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タイ・バンコク 〜 1984年1月7-21日, 日本を発ってから約9ヶ月経過

タイトル写真は, 1984年1月19日のワット・プラケーオ(วัดพระแก้ว, Wat Phra Kaew; Temple of the Emerald Buddha, エメラルド寺院とも, しかし「ワット・プラケーオ」は本尊の名前が由来か; 寺院の正式名称は วัดพระศรีรัตนศาสดาราม, Wat Phra Sri Rattana Satsadaram, 日本語カタカナ表記としてはワット・プラシーラッタナサーサダーラーム)。カッコ長かったなぁ。

カッコマン・ブギ ♫

それはさておき ♫

タイの前までの話 〜 1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプト, 再びのトルコ, 更にイラン, パキスタンを旅してからインドへ, インドではアムリトサル, ダラムサラ, デリー, アグラなどを旅し, 年末には首都デリーからヒンドゥー教の「聖地」ヴァーラーナシーに移動, 1984年の「初日の出」は ガンガー(ガンジス川)で拝んで, その次は釈迦が紀元前6世紀に悟りを開いた地ブッダガヤ, そしてインド最後の滞在地はカオスの大都市カルカッタ(2001年以降の正式名称はコルカタ )

見出し, 長ぇ ♫

ちゃんとやります。

以下は タイを訪れる前の インド旅 note リンクで, note *1 アムリトサル 旅 note の第1章には ソ連からパキスタン, つまりインドに入る前までの道のり, その各国各都市・街・遺跡などの旅 note へのリンクに関する説明あり。

note *1 インド入国, まずは シク教「黄金寺院」の街 アムリトサル へ 〜 1983年11月29日-12月3日

note *2 ダラムサラ(インド北部) 〜 チベット難民が住む標高2,000m超の山中で暮らした, 1983年12月の10日間

note *3 インドでは市井の人に「哲人」顔の人がいたりする 〜 デリー 1983年12月12日から25日

note *4 タージ・マハル は確かに美しかった, インド・アグラ 〜 1983年12月23日(デリーからの日帰りの旅)

note *5 インド, ヴァーラーナシー, ガンジス川を眺めながら過ごしていた, 38年前の年末年始 1週間

note *6 ガンガー(ガンジス川, インド・ヴァーラーナシー)で 拝んだ 初日の出 〜 1984年1月1日

note *7 釈迦牟尼が 紀元前530年頃に悟りを開いた場所, インド・ブッダガヤの大菩提寺(紀元前260年創建)を訪ねた, 1984年1月3日

note *8 コルカタで見た 「火の車」 は現実だったのか幻だったのか 〜 カルカッタ, 1984年1月4-7日

さてさて,

バンコクで撮った 写真11枚

いや, 今日は 10枚にしておこう。残り 1枚は, 次章でリンクを貼る(いや, 本章でもリンク貼ってた, 笑), 昨年 2021年1月15日付 note にて掲載。当時のタイ人ペンパル(若い頃, タイ人女性の他, ブラジル人女性やチェコ人[当時はチェコスロバキアという国名だったけどなぁ]の男性などと文通してた, まぁ海外の人と親しくなりたかったのかな)と彼女の妹さんと一緒に撮った写真, あれって顔が写ってるしどうしようかなと思ったけれど, 昨年のその note で既に掲載していたのだった。だから今日のこの note に掲載しても同じことなんだけど, まぁいいや, 昨年の note に誘導してしまう, 誰も誘導されないか(笑)。

写真を載せる前に, タイに着いた日の日記から(とりあえず前半部分)

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この次の頁の冒頭には, こんなことが書かれている。

みんな列つくってるのに, スタンプ押しの役人のところに行って 日本語で「はよーせんかい!」と何度も迫る尊大な態度の日本人のおっさんがいて, ムチャンコ恥ずかしかった。

河内のオッサン

ならいいけど, ああいう「おっさん」, ただただ空威張りする尊大な「おっさん」は心底嫌だね。まともな神経の人が見れば, 何処から見ても醜悪な「おっさん」。

日本が今世紀に入って衰退してきてるのは(まぁもともと政治は三流だから, 経済のことだけど)ひとえに「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と言い切って(後者は安倍晋三にも似てるね), その実, 竹中平蔵と共に「日本をぶっ壊す!」ことに邁進した小泉純一郎, そして「美しい国へ」なんぞと言いながらウソだらけで, 日本をどんどん「醜悪な国へ」変えていった安倍晋三や阿呆太郎こと麻生太郎などの責任が重大だけど(この間に日本の政治は三流から四流, 五流になった), 

上に例示したような, 自分を「ナニ様」にか勘違いした莫迦どもが, 今現在の「凋落」日本がその昔は「飛ぶ鳥を落とす勢い」に見えていた(見えていた!)頃の日本人の中にも少なくなかった, ということも, いま振り返って, 日本の「衰退」「凋落」の始まり始まりだったのかもね, と思う。

それはさておき, そろそろ,

本題に進まねば。何が本題やらだけど, そうだそうだそうだった, タイで撮った写真なのだ。

写真 1/11 (ってか, この 1/11 のところには計3枚の写真, 笑)

前年1983年10月28日に, 2度目のイスタンで床屋に行って,

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髪は切ったものの(笑),

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髭は剃らずにいて, 以降もそのまま伸ばしっ放しにしていたようで, 

1984年1月7日, インドから飛んで タイに着いた日のこの顔,

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この顔に,

似てはいない(笑)。

写真 2/11 .. いや, この写真は今日は掲載せず(と言っても次章にリンクを置く以前の note, いやこの直ぐ上にもリンクを掲載してある note, 別に勿体ぶる写真でも何でもないし既にその過去の note で掲載していたんだけど, 上述の程度の理由で掲載を一旦迷った写真なので何となく今日は控えることに)。何だか 間怠っこしくて申し訳ない, 自分は

健さんに合掌 🙏

ではでは,

写真 3/11 本 note 冒頭で触れた ワット・プラケーオ にて。1984年1月14日

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写真 4/11 ワット・ポー(涅槃寺), 1984年1月14日。 

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写真 5/11 同上

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写真 6/11 1984年1月15日, ローズ・ガーデンにて。髭は剃ってあります。上に書いたタイ人のペンパルと彼女の妹が案内してくれた。この顔, 別ににやけていたわけではない(笑)。まぁやや長旅だったカオスの国インドの日々と違い, 気は緩んでいたかもしれない。

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写真 7/11 この辺りで昼飯を食べたのだ。1984年1月16日撮影。

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写真 8/11 撮影した日は 1984年1月16日。タイは当時はまだ決して豊かでない国だった。要するに, 貧しい人も少なくなかった。おそらく国内の貧富の差はかなりあったと思う(貧富の差自体はどうだろう, 今もわりとそうなのかもしれない)。今は, 皆さんご存知の通り, 日本が落ち目です。いや, タイは当時, 今の日本のように「落ち目」だったわけではない。当時の日本がそうであったように, 方向性としては昇り調子であっただろう。タイは今もそうだ。日本は違う。

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写真 9/11 再び ワット・プラケーオ にて, 1984年1月19日撮影。

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写真 10/11 同上

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写真 11/11 こちらも同じく, ワット・プラケーオ にて。同日。

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次章に移る前に, タイを発つ日の前日と当日の日記から

タイでは, タイ式ボクシングを観に行ったり, 合法的に銃を撃てる場所に「モノは試し」と実弾撃ちに行ったりもしたけれど, そんな話はまた機会があればいつかあらためて。

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韓国・ソウルに着いてからに関する記述の中に登場する韓国人は, 前年1983年5月に デンマーク・コペンハーゲン で知り合った韓国人。彼は日本的な言い方で言えば当時の「韓国電電公社」みたいなところの職員で, その頃はスウェーデン・ストックホルムのエリクソンで研修していたのだが, 休暇中に一人でコペンハーゲンにやって来て, そこで俺と知り合った。宿は別だったが, 俺がいたユースホステルに引っ越して来て親しくなり, 俺がこの旅の最後は韓国に行くと思うと言ったら, 連絡をくれと言って住所などを教えてくれていた(この旅の時だけでなく, その後, 妻と韓国旅行した際に彼も結婚していて夫婦同士で会って夕食を共にしたり, 後年, 出張で韓国に行った時も再会して夕食を共にした)。1983年5月のコペンハーゲンでは, この note で紹介したカーニヴァルを一緒に観に行ったりしていて彼との記念写真も撮っていたのだが, 今あらためて自分の note ざくっとスクロールしてみたところ, どうも顔がはっきり写ってるからと思ったのか note には掲載しなかったもよう。載せりゃよかった。またいずれ, 編集してその写真も載せるかも。 

さてさて,

イスタンブール と バンコク で Almost Cut My Hair 〜 Déjà Vu ♫

前章の前説辺りで言及していた昨年の note, ってか前章の写真 1/11 の下にも貼ったリンクだけど(笑)。

目次は,


1. あ、間違えた、タイトル上の写真は俺じゃなくて ゲバラ だった
2. ではでは、話を本日の主題に戻して、「ただの日本人」の バンコク 1984年1月 〜 Almost Cut My Hair ♫
3. 次は、「ただの日本人」の イスタンブール 1983年10月 〜 Almost Cut My Hair ♫
4. そういうわけで 、既視感 〜 "Déjà Vu" by Crosby, Stills, Nash & Young (1970)
5. バンコクの仏教寺院
6. イスタンブールのスルタンアフメト・モスク (Sultan Ahmed Mosque), ボスポラス海峡 (Bosporus, Straits) 〜 "Sultans of Swing" by Dire Straits ♫
7. 髭を剃ったゲバラ
8. 絶体絶命の窮地 〜 Dire Straits ♫
9. Dire Straits のカヴァー写真は、1983年夏にアテネで撮った写真にちょっとだけ似てるのだった
10. 今日のカオス投稿のボーナス・トラックは 〜 Rickie Lee Jones ♫
11. 最期じゃなくて最後、いや最後から 2番目は 〜 Tom Waits ♫
12. これで今日のカオス投稿は終わり。

さてさて, 

Chuck E.'s in Love 〜 Rickie Lee Jones ♫

ここは前章にリンクを載せた過去の note の第10章から転載してしまうのだった。そういうわけで, 以下の冒頭の「今日」は, 2021年1月15日。

今日の note 投稿のタイトル上、そしてカオス投稿の幕開けの章で取り上げた人物、Ernesto "Che" Guevara,

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ベレー帽を被って葉巻を咥えて、
おっと、ベレー帽(「の・ようなもの」, 1981年 日本映画)を被って、葉巻のようなもの、いやこれは単なる紙巻き煙草かな、まぁとにかく(ちょっとだけ!)似てるではないか、Rickie Lee Jones ♫

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歌、いきましょう ♫ 1979年、大学に入って札幌のミスドで深夜バイト(夜から朝までやったりしたが、翌朝の帰りに売れ残りのドーナツをもらえるのが嬉しかった)してた時、店でよくかかっていた、同年のヒット曲 "Chuck E.'s in Love" ♫

いや, 去年のその note から2ヶ月後くらいに投稿したこの note のリンクをここで貼っちまう, ただしこれは大学3, 4年次の思い出が中心で, 札幌のミスドで深夜バイドしたのは大学に入学した年の 1979年。

では歌を ♫

Chuck E.'s in Love 〜 from Rickie Lee Jones' 1979 eponymous debut album

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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Coolsville / Young Blood / Chuck E.'s in Love 〜 from Rickie Lee Jones' eponymous debut album, released on February 28, 1979

次は, 

Rickie Lee Jones と付き合っていたことがある Tom Waits へ, バトンタッチ。

Ol' '55 〜 Tom Waits ♫ (歌詞和訳)

ここは前々章にリンクを載せた過去(2021年1月15日)の note の第11章から, その前半を転載してしまうのだった。それに 2021年11月11日の歌詞和訳 note に掲載した歌詞と筆者による和訳を加えて。

そういうわけで, 以下の冒頭の「今日」や「本日」は, 2021年1月15日。

理由はモノクローム Monochrome (Kodachrome を今日のカオス投稿の第二章「ではでは、話を本日の主題に戻して、『ただの日本人』の バンコク 1984年 〜 Almost Cut My Hair ♫」の冒頭で取り上げていたのだった), モノクロ系のイメージが今日のカオス投稿のタイトルと最初の章で取り上げた Ernesto "Che" Guevara に何となくマッチするし、それにボーナス・トラック 1曲目の Rickie Lee Jones とその昔、付き合っていたことがあるのだ、理由はそれだけ(かもしれないし、もっとあるかもしれない、あると思う、まちょっと覚悟はしてくれ、というセリフが入っている日本人歌手のあの歌は嫌いだけど) 〜 Tom Waits ♫

上述の 2021年1月15日付 note では, ライヴ・ヴァージョンを載せていた, 歌詞と和訳については 以下の 2021年11月11日付 note の第4章から転載。

この人は若い時から「渋い」んだけど, 歳を経るとどんどん, さらに「渋く」なっていく。そういう意味では後年めっちゃ「渋」なんだけど, このスタジオ・ヴァージョンからたった2年後の 1975年のライヴでも, 既にかなり渋い。
ライヴだからオリジナルの歌詞を一字一句そのまま歌っているわけではなく, 例えばスタジオ・ヴァージョンでは "As I drove away slowly", "As I pulled away slowly" と言い回しを変化させている箇所は, このライヴではどちらも後者の方で歌っている。他のところでも細かいところで聴き取れる違いもあるけれど, 語句の中でごちゃごちゃっと挟んでいるような言葉もあるようで, そんな仔細なところは筆者のヒアリング能力ではとても聴き取れない。というわけで, 上述の "As I pulled away slowly" の箇所以外は, 前章のオリジナルの歌詞をそのまま以下に掲載した。
あ〜あ, とにかくトム・ウェイツ兄いは渋い。このライヴの時は 25歳だと思うと, 尚のこと驚き。今の「還暦」過ぎた筆者より, よほど渋い ♫

Ol' '55Tom Waits LIVE 1975

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除し, 筆者による和訳のみの掲載に改めました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

時間はあっという間に過ぎてしまって, 俺は大慌てで (*1) 俺のくたびれた 55年式の車に乗り込んだ
ゆっくり車を動かすと何だか神聖な気分になって, 神のみぞ知る, どうやら俺は生きてるようだって感じたよ (*2)
いま陽が昇ってきた, 俺は幸運の女神と相乗り中さ, 高速を走る車やトラックと一緒にね
星が見えなくなり始めて, いま俺はパレードを先導してる
ただ望むのは もう少しこうしていたいってことさ
おお神よ, 分かってくれるかい, そんな気持ちが強くなってきたんだ (*3)
そして朝の6時, 悪い兆しは何もなかったよ; 俺は俺の道を進む他ないのさ
やれやれ, トラックは皆, 俺を追い抜いていくね, テールライトを点滅させながら (*4)
俺はいま おまえのところを出て, 家路につくところなんだ
いま陽が昇ってきた, 俺は幸運の女神と相乗り中さ, 高速を走る車やトラックと一緒にね
星が見えなくなり始めて, いま俺はパレードを先導してる
ただ望むのは もう少しこうしていたいってことさ
おお神よ, 分かってくれるかい, そんな気持ちが強くなってきたんだ
時間はあっという間に過ぎてしまって, 俺は大慌てで 俺のくたびれた 55年式の車に乗り込んだ
ゆっくり車を動かすと何だか神聖な気分になって, 神のみぞ知る, どうやら俺は生きてるようだって感じたよ
いま陽が昇ってきた, 俺は幸運の女神と相乗り中さ,
高速を走る車やトラックと一緒にね, 高速を走る車やトラックと, 車やトラックと...

......................

注釈 *1~4 については上掲の note の中に。

Tom Traubert's Blues (Four Sheets to the Wind in Copenhagen) 〜 Tom Waits ♫

ここは前々々章にリンクを載せた過去(2021年1月15日)の note の第11章から, その後半を転載してしまうのだった。

もう一曲、「放浪」のイメージに何となく近い 〜 Tom Traubert's Blues (Four Sheets to the Wind in Copenhagen) ♫
Tom Waits ならぬ拙者、つまりこの note 投稿の筆者、コペンハーゲンも行ったけれど、コペンの話や写真まで入れたらキリないからなぁ(もう既に「キリ」超えてるような気もするが)。

いやはや, 今日は 2021年1月15日付 note と違って, コペンハーゲン旅 note のリンクをここに貼ってしまう, この歌と合うわけではないんだけどなぁ(笑)。

ではでは, 

Tom Traubert's Blues (Four Sheets to the Wind in Copenhagen) 〜 from Tom Waits' fourth album "Small Change", released on September 21, 1976 on ASYLUM Records

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

トム・ウェイツ 〜 アサイラム・イヤーズ, 「人生のポケット」の底で, たまたま手にしたレコード

なんでこれを? それは単純で, 本 note の第3章に載せた過去 note の最後の章にこれを載せていて, その時も大した関連ではなくて, 前章からの流れに過ぎなかったんだけど, ああ, 今日もそんな感じですね!

そうだ, 1984年1月, タイを発って韓国に向かった日は, まだ会っていない妻の誕生日だったのだ ♫

So what?

いや, 俺には大事なことなのだ。それに上のその歌, 歌ってる人って俺の妻じゃないし(笑)。

何はともあれ, めでたしめでたし, Happy birthday ってことで(って今日から8日後が誕生日だけど!), カミさん関連の note を集めてみた。

いや, だから俺には重要な note なんだ。note はまぁ人に読んでもらえれば, 見てもらえれば嬉しいけれど, まずは俺にとって大事な note なので!

結婚

このタイトル写真は, ワシらの結婚披露宴の「御席表」の表紙。

新婚旅行

1991年10月12日に妻と観た, 聴いた, ポール・サイモンのライヴ ♫

直接関係はしないが, 上掲 note 関連 ♫

妻と, そして息子も一緒に観た, 聴いた, バディ・ガイのライヴ ♫(バディ, 何度もライヴ観たけど, 全て最高!)

妻と一緒に行った,

同じく(上掲 note とこれは後述する「桃源郷」で撮った写真と動画),

こうなったらこれも! これはまぁ俺一人で我が街を散歩中に撮ったんだけど,

リトル・ウィング続いたのでもう一つ, 以下の note を加えると「リトル・ウィング」note 四連発になる, ジミヘン・クラプトン・SRV・スティング, そしてアリス・フィービー・ルー, というわけで「リトル・ウィング」三昧ならぬ「リトル・ウィング」五昧? そりゃヘンだな ♫ 「三昧」は サンスクリット語の समाधि (samādhi), カタカナ表記 サマーディ の音写なのだった!.. ウィキから音写ならぬ転写すると(笑)

サマーディの語は「組み合わせ」という原義から「心を等しく持すること」の意に転じたもので、

だからまぁ, これは「リトル・ウィング」五人衆の「組み合わせ」による「リトル・ウィング」三昧。またまたウィキから写経すると(笑)

サマーディの音写である三昧(さんまい、サンスクリット語: समाधि、samādhi)は、仏教やヒンドゥー教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。

「リトル・ウィング」五人衆の「組み合わせ」による「リトル・ウィング」三昧で, 「精神集中が深まりきった」「瞑想」の「状態」に入ることができます。ゆめゆめ, 夢夢, いや 努努, 聴きすぎて, 効き過ぎて, 「瞑想」状態から脱した挙句, 迷走したりしてはなりませぬ。

カミさんと何度もライヴを観た, 聴いた, 息子も一緒に3人でも何度もライヴを観た, 聴いた, クラプトンについての note ♫

クラプトンの歌の歌詞和訳 note の一つ, タイトル写真は 我が家のハイビスカス, 

タイトル写真は拙者の手だけど, note の中には同じ場所で撮った妻の手も(妻は仕事柄つけられないので結婚指輪は普段外している), それと, はっぴいえんど のメンバーの一人だった鈴木茂氏から妻と拙者宛てに書いてもらったサインの写真も,

タイトル写真がそもそも, 妻と息子と俺,

タイトル写真, これは実は, いや, 実はもなにも, 妻の背中,

15年遅れ, 2016年に妻と観て感動, 「千と千尋の神隠し」,

この note の前説には, コリーヌ・ベイリー・レイさんから拙者の妻と拙者宛てに書いてもらったサイン入りの彼女のCDの写真, それからなんとコリーヌさんと拙者のツーショット写真も掲載, ただし, 後者に関しては拙者の顔は不釣り合いなので(笑)出さないように写真の右半分カット,

上掲 note 2本とこれで, 「桃源郷を求めて」note 3点セットなのだ(笑),

このタイトル写真は, 我が街の隣り町になんと二箇所ある「桃源郷」のうちの一つで撮った, 巨大なハスの花と妻の手, 

妻と一緒にブラック・ゴスペル・ワークショップに初めて参加した年2001年, その年の11月に, 同じキリスト教会で我が「無神論」一家3人でブルーズを歌ったのさ,

クリスチャンでない者が, クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 前説

クリスチャンでない者が, クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 本篇

タイトル写真は, 結婚前に妻と映画館で観た, ジム・ジャームッシュ監督, トム・ウェイツ, ジョン・ルーリー, ロベルト・ベニーニ共演の映画「ダウン・バイ・ロー」の一コマ,

映画 続き, これって「人生のパートナー」を得ることにも関係する映画だし,

タイトル写真の Tシャツは, 妻の Tシャツ,

これは我が街の夕焼け, 

タイトル写真に写っているのは うちのカミさん, 

我が家の小庭で撮れた, じゃなくて, 穫れた, 収穫したゴーヤ, 

同じく,

我が家からわりと近いところで撮った(妻と散歩に出た時だったかも), ひまわり,

これは我が家, いま俺自身は, そしてもちろん妻も, 「居場所のある」人たち,

妻と泣きながら観た映画,

我が街で撮った, 「雨に負けぬ花」,

タイトル写真の撮影場所は, 我が家の食卓,

妻と知り合った頃のことも書いた,

そりゃもう,

タイトル写真は, 我らの結婚式(宗教と関係ない「人前式」)・披露宴の時の招待状, その写真は婚約の時の記念写真,

タイトル写真は妻, これは「キャシーの歌」であると共に, 「道子の歌」♫

これでいいのだ

前章は 一体 ナン

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だったのかって? .. だから, 1984年1月にタイから韓国に飛んだ日が, たまたま, 当時まだ会ってなかった妻の誕生日だったんだって,

これでいいのだ。

俺は「バカ田大学」, じゃなかった, 早稲田大学の理工学部数学科に行こうと思って模試の合格判定もいつも A かわるくても B だったけれど(嫌味だね), 結局, ユエあって, というかユエなくてというべきか(笑), 我が人生「十八番」の直前に突如気を変えるの芸で, 別の大学に行った, 1979年入学,

これは大学3, 4年次の時の思い出 note,

とにかく, これでいいのだ,

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いいと思うよ, 俺は。 

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