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誰かの夏を読む 江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』(角川春樹事務所)


 夏といえば思い出す小説が、いくつかあります。
 たとえば、神吉拓郎の「ブラックバス」で、少年が今はなきテニスコートを前にして耳を澄ます、幻のテニスボールが跳ねる音であったり。
 あるいは、ヴァージニア・ウルフの「サーチライト」で、クラブのバルコニーに腰掛けて歓談する男女のそば、石畳の遊歩道を照らす円形の光であったり。
 それらは夏の日の一瞬を鮮やかに切り取り、その空気までも文章のなかに封じこめます。
 そういった優れた夏の小説だけをあつめた図書室があったなら、きっと『なつのひかり』や『すいかの匂い』といった書名を挙げるまでもなく、江國香織の本は何冊も収められていることでしょう。

 いま江國香織という作家は、たとえば『きらきらひかる』や『神様のボート』といった初期の傑作群の先を歩むうちに、いつしか私たちの想像もつかないような地点に辿り着きつつあるように思います。なにしろ現在進行形で書かれる小説のどれもが、先鋭的でありながらもことごとく技巧に裏打ちされており、なおかつ奔放であり続けているのですから。
 まったく新しい次元で子どもの視点を語りにくみこんだ第51回谷崎潤一郎賞受賞作『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』や、第38回川端康成文学賞を受賞した佳品「犬とハモニカ」を更に時間と空間を超越して大伽藍を築いたかのような意欲作『去年の雪』など、緻密と余裕が共存した、最上の意味での老成を迎えています。

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 それでは、現在の江國香織が夏の小説を書いたとするなら、それはどのようなものになるのか。『なかなか暮れない夏の夕暮れ』は、まさにその問いに対する解答のひとつとして書かれたかのような小説です。
 一切の先入観を持たずに頁を繰ることが何よりも至福となる類の小説がありますが、贅沢なことにこの小説はその条件をも満たしています。本書については粗筋を追うことが肝要でもないので詳述はしませんが、敢えて何か書くとするなら、それは「小説を読む行為とは、誰かの人生を読むことである」という、言葉にしてみれば陳腐なことくらいでしょうか。けれども、それを生活のなかで確かに実感することは、言葉にすることほど容易くはありません。
 小説に書かれている遠く隔たれた誰かの生活と、それを読む〈私〉の生活。小説を読む行為には、現実に存在する誰かの人生が与える縁やしがらみといった重力から解き放たれた気楽さとともに、その誰かと等しく、読む〈私〉の人生に与える何かが満ちています。きっと、この小説を読んだ夏も、登場人物たちと同じように特別なことのない、けれども忘れ難い時間となることでしょう。

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