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『当麻』が『私の人生観』に結びつく

不惑をはるかに過ぎてから小林秀雄を読み始めた「遅い読者」ではあるが、心がざわめき、読後もぼーっとしてしまい、何だったのだろうと考えずにいられなかった作品が、『私の人生観』『美を求める心』『当麻』の3つだった。それが何故なのか、いずれ考えてみようと思う。

『私の人生観』から『偶像崇拝』を経て『当麻』へ。作品の執筆順は前後しているが、一つにつながったことに感心した。小林秀雄論と称して、自称批評家が作り上げるような、年譜と世相を重ね合わせたゴシップめいたストーリーに興味はない。作品を熟読玩味する。それが小林秀雄のやり方だったはず。

さて、日想観と中将姫の結びつきである。

奈良県葛城市にある當麻寺には「中将姫」の説話がある。『観無量寿経』で釈尊が「十六観」を説いた韋提希夫人の物語を絵図にした『観経曼荼羅(當麻曼荼羅)』は、當麻寺のご本尊である。

実の母を幼い時に亡くした中将姫は、父の後妻に疎まれ殺されかけます。姫は実の母の供養への思いもあって、當麻寺で出家します。そしてその當麻寺で、蓮の茎からとれる細い繊維を糸に縒り、『観無量寿経』を図柄にした曼荼羅(観経曼荼羅)を編み上げるのです。

釈徹宗『「観無量寿経」をひらく』
当麻曼荼羅(メトロポリタン美術館)

わが国にはもともと日を拝む信仰が浸透していた。いわゆる日輪信仰である。そこに『観無量寿経』が伝わる。西には浄土があり、日が沈むのは往生を想わせる。とくに彼岸の中日である春分の日と秋分の日は、夕陽が真西に沈む。

小林秀雄は『偶像崇拝』で、民俗学者で詩人の折口信夫が、中将姫説話をもとに書いた小説『死者の書』が、「山越しの阿弥陀像」の画因を理解するのに必要だと述べている。折口の『死者の書』では、主人公である郎女は春分の日と秋分の日に二上山越しに阿弥陀如来を見、当麻寺において蓮の糸で織った上帛に曼荼羅を描く。こうして日想観と中将姫が結びつく。

また、中将姫説話を本説として、世阿弥がつくったのが謡曲『当麻』だ。

念仏の行者が熊野詣の帰りに当麻寺に参詣すると、老尼と若い女が来て、行者が尋ねるままに当麻寺について教え、当麻曼荼羅の由来についても語った。やがて、老尼は行者に、今日は彼岸の中日、法事のために来た自分たちは、曼荼羅を織り上げる際に姿を現わした老尼であると告げ、紫雲に乗って天上へ上っていく。行者が拝もうとすると、中将姫の霊が姿を現し、仏を信仰して尊ぶようにと教え、舞いを舞う。そして、後夜の勤行をするうちに夜は明け、僧の夢も醒める。

日沖淳子『時空を翔ける中将姫──説話の近世的変容』

その曲目を能楽堂で鑑賞した小林秀雄が書いた批評、いや、むしろ随筆が『当麻』である。

小林秀雄の『当麻』はどうしても、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という一文に惑わされてしまう。しかし、その「花」こそ、中将姫の舞いであり、観念は面で隠してしまえばよい。

小林秀雄は『私の人生観』において、「観」という言葉の語感から仏教思想を思い浮かべ、『観無量寿経』の「十六観」の流れを「文学的に見てもなかなか美しい」と語った。小林秀雄は、なぜ最初に『観無量寿経』を選んだのだろうか。その発端は、ここにあったのだ。

白い袖が翻り、金色の冠がきらめき、中将姫は、未だ眼の前を舞っている様子であった。あれは一体何んだったのだろうか、何んと名付けたらよいのだろう、笛の音と一緒にツッツッと動き出したあの二つの真っ白な足袋は。

小林秀雄『当麻』

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