たらず

 あれは小学校の低学年の頃だったか。近所に大きな公園があって、そこで毎日、クラスメイトや同じ学校の生徒など、ちょうど居合わせた子供たちと遊んでいた。

 家から近いこともあり、その公園は好きだったが、裏手に墓地があるので苦手意識もあって、そちらにはなるべく近づかないようにしていた。日が暮れてから訪れることもなく、夏の夜の花火もその公園でしたことはなかった。
 そんな公園である日、一人の男の子に出会った。彼はいつも公園を横切るようにして抜けて、私が苦手にしていた墓地へ向かうのだ。
 お墓なんて怖いところによく行けるものだと、いつも感心させられていた私は、遊び相手がいなかったあるとき、肝だめしでもする気分で彼の後をついてゆき、墓地の入り口の手前で声をかけた。
「なぁなぁ、どうしてお墓に行くん? 怖くないん?」
 多分、そう言ったはずだ。すると彼は、こう答えた。
「怖くないよ。だって、お母さんがいるもん」
 そうか、お母さんがいるのか。それなら怖くない。
 納得した私はその場で彼と別れて公園に引き返し、別の遊び相手を探した。
 彼に話しかけたのは、それが最初で最後だった。
 その後も彼は、いつも一人で墓地に向かっていたが、理由がわかって満足した私がそれ以上気に留めることはなかった。
 五年生になる前に転校して以来、その公園を訪れることは無く、件の彼ともそれっきりなのだが、近頃ふと思うことがある。
 こうして小説を書いているからか、彼のあのときの言葉がどうにも引っかかるのだ。
「怖くないよ。だって、お母さんがいるもん」
 なにか、おかしくないだろうか?
 どこか、不自然ではないだろうか?
 もし同じシーンを書くとしたら、私は彼にこう言わせるだろう。
「怖くないよ。だって、お母さんが待ってるもん」
 もしくはこうだ。
「怖くないよ。だって、お母さんのお墓があるもん」
 さて、どうだろう?
 単に“言葉たらず”なだけだったのだろうか?
 それとも、本当に母親がいたのだろうか?
 例えば、墓地の清掃の仕事をされていたとか、墓地を待ち合わせ場所にしていたとか、お墓を抜けた先に待っているとか、その先に職場があって近道だから通っていたとか、考えてみれば可能性は色々ある。
 実はなんということのない理由に過ぎず、気にするだけ時間の無駄なのかもしれない。けれども、もうちょっと言いようがあったのではないか、という気もする。たとえ子供だったとしても。
 そう思うと、ついつい考えてしまうのだ。
「怖くないよ。だって、お母さんがいるもん」
 もしも、あの言葉がそのままの意味だとしたら、墓地にいる母親とは一体……?

 そういえば、彼はそもそもどこの誰だったのだろう?
 学校で見かけたことは無く、近所でも無い。
 いま思えば、あの公園でしか見かけなかった気がする。それも墓地へ向かう姿しか見たことが無かった気がする。
 そして、私のほうが先になるのか、帰り道が違うからか、彼が墓地から出てくるところも、帰ってゆく姿も、ただの一度も見たことがなかった、気がする……。

 怖がりなくせにその手の話が好きという偏屈な私は、なんでもかんでも怪談に結び付ける悪い癖があるらしく、それだけのことなのに妄想が掻き立てられて、ついついおかしなことを考えてしまう。
 果たして、たらないのは言葉か、それとも記憶か、それとも良識か……。

(小説 【たらず】 原稿 著者・小野 大介 完)

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