ある男

「ある男」を読んで

平野啓一郎さんの「ある男」という作品を読んだ。
平野さんのことは、『私とは何か「個人」から「分人」へ』という作品で知った。過去対人関係や自己に対して苦しく感じてきた私にとっては、「個人」ではなく対人で自身が出す部分が違ってもなんらおかしくない、むしろそれがナチュラルなことであるという「分人」という考え方は、ストンと胸に落ちたし、心が楽になった。子供達が将来自己に葛藤を覚えて迷った時にはぜひオススメしたい1作だと強く思った。そんな平野さんが書いた新たなる小説が出ると数ヶ月前に知り、読めるのを心待ちにしていた。

「ある男」には、人々の苦悩がたくさんつまっている。この作品は小説であり、フィクションだけれど、これがノンフィクションであっても私はなんら驚かないと思う。人というのは、どんなに一見幸せそうに見えても、本当のところはどうかはその人しか知りようがない。

私の父・夫は共に主人公の「城戸さん」と同じ職業で、私は幼い頃から、父から人の人生をたくさん聞いてきた。父は民事・刑事事件などを専門的に取り扱ってきたため、通常の人間だと見聞きしないような、驚く程壮絶な人生を送っている人々に携わってきた。

クライアントの解決のために全力を出すということは、他方のクライアントは不利益を被ることも往往にしてある。時には恨まれてしまうこともある。
父から聞く話はどれも壮絶で、それを聞いてきたことにより、私は人の人生を羨むということをしなくなったと思う。
一見幸せそうでも、人は他人からでは測りしれない苦悩を抱えているかもしれない。そう思うと、人の人生をある部分だけ見て羨むという行為は意味のないことのように思えた。だから私には、嫉妬という感情は殆どない。
「この人はすごい!心から尊敬する!」という感情は人よりも強いと思う。けどそれが、「妬み」みたいな感情に結びつくことはない。どんなにすごい人たちでも、みなそれぞれに苦悩を抱えていることが多いし、社会的な成功や外見などは時にその苦悩を深いものにする。

「ある男」の主人公である城戸さんもはたから見たら、なんの苦悩も抱いていないように見える人であろう。仕事は殆ど順調にいっているし、妻子もいる。けれど彼はひどく孤独感を抱いている。自己が抱いている優しさは「欺瞞的」だと感じているし、自己への信頼を確信しきれずに物悲しさを覚えている。家庭で妻と分かり合えないことで、彼の苦しみは増していく。そして彼はXの人生を追うことに傾倒していく。

その傾倒の過程で、彼はXになりきったりする。彼みたいに理性的で自己の感情のコントロールに長けている人間でもそういうことをするのだ。この小説はフィクションだそうだけど、細部まで人の感情がとてもリアルに描かれていて、ノンフィクションかと錯覚してしまう。

この小説のメインテーマは「愛にとって過去とは何か」ということだ。

「過去を偽る」という行為も「愛」の行為なのかもしれない。それはいびつではあるけれど、「愛しているから過去を言わない」ということもありうると思う。人は語りたい生き物だから、「真実を言わない」ことのほうが「言う」ことよりも大変だと思う。

Xが妻、里枝に語っていた過去は、自分の過去ではなかった。きっとXは本当は真実の彼の過去を打ち明けた上で里枝に存在を認めてもらいたかっただろう。Xがしていたことは、数時間だけ偽った自分になる、というのとは訳が違う。人生全てを塗り替えないと生きていけないと感じてきた半生はすごく切ない。

XがXになる前に出会っていた人たちから、彼は好かれていた。でも彼はその人の好意や期待というものを受けきることが出来なかった。人の好意や期待というのは、大抵の場合は受けると嬉しいものだろう。けれどそれらを受けるにも、力がいるのだ。「自分はそういったものを受けるに値する」という土台がないと、その思いはただただ重くてしんどいものになってしまう。

私は、親から褒められたことが一度もなく、長い間自己が存在していいものかどうか分からずに苦しんだ。今となっては両親に悪気があった訳ではなく、ただそういう人たちだったんだと分かるけど、褒められるということに慣れていないから、自身がその言葉や思いをどう扱っていいのかは、未だに分からない。褒められたり、人から期待されたりするとどう返すのがいいものか戸惑ってしまう。自身が親になれたことで、私の中のアンバランスな部分は相当マイルドになったし、自己の存在に苦しむことはもう殆どなくなった。

けど、苦しんできたからこそ「ある男」のような作品にすごく共感を覚えるし、この作品に出会えてよかったと心から思う。人には誰しも、ものすごく辛かったこと、があると思う。そんな感情に思い当たることがある方には「ある男」はぜひ読んで頂きたい作品です。

『「ある男」を読んで、旦那に優しくなれた』という「ある男」アナザーストーリーがあるので、もしニーズがあったらいつか書いてみたいと思います。

長文お読み頂きありがとうございました!(今回は初めて語尾をですます調じゃなく書いてみました。そんなに気にならなかったら、ですますじゃない方式で今後も書いてみようかなぁ)


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書けども書けども満足いく文章とは程遠く、凹みそうになりますが、お読みいただけたことが何よりも嬉しいです(;;)