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転職して4年目を迎えた日、リーダーがいなくなった

大好きで尊敬していたリーダーの退職が発表された頃
私は転職を考え出した。

 
私の職場は新卒をとらない。
職員の平均年齢も高い。
年齢を考えれば
今慕っている人は私より先に辞めるだろう。

そう前々から考え、薄らと不安だったわけだが
リーダーが辞めることや人事異動により
更に基盤が揺らいでしまった。

 
今すぐ辞めたい、まではいかないが
私は求人情報を夜な夜な見ていた。

どこも可もなく不可もない。
マッチングアプリと同じだ。

年齢が上がれば条件はどうしたって厳しくなるし
いい企業や施設は早々求人は出ない。

 
リーダーの退職が1ヶ月を切った頃
私が慕っていて頼りにしている同僚の体の調子が悪くなり、仕事を休むようになった。

 
もともと体の弱い方で毎月急な休みが何日もあり
仕事の負担は大きかったが
今回は復帰が未定だ。

それもまた私を不安にさせた。

このまま退職ではないか、と。
退職ではないにしても復帰は1ヶ月以上先ではないか、と。

リーダーの次に勤務年数が長い正職員の方だ。

 
リーダーが抜け、その人が休み、人事異動による部署替えで
私の仕事負担はグッと大きくなった。

リーダーの跡は前施設長が継ぐことになったが
リーダーは大変な仕事は自分が背負い込み、周りをよく見ていたタイプだが
前施設長は大変な仕事は周りに任せるタイプだ。

 
結局は私がリーダーを引き継がなくても
嫌な仕事や責任ある仕事はこちらにやってきた。

 
先はないな、と思った。

  
リーダーがいなくなることを想定して新体制でやりましょう、という流れになっても
結局はリーダーが上のやり方を見かねて周りの負担を考え、手伝っていた。

 
もう終わりだと思った。
リーダーがいなくなった後、私が辛い立場になる先は見えたも同然だ。

 
 
リーダーの最終勤務日は私の入職日だった。

私が4年目を迎える日
リーダーはいなくなる。

なんて皮肉だろうか。

 
私はリーダーの最終勤務日の約一週間前に長い長い手紙を書いた。
職場みんなで書く色紙なんかじゃ書く量は足りない。

 
普段手紙を書くのが好きで得意な私だが
久々に、なんと書いたらいいか、書き出したらいいか言葉が出てこなかった。

言葉にできない。
この私が。

相当思いが強いのだと改めて思った。

 
私はスマホで下書きをしてから、便せんに書き出した。
書いている内に一部付け加えたり、修正し、手紙は便せん三枚分になった。

 
便せんにはひたすらに感謝を書いた。
寂しいとか不安だなんて書かなかった。

入職した頃、不安だった私が今まで働いてこられたのはリーダーのおかげだ、と書いた。

リーダーを応援しているとは書いても 
これから私も頑張ります、なんて書かなかった。書けなかった。

 
リーダーの次に辞めるのは私だと、心の中で思った。
リーダーに手紙を書いた日、私は合同面接会の告知を見つけ、手帳に書き込んだ。

 
だけど、まさか手紙を書いた次の日に母が救急車搬送され、入院となり
おそらくもう元の体には戻れず
今後は車椅子や杖生活になる可能性が高いとは考えもしなかった。

 
リーダーが好きだった。
頭の中はリーダーでいっぱいだった。仕事の不安や疲れもいっぱいだった。

だけど母が入院し、リーダーの退職や仕事の悩みはちっぽけに感じるくらい
私の心身は更にやられた。

 
今までは母が生活や心を支えてくれた。
毎日私の話を聞いてくれた。

だけどこれからは私が家を守り、支え、仕事を頑張らねばいけないと思うと
私の心や体は更に蝕まれた感覚だった。

 
母の退院日や今後の見通しが立たない以上
仕事の転職はすべきではない。
父からは母親を私の扶養にできないかも聞かれたし(収入面でおそらく無理だが)
このタイミングで仕事は変えるべきではない。
今後を考えると、遊びに行く気分にもなれなかった。

食べられないし、眠れない。

仕事から帰ってきて、慣れない家事をやると、あっという間に今までの自分が寝ていた時間を過ぎ
日々があっという間に過ぎていった。

 
気を抜くと倒れそうで怖かった。

表面的にはいつも通り仕事をこなしていたように見えただろうけど
ろくに食べられない私は、水筒の中に本来は禁止されているポカリをこっそり入れ、飲み、なんとか踏ん張っていた。

 
私の社会人4年目を迎えた日がやってきた。
リーダーの最終勤務日でもある。

それは金曜日で、疲れはピークにきていた。

 
金曜日午後は誕生会の日だった。
私が企画、司会である。
誕生会の日はもれなく残業日でもある。

 
誕生会が始まるまでの間、他の同僚に頼まれ、リーダーともう一人の退職者への色紙デコレーションを行った。頼まれたのは前夜だった。
当日午前中にバタバタとするくらい、余裕はなかった。

午前中の作業も遅れ、給食も遅れ、それに伴い誕生会開始も遅れ、グダグダとした始まりの中、なんとか誕生会は終わり
誕生会の後は職員お別れ会という名のお茶会をした。

みんなで飲み食いをしながら
リーダーや同僚が挨拶をしたり、乾杯をしたり、雑談をしたり、写真撮影をした。

 
私はちょっとウルッとしたくらいで、利用者も一人がウルッとしたくらいで、みんな案外平然としていた。
退職する二人も、自分で決めたタイミングで終わりを迎えるからだろう…スッキリした顔をしていた。

 
 
お別れ会も時間がかかり、それに伴い送迎もバタバタし、戻ってから掃除やらなんやらし、誕生会の報告書や写真、その他月末書類をまとめたりして
結局私は残業になった。

リーダーには、ちょっとしたプレゼントと手紙を渡した。
色々な方からプレゼントをもらい、リーダーは大荷物だった。

 
挨拶もお互いにアッサリしていた。 

リーダーは翌日も研修があって職場に一人来るようだったみたいだし
仕事が終わらず、事務処理のために結局ちょこちょこは職場に顔を出すようだった。

 
その日は予定があったのか早く帰りたがっていたし、少し苛々もしていたような印象さえあった。
涙の別れにはならなかった。
送別会もあるし、また会うからかもしれない。

 
リーダーが辞めると知り
私は聞きたいことがいくつかあったが、それは無事聞き取り終わった。
あとは仕事をしていく中でまた聞きたいところはあるかもしれないが
まぁそれはその時どうにかなるだろう。

 
リーダーは年度いっぱい籍はあるから
グループLINEを確認はするし
LINEはしてもいいと言っていたし
退職後もLINEはしてもいいと言っていた。

だけど私にとって最終勤務や退職とは
もう基本的には連絡をとらないし、仕事の情報交換はしないということだ。

 
もともと仕事のLINEしかしない関係だったし
私からLINEをしなければ自然消滅するだろう。

 
送別会は一応出席にはしているが
母の状態によっては、私は行けるか分からないし
今日がリーダーと会う最後かもしれない(もう一人の同僚の最終勤務日は別日なのでまだ会える)。

 
 
母が入院し、リーダーがいなくなった時
私は転職して4年目を迎えた。

今年はなんて年だろうか。

もはやポルノのライブでアリーナ席が当たったことやサインが当たったことが遠い昔に思える。
あれで運を使い果たしたどころか、30代最後の年はこんなに試練だらけで途方に暮れる。

 
30代の試練は、前職場の退職だと思っていたけど
生きているとこうして 
乗り越えても乗り越えても壁があって
これから迎えるであろう40代を生きるのが
ただただ不安になるし、怖くなる。

 
 
帰宅後、家事をしている内に23時を過ぎ、疲れ果てながらベッドに横になった。

一週間が終わった。
長かった。
本当にしんどかった。

だけど戦いは長期戦。
まだ始まったばかりだ。










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