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エッセイ:自由を感じることについて

あなたはどういう時に自由を感じるでしょうか。

たとえば、好きなものを好きなタイミングで買うこと?

あるいは、自分なりのルールを作ること?

端的に「自由」とは何でしょうか。

「自由」それ自体の定義はかなり難しそうですから、一歩引いて、わたしたちが日常的に「自由だなあと感じること」はどういうことなのか、について考えてみたい。

というのも、わたしは最近になって、自由の感覚が変わりました。

変わったというか、付け加わったというか、ここ最近の人生経験のなかで、そういう感触を得たのです。

それを言葉にしてみよう、思考を文章にしてみようと思い、このエッセイを書いています。

このエッセイは、自由を感じるということについて考えるものです。

簡単に全体像を先取りしましょう。

まず、自由を感じることについて考えるために、そもそもわたしたちは自由ではないのではないか、ということについて考えてみます。

ある視点に立って突き詰めて考えてみると、わたしたちは全く自由ではないのではないか。(1.自由なんかじゃない)

とは言え、わたしは、生活感覚として「自由」を感じることがあります。

そこで、自由を感じるということについて、二つの類型を考えてみます。

ひとつは、わたしが自由と感じるのは、何かを使うときであるということ。(2.わたしの財産と自由)

もうひとつは、わたしが何かを構築するときであるということ。(3.わたしたちの幻想と自由)

また、最後に、何かを構築することが自由である、ということの例をいくつかあげようと思います。(4.彼らはなぜ構築したのか)

具体例として、デヴィッド・ボウイ、抽象画家(カンディンスキーなど)、濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』に触れたいと思います。

本文は、できるだけ生活感覚的な言葉で書いていますが、一応、元ネタというか参考にしている哲学・思想があります。

なので今回は各章の末に、元ネタについての短いコラムを書いてみました。


さて、このエッセイはあくまで思考実験であり、わたしの勝手な考察です。

決めつけるものでもなければ、あなたに押し付けるものでもありません。

暫定的に思考してみるということ。

でも、わたしひとりでは上手く考えられません。

ですからあなたと一緒に、自由について、自由を感じるということについて考えてみたい、そう思います。

前置きが長くなりました、では早速始めましょう。

わたしたちが自由を感じるということは、どういうことなのか。


1.自由なんかじゃない

「すべてのものは神からあらかじめ決定されていたということ」
(『スピノザ全集Ⅲ エチカ』p.78,スピノザ,上野修訳,岩波書店)

わたしたちは、生活のなかで、多かれ少なかれ、自由だなあと感じることがあるでしょう。

でも、ここでは、その正反対を考えてみたい。

つまり、実はわたしたちは全く自由ではないのではないか、ということ。

実は、わたしたちは自由なんかじゃない

どういうことか。

ようは、わたしたちの行動は、すでに「決められている」かも知れないということ。

では、決められている、というのはどういうことか。

たとえば、サイコロの目について考えてみましょう。

サイコロを振るとき(六面サイコロとします)、どの目が出るかは六分の一の確率なのだから決まっていないじゃないか、と思えるでしょう。

1が出るか6が出るかは、神のみぞ知る!

だからこそ、賭け事のようなものが成立します。

だって決まってたら、賭けにならないですからね。

でも、確率から視点を変えて、物理学的の視点から見たらどうでしょうか。

そうすると、実は、サイコロを振るときに、サイコロを手のひらのどこに置くか、力の入れ具合、方向、床との距離、(地球上で振っているのだとしたら)地球の重力、様々な要素を考慮すると、振る前からすでにどの目が出るかは決まっているのではないか。

ようは、サイコロの1の目が出る結果が生じる原因がすでにあって、その原因によって結果は自ずから決まっているのではないか。

結果←原因←原因←原因←原因←原因←原因←原因←原因。

このように原因をさかのぼることができる。

原因を最後までさかのぼれば、宇宙の誕生OR神の天地創造までまっしぐらなわけです。

言い換えれば、運命はすでに決まっているということ。

でも、急に宇宙の誕生とか神の天地創造と言われても、極大すぎて良く分からないですよね。

ではもう少し、生活感覚に近づけてみましょう。

「習慣」ってどのように形成されるでしょうか。

たとえば、普段、乗っていた電車が急停車したとき、外で「キーッ」って大きい音がしたり、慣性の法則で身体が進行方向にもっていかれたり、一瞬風がふっと流れたりします。

でも「風がふっと流れた=急停車する」という原因結果の順番は決して正しくありません。

わたしたちはそうは結論付けないでしょう。

運転手が急ブレーキを踏んだから、あるいは、急な停止信号があったから。

風がふく=急停車ではなく、停止信号や運転手のブレーキ操作と急停車が、原因結果の関係として正しいことが分かります。

このように、わたしたちは、身近な「風がふいた」という現象ではなく、実際の「運転手の操作」を原因と考えることができる。

そういう正しい原因結果の関係を見抜く能力が人間にはあります。

そして、この因果関係を見抜くことで、習慣が形成されるのです。

習慣は、物事には原因と結果がある、ということから形成される。

これってさっきの運命によって結果が決まっている、と似た話ですよね。

たとえば、わたしが誰かを殴りつけたとしても、その原因として、相手の侮辱的な発言があって、その相手の発言も、前日に上司にいじめられてむしゃくしゃしていた、という原因があって、その上司もその前の日に、、、、、というように原因の原因の原因。

こうやって、原因と結果の関係を突き詰めて考えてみると、実は、わたしたちは全く自由なんて無いのかもしれない。

わたしたちは自由なんかじゃない、と言えるかも知れません。

【参考文献】
『スピノザ全集Ⅲ エチカ』,スピノザ著,上野修訳,岩波書店,2022年
『英米哲学史講義』(「第五章 ヒュームの因果批判」),一ノ瀬正樹著,ちくま学芸文庫,2016年
『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』,國分功一郎,講談社現代新書,2020年

コラム

ヒュームの習慣についての考察は、わたしたちの知識形成についてとても説得力がある議論でもあります。
またスピノザはの自由論はとてもユニークです。なぜならシンプルに自由意志を否定しているからです。自由意志、つまり行為の原因に人間はなりえないということ。自由な意志があるということは、自分が自分の行為の始点となることです。しかし、人間が行為をするときは、必ず何かの影響を受けているのであって、自分が始点となるようなことはない。スピノザはそう考えました。むしろ、この必然性を理解し、そのなかで自然に振舞うことこそ自由であるとスピノザは考えました。
わたしが2章以降で展開する自由論は、スピノザ的な意味で言うと「臆見」にあたります。ようは、わたしたちが「自由だと感じてしまうこと」についての話だからです。ではそれはスピノザに否定されているから無意味なのか。その答えは、ひとによって異なるでしょう。それでも、わたしは、考えて、書いてみたいのです。

人間は自分を自由であると考える点で誤っているが、この臆見は彼らが自分の活動を意識しつつも、自身が決定される諸原因を知らないということにのみ存する。
(『スピノザ全集Ⅲ エチカ』p.117,スピノザ,上野修訳,岩波書店)


2.わたしの財産と自由

人は誰でも、自分自身の身体に対する固有権をもつ。
(『完訳 統治二論』p.326,ジョン・ロック,加藤節訳,岩波文庫)

前章では、原因と結果を突き詰めて考えてみると、宇宙の誕生やら神の天地創造まで遡っちゃて、わたしたちは自由なんかじゃないかもしれない、という話をしてきました。

でも、実際、わたしは自由であると感じている。

いくら他人に、それって実は自由なんかじゃないよって言われても、現実に自由を感じてしまうのだから仕方がないでしょう。

とくに、わたしには、わたしのことはわたしの自由にしていい、という感覚があります。

自分のことは自分の自由にしていい。

以前までのわたしにとっては、わたしのことはわたしの自由にしていい、という感覚だけが「自由であると感じること」でした。

今は、また別の自由を信じています、それは次の章で。

ここでは、「わたしのことはわたしの自由にしていい」について考えます。

まず、わたしのこと、とは何でしょうか。

まずは、身体です、わたしのカラダ。

そして、時間。

さらに、言えば、この身体と時間によって生み出されたものです。

もう分かっていただけたのではないでしょうか。

どういうことか。

つまり、わたしは、大学生になって初めてバイトして、お金をもらって、そのお金を自分で好きにつかったときに、大いに自由を感じたのでした。

そういうことってありませんか?

自分のお金を自分で使う。

お金・身体・時間。

可処分所得・可処分身体・可処分時間。

つまり、先ほど言った「わたしのことはわたしの自由にしていい」というのは、わたしの財産はわたしの自由にしていい、ということです。

ひとが何にお金を使うのも、身体を使うのも、時間を使うのも自由。

友人と一緒に遊ぶのも自由、ひとりで本を読みふけるのも自由。

身体と時間とお金の使い道だけは、(仮に原因結果で決められていたとしても)その行使のときには自由を感じるのです。

【参考文献】
『完訳 統治二論』,ジョン・ロック,加藤節訳,岩波文庫,2010年
『西洋政治思想史』(「第五章第四節 ロック」),宇野重規著,有斐閣アルマ,2013年

コラム

イギリスの哲学者ジョン・ロックの所有権論(いわゆる私有財産論)を参考にしました。
個人がもつ私有財産をどうするか、その私有財産の決定権。近代に打ち立てられたこの私有財産論は、わたしたちの自由についての重要な理論である、と思います。
ロックの所有権論は『統治二論』という著作で展開されます。二論というのは、王権神授説と社会契約論の二つです。一論目で王権神授説を批判して、二論目で社会契約論を展開します。したがって所有権論もまた、王から与えられたものではなく、社会のなかでどのように発生するか、ということに着目されます。王ではなく個人というのが、ロックの自由論のポイントでしょう。

人は誰でも、自分自身の身体に対する固有権をもつ。これについては、本人以外の誰もいかなる権利ももたない。彼の身体の労働と手の働きとは、彼に固有のものであると言ってよい。従って、自然が供給し、自然が残しておいたものから彼が取りだすものは何であれ、彼はそれに自分の労働を混合し、それに彼のものである何ものかを加えたのであって、そのことにより、それを彼自身の所有物とするのである。
(『完訳 統治二論』p.326,ジョン・ロック,加藤節訳,岩波文庫)


3.わたしたちの幻想と自由

わたしがここで提出したかったのは、人間のうみだす共同幻想のさまざまな態様が、どのようにして綜合的な視野のうちに包括されるかについての新たな方法である。
(『共同幻想論』p.43,吉本隆明,角川ソフィア文庫)

わたしたちは、自由を感じるということについて考えています。

前章では、自分の身体・時間・お金、つまり財産の使い道は自由である、という話をしました。

わたしは20代までは、これこそ自由と感じてきたものです。

30代の今も、財産についての自由を、わたしは信じています。

でも別の自由についても感じるようになりました。

それは、幻想を構築するときに感じる自由です。

では、幻想を構築するとはどういうことか。

少しわたし個人の話をさせてください。

わたしは、5年前に結婚し、1年と少し前に子どもが生まれました。

家族が出来たことで、わたしの身体・時間・お金の使い道は、全くこれまでと違うものになりました。

では、自由ではなくなったのか。

いえ、そうではありませんでした。

たしかに、これまでのような「自分の財産の使い道の自由」は減りました。

でも、そこには別の自由がありました。

どういうことか。

そこには、妻と子どもとわたしの三人での(あるいは親戚を含めての)共同的な幻想を構築する自由があったのです。

では、共同幻想を構築するとはどういうことか。

それは日々の生活習慣のなかで構築されていくものです。

つまり、わたしと妻と子どもは「どういう関係でいられるだろうか」ということを、実際の生活のなかで考えて実行していく、ということです。

これはとても難しい試みです。

わたしは、いまも十分に出来ているかは分かりません。

単に家事分担とか、育児分担のように、役割を決めればできる、というものではないように思います。

複合的なことが多く絡んでいて、容易には言葉では定義できないように思います。

わたしにとって「家族」という共同的な幻想を考えることは、わたし個人の身体・時間・お金の使い道を考えるのとは全く違うやり方で物事を考えることのように感じます。

わたしは、個人の自由と、共同的な幻想を構築する自由を比べて、個人の自由が簡単で、共同幻想の自由が難しいのだと言いたのではありません。

比較して優劣をつけたいわけではない。

ただ、その二つは、考える方法が全然違うということ。

子どもと、わたしと、妻の関係を考えること。

他者と一緒にいること、生活をともにしながら考えるということ。


共同生活は具体的に進んでいきます。

仕事、会議、資料、説明、打合せ、根回し、メール、電話。

買い物、夕飯の材料と、日用品。

今週の子どもの離乳食は何を作るか、タンパク質が過多ではないか、アレルギーはないか、初めて食べる食事は含まれて無いか。

食べないのは、味か、舌触りか、気分か。

おむつ、おしりふき、ワセリンは足らなくなってないか、服は買い足す必要があるか。

靴のサイズは変わってないか。

寝るときに暑苦しくないか、肌着は減らした方が良いか。

寝室の湿度は?温度は?

わたしたちは自分のやりたいことをどのように実現するか。

洗濯ものをたたむ、冷蔵庫の中身、冷凍食品のストック。

最近の笑い話、悲しい話、旅行の話、映画の話。

お互いにやりたいことを否定せず、スケジュールを調整する。

今日はわたしが子どもを一日見ているから、そのうちに妻は友人と遊びに行ったり、映画を観たり、洋服を買いに行く。

わたしも行きたい美術展がある、その美術展は三人で行けるだろうか。

その美術館はベビーカーは使えるだろうか、行くときの電車は何両目が車いすベビーカー優先車両か。

乗換駅のエレベーターはどこにあるか。

どのルートで行けば離乳食を良いタイミングで与えることができて、わたしたちが良いタイミングでごはんが食べれて、お昼寝のタイミングで家に帰れるだろうか。

わたしと妻の財産の自由を保ちながら、子どもと一緒に生きていく。

毎日の生活が過ぎていき、何か記憶と記録が残り、何かが忘れられていく。

波が岩肌を削り取りだんだんと海岸線が変化するようにして。

河が岩を砕き、石の角を取っていくようにして。

澱のように溜まっていく何か、あるいはそれを傷痕と言ったらあまりにもナイーブでセンチメンタルかも知れない。

日々の残り、それをわたしは、あえてわたしたちが構築した幻想と呼びたい。

そうして、わたしたちは幻想を構築できる。


共同的な幻想の構築は、とても難しいものだと思います。

「こうあるべき」と規定してしまえば、抑圧的に働き、むしろ不自由になってしまうでしょう。

いわゆる、妻は家で育児と家事、夫は外で仕事、のような旧来的な結婚観(旧来的な共同幻想)を選ぶのでは、不自由になることがある。

もちろん、旧来的な共同幻想に学び、それを採用してもいい。

それに縛られていると感じれば、幻想を再構築すればいい。

遵守してもいいし、訂正してもいい。

というか、さらに飛躍して言えば、そもそも何かの価値観を選択する、というようなものでもないのかもしれないということ。


日々、子どもは成長します。

歩けるようになった、どこかの公園で子どもが歩きまわるのを見て、わたしは自由を感じます。

わたしたちは、トライ&エラーをくり返しながら、家族という幻想を構築している。

子どもが自由に歩きまわるように、わたしたちは、幻想の世界を歩きまわる。

あっちに行ったり、こっちに行ったり。

今は何が必要か、将来わたしたちがやりたいことを実現するにはどうしたらいいか。

考えて実行する、その積み重ねを通じて、幻想を構築するということ。



ここまで、わたしは共同幻想を構築する自由について考えてきました。

これは必ずしも「家族」に限った話ではないでしょう。

友人関係もそう、チームもそう。

また、創作もそうでしょう。

創作は作り手と受け手で共同幻想(物語)を感じ合うための営みとも言えます。

ようは、自分ひとりではなく、他者と一緒にいるということ。

他者と一緒に幻想を構築して生きるということ。

幻想を構築することのなかにも、自由はあるのではないでしょうか。

【参考文献】
『共同幻想論』,吉本隆明著,角川ソフィア文庫,1982年
『シリーズ・戦後思想のエッセンス 吉本隆明 思想家にとって戦争とは何か』,安藤礼二,NHK出版,2019年
『NHK 100分de名著 吉本隆明 共同幻想論―戦後、最も難解な本に挑む』,先崎彰容,NHK出版,2020年

コラム

吉本は、共同幻想を、政治とか国家とか法律とか宗教という大きなものとして考えていて(P.29 )、罪責や規範的なもの、禁制と黙契として、あるいは個人を抑圧するものとして書かれていると思います。と同時に、共同幻想は人間が作り出す本質的なものでもあるとも書いています(『共同幻想論』,p.42)。共同幻想は個人(個人幻想)を抑圧する。それでも個人は、対幻想を蝶番に、どうしても共同幻想へ足を踏み入れてしまう。ようは、人間は自らを縛り付ける幻想すら作り出してしまうということです。基本的には、吉本の共同幻想論は、国家論として読まれるものですが、本章では、かなりアクロバティックに、マクロな国家ではなく、ミクロな国家、つまり共同体の最小単位でもある「家族」に適用しています。「家族」は、(より大きな共同体との連関のなかで)おそらく「共同幻想」は本質的に作り出されてしまう。それが抑圧的なものであるか、それともわたしたちの自由を担保するものであるか。わたしは、そこからポジティブな側面、幻想を構築できるという側面に注目しています。


4.彼らはなぜ構築したのか

前章では、共同幻想を構築することのなかにも、自由があるのではないか、という話をしました。

わたしは、思想家・吉本隆明の共同幻想論を念頭に置いて、「家族」という概念でそれを説明しましたが、別にこの共同幻想の自由は、家族に限った話ではありません。(※ 吉本の共同幻想論において、「共同幻想」と「自由」という概念は結び付け難いと思うひともいるでしょう、その点は前章末のコラムに少し弁解を書きました。)

いわゆる創作活動にも、そういう共同幻想の自由がある。

ここでは、その具体例を三つほど挙げたいと思います。


変幻するカルトスター

まず最初に挙げるのはイギリスのアーティストであり、ロック歌手のデヴィッド・ボウイです。

彼はデビュー後は、自らを「ジギー・スターダスト」と名乗り、火星からやってきたスパイダーズというロックバンドの歌手を演じました、1970年台前半のころです。

バイセクシャルを自称し、セクシーな衣装に身を包み、煽情的で、また抒情的な詩と、ロックミュージックで若者を始め多くの観客を魅了します。

その後、ジギーを引退すると宣言。

1970年台後半からは、イギリスから、アメリカ、ドイツと移り住み、自分の表現する音楽を追究していきました。

彼ほど、時代や住む場所によって、音楽性を変貌させたアーティストはいないでしょう。

彼はその時代の一歩先を行く音楽を作り続けました。

時代の一歩先、まだ流行っていない音楽、思想を作り出す。

それに観客は熱狂した。

明らかにそこには、デヴィッド・ボウイと観客のあいだに共同幻想が成立していたと思います。

それは、おそらく共同的な幻想を、常に先取りしていたことを意味します。

彼の創作活動を知るには、最近公開された伝記映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』を観ていただくのが一番です。



別のルール探し出す

抽象画家たちも共同的な幻想を構築していたのだと、わたしは思います。

ルネサンスの写実主義的な絵画があり、印象派によって写実性が崩れ始め、画家たちはさらに色や形の持つ力のようなものを探求していきました。

そして、20世紀には、カンディンスキーを始め、抽象画家たちが活躍します。

「抽象」というのは、現実の物から特定の特徴を抽出することです。

【抽象】
[名](スル)事物または表象からある要素側面性質をぬきだして把握すること。
weblio辞書より

言葉の意味通りに考えれば、林檎は赤いという事象から、赤くて丸いを抽出する、そして、赤い絵の具で描いた丸は林檎を表している、ということ。

しかし、20世紀の抽象画家たちは、そういうように考えませんでした。

抽象画家は、現実(林檎)を再現するためだけに抽象(赤くて丸い)を思考したのではありませんでした。

むしろ、現実から抽象された「赤と丸」それ自体の力を探求したのです。

色や形を、眼に見える現実世界の再現のためではなくてそれ自体の表現力のために造形的に利用しようという志向
(『近代絵画史(下)』,p.195,高階秀爾,中公新書,2021年増補版第3版)

それは、色や形に関する「既存の共同幻想(赤くて丸いものは林檎)」を打ち壊すものでした。

どういうことか。

抽象画家カンディンスキーは、色や形、線や点に、独自の意味を付与し、新しい理論を構築したのでした。

つまり、赤と丸を、林檎という意味から解放して、それ自体の意味を考えるということ。

たとえば、黄色は狂気、青色は超感覚的なものへのあこがれ、緑色は感情的に落ち着いた状態、赤色はエネルギーの強烈さなど。

そうして構築した理論を使って、自ら絵画を描きました。

そこでは、現実の物は描かれず、形や色が描かれます。

このように、抽象画家たちも形や色についての新しい表現を、新しい幻想を構築したと言えるでしょう。


テキストから感情を再構築する

最後に、濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』です。

主人公の家福は、俳優で舞台演出家です。

物語のなかで、広島国際演劇祭の舞台演出を担当することになり、集められた俳優たちと一緒に、演劇祭で講演される劇を作ることになります。

そこで行った舞台演出、というか、稽古の仕方が独特でした。

それは、台本を感情を入れずに読み合わせをする、しかもそればっかりする、ということ。

淡々とセリフを読みつづける、感情を入れずにテキストを読む。

通常は、俳優はセリフに感情を込めることで、また身体の動きに感情を込めることで、演技をするでしょう。

しかし、家福の稽古はそれとはまったく別ものでした。

全員が会議室の椅子に座って、無感情にセリフを読み続ける。

徹底的に「テキスト」を身体に刷り込むということ。

淡々とした作業を積み重ねることで、身体に「テキスト」が密着していきます。

途中で俳優たちの反発もありますが、しかし、それを貫き通します。

そうして、ようやく身体に「テキスト」が密着したころ、実際に体の動きを付ける。

これは、感情の再構築というものです。

俳優たちが経験してきた演技の癖を、テキストの読み合わせ、しかも無感情な読み合わせによって、いったんキャンセルするということ。

そうすることで、癖のない、テキストに準じた感情を、俳優は自然と獲得する。

感情を再構築した俳優たち。


さて、面白いのはこの再構築は二重に行われるということです。

「二重に」というのはどういうことか。

この映画を観ている観客は、感情が再構築される過程を目の当たりにすることになります。

登場人物たちに感情移入した観客は、登場人物たちの経験を追体験します。(映画とは少なからずそういう効果があるメディアだと思います。)

そうすると、不思議と、観客であるわたしたち自身の感情も再構築される、ということ。

つまり、映画の登場人物たちの感情が再構築されるのに伴って、この映画を観ている観客の感情が再構築されるということです。

こういうときに感じる感情とはこういうものだ、という既存の共同幻想をいったんキャンセルして、その後に新しく共同幻想を構築する。

『ドライブ・マイ・カー』は、そういう映画であるとわたしは思います。

つまり、わたしたちは感情を再構築することができる、そういう自由がある、と言えるのではないでしょうか。


【参考文献】
『デヴィッド・ボウイ ー変幻するカルト・スター』,野中モモ著,ちくま新書,2017年
『近代絵画史(上・下)』,高階秀爾著,中公新書,2021年増補版第3版
『いとをかしき20世紀美術』,筧菜奈子著,亜紀書房,2023年
映画『ドライブ・マイ・カー』,濱口竜介監督,2021年

コラム

文化は、あるいは、創作活動、大衆芸能、美術、芸術、様々な呼び方がありますが、ひとことにまとめて「文化」は、わたちたちが共同幻想を構築する自由がある、ということのある種の証明ではないでしょうか。
本章で取り上げた三項目は、どれも幻想を壊し、幻想を構築することにおいて自由を体現していると思います。


5.おわりに

わたしたちは「自由を感じること」について考えてきました。

原因と結果の関係を突き詰めると、わたしたちは自由なんかじゃないことが分かります。

一方で、生活感覚的には、わたしたちは自由を感じている。

ひとつは、身体・時間・お金のような財産を好きに使えるときに自由を感じる。

そして、もうひとつは、共同幻想を構築することによって自由を感じる。

自由それ自体が存在するかどうかは、わたしには分かりません。

でも、自由だと感じるということ。

わたしはこの記事で、個人の自由と、共同幻想的な自由を比較して、どちらかが優れていると考えているわけではありません。

二つは性質が違うということ。

わたしは、自分の身体で稼いだお金で何かを買うときに自由であると感じます。

また、わたしは、美術作品や芸術作品、大衆芸能のなかに、あるいは家族生活のなかに、さらい言えば他者ともにいるときに、共同的な幻想を構築するような自由があるように感じます。

これは、あくまでわたしが感じたことを感じるままに解釈したに過ぎません。

それに、共同幻想というキーワードも、なんだか便利使いしているように感じます。

いろんなことを、共同幻想と一括りにしている感じです。

共同幻想の細分化はまた別の機会に。

それに、なによりかなり無理な接続があることは自覚しています。

(特に吉本の『共同幻想論』はかなりアクロバティックに接続してます、お詳しい方にはご容赦いただきたい)

特に共同幻想的な自由は、ある種の危険性をはらみます。

たとえば、特定の民族が他の民族よりも優れている、というような幻想を抱けば、それは歴史の悲劇をくり返すでしょう。

個人のレベルで言っても、他の家族よりも(年収で、能力で)自分の家族の方が優れている、という幻想を構築すれば、それはあまりに単純で貧困な幻想のように思います。

また、わたしの構築する共同幻想を子どもに押し付けることもできない。

いつの日か、わたしの幻想を子どもが拒否し、抜け出そうとするとき、喜びと期待感と悲しみと寂しさと、いろんな感情が一気に立ち現れるでしょう。

そうして、子どもは自分で幻想を構築していく、そこには確かに自由があるように感じます。


あなたにとって自由を感じるのはどういうときでしょうか。

おわり


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