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まちを消費するか生産するか

地域活性化的な話を聞いていると、(主に行政に対して)何らかの要望ばかりが出てくるような場面によく出会う。例えば、〇〇を作って欲しい、とか、〇〇があればいいのに、とか。

これは結構問題だなと個人的には思っていて、こうした要望の背景にあるのは、まちの姿や行く末は自分以外の誰かが作ってくれるものであるという固定観念である。これが根強く残っていると、「まちを自分たちで作ろう」という感覚になかなかならないし、「まちは自分たちで作れる」とも考えなくなるし、「自分たちがやってることだって立派なまちづくりだよ」と思えなくなってしまう。

まちに関する要望の根本にあるのは、言わばまちを消費対象として見る眼差しであって、ショーケースに並べられた既製品の街並みを物色し、カタログで見た素敵な街並みが自分のところには無いことへの嘆きの表れであると思う。

大量生産大量消費の高度成長の時代、人口も増えて画一的な開発手法がまだ人々の願望や生活手段と合致していた頃にはそういう要望にも意味はあっただろう。誰かが作ってくれる街並みは憧れの対象でもあり、それを消費するだけの経済力もあり、新しく生まれる世代がさらに欲望を追加してくれるので、このシステムは自らを拡大させながら再生産されていく。

そういう環境では、大半の市民がまちを消費することで、自分の幸福も実現できるのかもしれない。都会を真似て街をつくれば自分もいい感じになる。それはそれで幸せだ。

おそらく、そのような環境があまりにうまくいき過ぎたのだろう。全国津々浦々に画一的な風景を作り上げたこのまちづくりのシステムは、市民からまちを生産する能力を奪ってしまった。

自分たちでまちを作り上げること。小さくてもいいから、誰かに要望するのではなく自分や仲間とできることをすること。

誰かに作ってもらったものをただ消費するのではなく、自分たちが始めることが重要なのだと思う。金額の多寡の問題じゃないし、ハコモノを作ったり新産業を生み出したりしなくたって、これがやりたいと声を上げるとそのものが実はまちづくりなのだと社会全体が認識できるような世の中になることが求められている。

まちづくり・地域活性化といえば何かとすぐ新しい建物を作ることを考えたり、新しいビジネスを始めなければならないと思い込んだり、その地域ならではのものがなければならないとブランド化・プレミア化に走ったり、そうした発想から自由になれないものか。

もちろん建物が必要な場合もあるし、経済性は大事だし、ブランド化もできれば素敵だと思う。 

でも、大事なのはそこじゃないと個人的には思いたい。それ以外のことだって、立派にまちづくりじゃないかなぁと。花壇を綺麗にしたり、歩道の掃除をしたり、子育てをしたり、合唱団を作ったり、通学の見守りをしたり、そういうまちで行われる日々の生活そのものが、そのまちの姿を作り出す。その担い手は、まちの生産者だ。

それはあなたのことであり、あたしのことである。往々にして日常に埋没し人々の認識の隙間からこぼれ落ちるこうした物語こそまちづくりなんじゃないかって、そんなことを今年の最後にぼんやり考えている。

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僕が大学教員として、また家庭の主夫として日々考えていることのまとめです。内容は育児とダイエットと読書感想文が多めで、分野はあまり統一されて…

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