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ありふれた学校批判

 「一斉一律の授業を行うことによって、学校は子どもの主体性を奪ってきた」とか、「学校が対話する機会を奪ってきたから、子どもの民主的な態度が育っていない」というような、学校教育を批判するよくある言説。これってもしかすると、学校を授業や制度などのほんの一面でしか見ていない、ものすごく解像度の低い批判なんじゃないかと最近は思っている。
   学校で子どもたちと一緒に過ごし、さらに教師の目の届かないところでの子どもたちの姿を想像すれば、これらの批判が当たっているようで、実はかなり的外れであることに気付く。

 もっと歴史を遡って考える。「学校は軍隊教育を起源としていて、上官の命令に従順な人間にするための教育が行われ、今もその要素は色濃く残っている」とか、「工場での大量生産を目的とした人材の育成のための教育が、現代でもなお行われている」という言説。たしかに国家や政策のレベルでは事実なのかもしれない。
    しかし、実際に学校で教師と子どもが共に生活する中で、四六時中つねに軍隊教育や人材育成を意識した関係性であったとは到底考えにくい。教師と子ども、人と人との関わりに着目すれば、集団の中で暮らす上では当たり前の、決して一面では捉えられない混沌とした関係性がそこにあったはずだ。

 学校はずっと前から、おそらく100年以上も前の、偉い誰かの言説を焼き直したような、使い古された批判が擦り切れるまで繰り返されている。そして、「こんなに批判しても、なぜ学校は何も変わらないのか?」と揶揄される。しかし、その批判自体が、今の学校そのものを見誤らせている可能性もあるのではないだろうか。
 どこかの学校の、顔も知らない人たちが抱えている問題を、ニュースやSNSは学校一般の諸問題として取り上げる。私たち読者は、その問題に誰もが言っているありふれた言説を当てはめて、分かったようなつもりになって批判し、満足する。そんなことが毎日繰り返されることによって、ありふれた批判は強化される。
 そんなありふれた学校批判に、ちょっとうんざりしている。

 そして今日も、学校では毎日何かが目まぐるしく変わり続け、動き続けている。

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