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世界的ダメブームと日本の小劇場ブームのハイブリッド、映画史で見る今泉力哉監督の『サッドティー』

いきなりだが映画史から今泉監督を見てみる。

世界中で政治に怒れる若者たちが、旧態依然の大手映画スタジオを飛び出し、街でストリートで手持ちカメラでもって映画を撮り始めるのが1960年代前後。
戦後の街でカメラを回したイタリアン・ネオリアリズムに触発され、フランスでヌーヴェルヴァーグ、アメリカでニューシネマ、日本では松竹ヌーヴェルヴァーグなど各国で同時代的に起こる。呼応した若い役者たちも表面の汚さや心の闇など人間そのままの姿を剥き出しに「今ここのパッション」を演じてみせる。
『タクシードライバー』のデニーロや『龍馬暗殺』の原田芳雄など、映画が作られた頃の「政治の季節」の空気を身にまとっているように見える。

しかし、これらの『リアル』は怒れる若者というめちゃくちゃアクティブな人々のリアルであって、それは既に『ドラマチックな人物像』なんじゃないの?と感じたであろう80年代の若者たちが『等身大の人物像』のリアルを作り始める。
例えばジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の登場である。ここに出てくる役者は決して狂気を演じたりしない。だらだらと日常の我々の体温と時間感覚で演じられる。退屈と思う客もいるだろうが、やはり演技の転換点になった。

しかし90年代頃になると、いやいやいや、結局これって文化的にカースト上位でオシャレな人たちのリアルだろ?と感じた若者たちが、次のリアルを作り始める。
フィンランドのアキ・カウリスマキや日本の山下敦弘の登場である。
彼らの主人公は端的に言えば『ダメな人』である。コミュニケーション下手で、容姿もファッションとは無縁でパッとしない。仕事は低所得の場合がほとんど。そして頑張らない。今までの映画が主人公にしてこなかったダメな人たち。そして私たちが外ヅラじゃない時の姿のリアルがこれで、ミニシアター層の共感を呼ぶ。
ここでの俳優たちは、ぼそぼそ喋り、体幹が弱そうな感じで姿勢が悪い。そのダメな身体が生むダメな空気、ダメな時間感覚が映画の心地よいダウナーさを生む。2000年代にはアメリカでもマンブル・コアというゴニョゴニョ会話映画のムーブメントが起こるし、ホン・サンス監督もこの流れにあると思う。

さて話は変わるが、
日本映画は世界でもかなり演劇から影響を受けてる方だと思う。おそらく江戸時代から大衆も演劇文化を楽しんでた国だからか、昔の映画人は歌舞伎や現代劇(新劇)との人物交流が多く、60・70年代の怒れる若者の時代も前衛演劇の寺山修司は主にATGなどで脚本家としても監督としても活躍した。
もちろん監督が直接影響受けるだけでなく、舞台と映像を行き来する役者たちの媒介者としての役割が大きいと思うのは言うまでもない。
そして80年代くらいから小劇場ブームが起こる。平田オリザの声を張らない「現代口語演劇」や、日常会話的おかしみが魅力の三谷幸喜など、日本の映画界(特にオルタナティブな人たち)はかなり影響を受けている。前者は市川準などボソボソと喋る作品を撮る監督たち。後者は日本のコメディ映画に。(余談ですが、ボソボソ喋る映画の影響でブレッソンの存在があるが、僕は日本でボソボソ喋る映画で成功してる人はブレッソン観て真似したい欲望で撮ってる人じゃなくて、ブレッソンも観つつ平田オリザや青年団などの演劇や役者に影響受けてる人、彼ら役者へのリスペクトのある人な気がします)

映画だけではない。『小劇場の笑い』は日本のエンタメ全体に変化をもたらす。漫才やコントにもその影響は見てとれる。

ということで今泉監督である。
山下監督らのダメな人たちのリアリズムと、小劇場からくる日常会話のおかしみの魅力がハイブリッドになった、日本映画のオルタナティブ要素を高機能に備えた監督、それが今泉監督だと思う。
よく『日本のホン・サンス』と言われるが、今泉監督はより日常会話のおかしみに日本特有の小劇場の笑いを色濃く感じる。

ここまで書いといて、ちょっと疲れたので『サッドティー』の解説までは書かない。今泉監督がブレイクした作品『愛がなんだ』の、それ以前の傑作であり代表作として、未見の方は是非観て欲しい。


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