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古代ローマ人の生き方① 奴隷ブローカーの男性市民

古代ローマのそれぞれの階級の人々がどう思って、どう行動していたのか。
史実を元にした大河エッセイです。

西暦100年前後の帝政ローマに生きた人々。
様々な立場や境遇、考え方から見た古代ローマを覗いてみてください。

集合住宅(インスラ)での目覚め


ローマの朝は遅い。少なくとも俺にとっては。

朝日は完全に昇りきっている。
腰が重い。床にぼろきれを敷いただけの寝床には困ったものだ。いつまで経っても腰の痛みは治らない。

昨日、俺の足元で寝ていた奴隷はもう仕事を始めていたらしく、いなかった。彼は値段の割には、とても働き者なスラブ人だ。正直、俺の人生の中で唯一得したと思えることは、この奴隷を買えたことかもしれない。

俺はインスラの3階に住んでいる。
臭くてそっけない住居だが、低層階なのに窓からお日様が拝めるという点だけは褒めてやる。
高層化したこのローマのインスラ街(賃貸アパート街)では特に、多くの市民が朝日も夕日も拝むことはできないだろうから。

だがそれ以外の要素、特に所得とか稼ぎといった点では、3階の俺らは2階の連中に何一つ勝てる要素はない。
ローマは階層社会である。
今は貴族も平民も差はなく、ただ所得だけが身分を決めているようなもの。
そして所得によって、住める階層が変わる本当の意味での階層社会だ。

ローマじゃカネがある人ほど低層階に住む。1階は路面店が占めていてほとんど人が住んでいない。
カネのあるヤツは2階に住む。そしてカネがない奴ほどさらに上の階に住む。

俺は3階の住人。せっかく日が差し込む窓も、麻で編んだお粗末なカーテンがあるだけで2階の連中のように窓ガラスがあるわけじゃない。

そんな俺でも4階の連中よりはマシだ。俺は簡単ながら隣の家族との間に壁を置いている。だが4階の部屋はそんな余裕もない。

いくつもの家族と部屋を共有して、寝るときは足の踏み場もないくらい雑魚寝状態だろうから。

トイレが逃げた!

俺は用を足しに起き上がると愕然とした。
甕(小用トイレ)が無いのだ。さては奴隷が洗濯しに洗濯場に持っていってしまっているのだろう。

ローマでは洗濯は主に奴隷の仕事だ。奴隷もなくカネもない奴は自分で自分の尿を持っていって洗濯しないとならない。
洗剤として尿を使うから、洗濯場はとにかく臭い。俺は行くのもごめんだね。

仕方なく俺は、下の道に人がいないことを注意深く確認してからささっと放尿をして、ついでに大便器もひっくり返し、下の道に汚物を捨てた。

本当は違法だが、そうは言っても重たい大便甕を下の捨て場まで持っていくのは骨が折れる。臭いから早く捨てたいし、でも腰が悪いんだ、少しくらい許してくれ。

SPQR爺さん


などとほとんどない罪悪感の言い訳をしながら部屋に戻ろうとすると、地上で爺さんが騒いでいる。

元兵隊だと自称する爺さんで、みんなから厄介者扱いされている名物爺だ。ローマで爺さんになるまで生きられたのは、兵隊として生き残るより難しいだろうから、素直にそこは尊敬している。

「大便を道に捨てるな、SPQRの誇りは無いのか」などと、地域の治安を少しでも乱すものに定型句のようにして怒る。

SPQRの誇りってのはまあローマ人の誇りみたいな意味。お前はローマ人として自覚がないのか、みたいな感じだが、少なくとも俺にそんなものはない。昔は知らんが今のこの国ではカネの有無だけだよ爺さん。

俺は常に下に人がいないか確認してから捨てる人道者だ。きっとズボラなヤツが下を確認せずに大便甕をひっくり返したのだろう。爺さんの肩に大便の破片がくっついてやがる。

そのズボラなヤツが爺さんにガミガミと言われている。俺の捨てた分の責任まで被ってしまっていそうだ。すまんな。恨むなら君のズボラさと神々を恨むんだな。

そして通りの向こうから、洗濯物を入れた重そうな小便甕を担いだ俺の奴隷が帰ってきた。
爺さんは「ほれみろ、お前より奴隷のほうがSPQRの精神がある」などと、大便甕をぶちまけたところを目撃されたかわいそうなヤツを指さして揶揄している。

まるで俺は善良な市民みたいじゃねーか。
うん悪くない。

ローマ市民の仕事


奴隷は俺に挨拶もなく次の仕事に取り掛かる。彼はローマの言葉が分からないから当然だ。無言でもいい仕事をしてくれるから、最高の奴隷だ。

奴隷はささっと次の仕事に移るが、すっかんぴんで家賃もたまに滞納しかける俺に家財なんてものはほとんどない。奴隷も早々に仕事を終えてしまうだろう。

そして家事を全部任せている俺はさらにやることがない。暇してるなら働けと言われるかもしれないが、平民が働き詰められるほどの働き口なんてローマにそんなあるわけじゃない。

俺は読み書きができる。でも読み書きはある程度みんなできてしまうから、読み書きができるだけで頭の良さをひけらかす仕事には就けない。

どうやら地方都市では、読み書きができれば教師の仕事もあるらしいが、ローマでは教師はブランドがないと街中の底辺の教師にすらなれない。
やはり教師というのはギリシャ人奴隷がやるものと相場が決まっている。ローマ人である俺が、手を挙げたってなれやしない。

奴隷は稼ぎ口


そんな俺の仕事は、奴隷ブローカーだ。

奴隷商人は嘘つきだ。質の悪い奴隷をあれこれの手を使って高値で売るだけに飽き足らず、メンテナンスをすると言ってわざと奴隷を病気にさせて買い替えさせたり、治療代を稼ぐヤツもいる。

ローマ市民は読み書きはできるとしても、商品を見抜く知識はない。奴隷購入は人生で何十回もあるイベントでもないから、買いに来る大半は素人。騙しやすいというわけだ。

そんなローマ市民と奴隷商人の間に入って価格を下げさせたり、良い奴隷の見抜き方を教えてアドバイス料を得ている。
一方で郊外のゴミ捨て場に捨てられている赤子を奴隷卸に売りつけたりもする。俺にとって奴隷商人は決して敵ではない。持ちつ持たれつだ。

ローマの奴隷保有率はとても高い。平民のうち底辺層以外はおおむね一家に1人以上は奴隷がいる。中には家族で1人1人専用の奴隷を持っている家もある。

だから奴隷販売業や奴隷ブローカーは比較的一般的な職業で、かつお金の元でもある。ローマ経済は奴隷で回っていると言っても過言ではない。
少なくともコネもカネもない俺みたいな平民が、一発当てようと手を出すやつは結構いる。

そうだ、トイレにいこう!

仕事柄、俺はよく人々と会話して流行りを調査したり、社会情勢を情報通から仕入れている。

公衆トイレで1時間くらい座っていると、金持ちなんかも会話目的で来ることがあるから、情報交換を持ちかけて奴隷の話に持って行き、奴隷の営業をしたりすることもある。

ローマでは有料公衆トイレが情報交換の場だ。よく詐欺師たちがトイレで善良な若者を「儲かるから」と勧誘しているのを見ると、世も末だなと思うものの、俺が何かできるわけじゃない。

ローマ都市部には大自然がない。だからトイレに座って水の流れる音を聞いているだけでも、見たこともない遠くの世界、大自然の中の水道橋の始まりを想像してまったりできる。だから俺は水栓公衆トイレがとてもいいところだと思っている。

まあ、そんな大自然の楽園なんて見たことないから、本当に想像でしかないが。

今日は収穫が無い。聞いたことのある話だけが飛び交った。後で裁判所にでも行ってみるか。

いや、どうせまた痴話げんかのくだらない裁判だけだろう。あんな娯楽ばかり見ていたら頭がバカになる。

最近のローマは目立ちたがり屋ばかり


俺が欲しい情報は、儲けの話だ。戦争があれば奴隷の供給が増えて価格が下がる。その時に買って育てて、然るべきに売る。そう、情報さえあればカネが稼げるのがローマだ。

しかし今のローマはカネ稼ぎのために嘘を平気で言う目立ちたがり屋の講談師や、問題をわざと大きくして訴訟を持ちかけるくだらない弁護士ばかり。情報を得るより選別する眼のほうが大事そうだ。

今日も稼ぎなく、日も傾きかけている。奴隷市も店じまいし始めるだろう。
もう今日は辞めだ、辞め。

貧乏人が貧乏人のために働く国


ローマの家賃は異常に高い。俺の場合、どんなに稼いでも家賃ですべて消えていく。

とはいえ平民は稼いだところでカネの使い道が貧乏人向けの稼げないギャンブルと安酒、あとはたまに売春くらいしかない。

生きるためだけの出費、風呂やそこそこの娯楽、飯は比較的安く手に入るから、生きるだけなら家賃以外は稼ぎが少なくてもなんとかなる。

だが資産運用や貯蓄、立派な家財を買うとか、豪華な食事をするには全く足りない。資産を持つとそれだけで税金が段階的に増えていくからという理由もある。

貧乏人が貧乏人のために低賃金で働くこのローマでは、貧乏でもわりと生きられる反面、そこそこ稼ぐ人間だとその余ったカネを貯めたり使う場所がほとんどないのだ。

めちゃくちゃ稼いでいるごく一部の人間と、大半の賃貸アパート(インスラ)暮らしの貧乏人が共存する街。それがローマだ。

だから俺は稼ぎのほとんどを家賃に充てている。人が折り重なって寝る家に住むよりいいだろう。俺はこれが良い使いカネの道だと思っている。

インスラで薄い区切りしかないとはいえ、1人で3階の1部分を占有できる俺はローマの中ではずっと恵まれているほうだ。

だが、俺は上も知っている。ドムス(屋敷)に住んでいる連中も、俺の顧客だから。

あれを見たら、今の俺がとてもみずほらしくて嫌になる。
ローマは新参者でもカネやコネさえあれば屋敷に住んで人々を見下せる。反対に昔から住んでいていかにローマ市民の誇りがあろうと、カネがなきゃ誰も相手してくれない。

SPQRの誇りというものは、カネでできているのだろう。

そんなことを脳内で独り言をしつつ、今日も俺は風呂屋に向かった。


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