見出し画像

SNSでの〇〇アートも、地方の〇〇アートも、じつは同じかもしれないというはなし(9/27)

最近「〇〇アートやってみました!」みたいな動画を山ほど見かける。ぶっちゃけ「え!?何が”アート”なの!?」みたいなことも多い。あと、地方のイベントとか見てると「〇〇アート体験会」みたいな、そういうのによく巻き込まれる。正直対応にちょっと困ったりもする。

そういう”アート”は、これまでの芸術の分野や文化庁なんかが想定している分類とは全然別のベクトルなんだけど、ちょっと調べただけで山ほど出てくる。例えば、パステルアート、AIアート、テクスチャーアート、アルコールインクアート、たんぼアート、ダイヤモンドアート、フルイドアート、ボーリングアート、スクラッチアート、ストリングアート、ダンボールアート、フードアート、ネイルアート、レジンアート、ヘアアートメイク、サイエンスアート、フラワーアート、アートパフォーマンス、アートワークショップ、アートプリントとか……ほかにもいろいろ。1人一派みたいになっていて、正直もうよくわからない。美容とか手芸関係が比較的多いのかな?とりあえず何らかの単語に〇〇アートと入れれば、Googleに引っかかるレベル。アートがゲシュタルト崩壊しそう。というかもうしてる。

以下、ネットで少し調べただけでわらわらと……

いや、特定の何かを揶揄するつもりはないんだけど。ただただいっぱいあるな、と。感心するというかなんというか。ショート動画とか見てると本当に山のようにいる。

こういう「アートって言ったもん勝ち」みたいな風潮は、SNS文化のせいでどんどん加速している。日々新しいジャンルを作り出し、人目を引くことでお金を稼ぐというやりかたが、たぶんどこかにあるんだよね。マスコミもワイドジョーですぐ〇〇アートって言うし。

けど、そういう方法論が蔓延することで、アートって言葉の意味がどんどん流動的になるのは自分の人生に影響がでるのでちょっと困る。

たとえば、「アート=子供向けのワークショップ」とか、「アート=手芸」みたいなこと期待されることもあるんだけど、僕は手芸は専門外なので居た堪れなくなる。田んぼアート……?無理っす。すみませんが他の人あたってください……みたいなこと、よくあるんで……

ちなみに、ベネッセがウェブサイトに載せてるテキストを引用します。

  • 【1】想像力や表現力を豊かにする ...

  • 【2】芸術的感性や感覚が身につく ...

  • 【3】さまざまな素材や画材、道具に触れて楽しめる ...

  • 【4】共同制作でチームワークが身につく ...

  • 【5】作品が思い出として残る ...

なるほど、これは豊かな心が育ちそうだ。これは「子供がアートを学ぶメリット」だけど、SNSにいるような、アートに興味のない人の認識の大半は↑みたいな感じだと思う。そうだとするとやっぱりアートは素朴な”ものづくり”とか”手芸”を装飾する言葉になってくる。

改まってアートの言葉の定義とか意味を声高に語るのももはや恥ずかしいけど……たぶん「新たなアートのジャンルを作り出す」人の中で、アートって言葉は「なんか新しい感じがして技巧的に優れている何か」でしかないわけで、そもそもそうやって命名することも、方法論の一部に過ぎない。

話は変わって、ボードリヤールの現代アート観は結構好きだったりする。横尾先生がブチギレたことで一時SNSで話題になったボードリヤール。SNSで話題になってから数年。芸術の陰謀で書かれたような傾向は加速しているように感じるし、特にSNSで触れる”アート”の感覚と、すごくマッチしている気がしている。

アートという概念についても、”アーティスト”にとっては終わっていないけど、SNSのショート動画を最大の娯楽として成長してきたような人にとっては、もはやアートという特別な概念は消え失せてるのかもしれない。特別じゃないから、もうあちこちに普通に存在してる、だから無くならない。みたいな。

Aそうすると当然、「アートって実はすごくないんじゃない?」ってカウンターも機能しなくなってくる。前提がなくなるから。ボードリヤールの言うように、アートって世の中に蔓延しまくっていて、もしかしたら「本当はすごいんじゃない?」って言葉の方が、逆に今の時代ではカウンターとして機能するのかもしれない。

ボードリヤールは現代アートの文脈だけど、SNSとか地域主体のアートなんかは、その結果の表出のようにも見える。

あと、世の中にありふれて普通のものになってしまうと、批評というある種の権威づけも機能しなくなってくる。というか、もうあんまり機能してないと中の人たちも思ってる。

多くの人はSNSが発展する中で、冷静に批評を読めない。そして批評が機能しなくなるとコンテンツも機能しなくなる。批評が機能しなくなったコンテンツは衰退する……とか思ってたんだけど、なんか上のブログを読んでたら、ちょっと思うところがあった。コンテンツが批評を必要としているという考え自体がすごく偏ってるのかもしれない。これはVtuberに対する言及だけど、最近のコンテンツ全般に対しても言える気がする。以下引用

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(8)VTuber自身がVTuber批評を必要としていない

ふつうに一番怖いのがこの点かも知れない。VTuber個人が「VTuberは、外側からどう考えられているのか」について無頓着である、という事態こそ、コンテンツを急速に衰退させるように思える。いまは資本の力で無理矢理延命させているに過ぎない(いや、金はもちろん重要なのだが、金がまわらなくなったら死にうる、ということだ)。

筆者が最近何度も指摘している通り、
VTuberは演劇であり、演劇の特殊パターンである。演劇の歴史においては、言うまでもなく、メソッドが培われてきた。筆者の文章は、VTuberのメソッドそのものだと考えているが、VTuberたちは、行き当たりばったりに活動していけば大丈夫と思っているようだ(筆者の文章は、現場の人物が読んでも大きな乖離がないように書いているつもりである。つまりそもそも、現場の人間は筆者の文章を読んでいないのだ)。

たとえば、
月ノ美兎が構造の鬼であることはすでに指摘したが、それはつまりメソッドの鬼なのである。月ノ美兎だけでなく、がうる・ぐらにもメソッドがある。それを我々は発見できていないだけだ。

がうる・ぐらが「かわいい」という評価で立ち止まってしまうのなら、それは批評ではなく「みんなが言ってることを一緒に言っているだけ」である。少なくとも2つの問いがある:「なぜかわいいのか」あるいは「かわいい以外に言うことないのか」。こうした問いに答えを出すことが、メソッドに繋がる。メソッドがない表現は、単なる行き当たりばったりである。そのことに対して、
VTuberたちは自覚的だろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ブログの筆者はVtuber批評があまり読まれない(機能していない?)という点に言及している。Vtuberは、そのコンテンツの内容において、語るだけの背景や文脈や内容をそもそも想定していない(初音ミクくらい?)。これはSNSでの〇〇アートや、地方で急に掲げられる〇〇アートたちも同じ。語ることができるのは業界構造への言及だけで、コンテンツそれ自体には何も触れないし、触れられない。

これはAIの考える地方アート(Regional art)。

Vtuberの特徴といえば、動画配信におけるライブ性や即興性がある。同じような即興性を扱うものとして、(比較が適切じゃない気はするけど)20年代初期に芸術で生まれた”ハプニング”があるけど、SNSのショート動画で起こるようなハプニングは、本当に「ただの偶然」「思いがけないできごと」であってそれ以上でも以下でもない。

SNSやVtuberは、そのできごとにメソッド(編集)を通じてコンテンツ化する。”表皮”を被せて世の中に放出する。内容じゃなくて形式が重要になる。

そもそもそういう〇〇アートをする本人たちも、Vtuberも、表現で社会に居場所をつくって延命することにあんまり意味を見出していないというか。

創作物という自覚もあんまりなくて、自分達のやってるコンテンツ自体「え?こんなのすぐ終わるっしょ?」って言ってるくらいこだわりがないというか。一時代に一気に稼いで終わる気満々というか、そんな感じがする。そんな雰囲気も含め、最初の話になぞらえて考えるなら、SNSでの〇〇アートや地方で生まれる〇〇アートは以下のような感じ

SNSや地方で〇〇アートを名乗るもの自身が、もはや批評を必要としていない。

……いざ言葉にしてみたら、全然普通のことで拍子抜けした。

本人たちにもむしろ「そういうのいらなくない?」みたいな。コンテンツが飽きられたら、(他の人がやっている)新しいものを模倣し、自分のコンテンツに取り込む。そもそも独自性を前提にしていないから批評も必要としていない。

独自性を前提にしてない創作活動の形が、SNSや地方での「〇〇アート」というものの大半になるとすると、それっていったいなんなんだろうね。模倣の模倣。方法論に消費されるアートという言葉。いつかそれが当然になって、気にならなくなっていくのかね。どうなんだろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?