、だからこそ私たちは眼前で為されたおこないにも、まるで手品師が虚空から鳩をとりだすかのような鮮やかさで呆気にとられるばかりだったのである。しかし、そうなると彼女はきわめて模範的な探偵小説愛好者としての振る舞いから、きわめて論理的に、思いもよらぬ犯行を遂げた結論となる。
 犯人の「何故それは為されたのか(Why done it?)」が解き明かされた今、小説という舞台のうえで恐るべき犯行を披露した彼女は、理屈をこねくりまわしているうちに私たち観客と同じ、変哲のないひとりの探偵小説愛好者の姿に転じてしまった。所作のひとつも逃さぬよう光らせていたつもりの私の眼は、もはや誰も映じていない。そもそも犯人などいたのだろうか。はじめから私が、拙い一人芝居を演じていただけのような気もする。今日は疲れているようだ。探偵小説について深夜まで考えをめぐらせるものではない。今日はこれ以上の散歩も控えておこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?