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『月獅』第3幕「迷宮」          第15章「流転」<全文>

これまでの話はこちらから、どうぞ。

<あらすじ>
「孵りしものは、混沌なり、統べる者なり」と伝えられる天卵。王宮にとって不吉な天卵を宿したルチルは、白の森の王(白銀の大鹿)の助言で『隠された島』をめざし、ノア親子と出合う。天卵は双子でシエルとソラと名付ける。シエルの左手からグリフィンが孵る。王宮の捜索隊に見つかり島からの脱出を図るが、ソラがコンドルにさらわれた。
 レルム・ハン国では、王太子アランと第3王子ラムザが相次いで急逝し、王太子の空位が2年続く。妾腹の第2王子カイル擁立派と、王妃の末子第4王子キリト派の権力闘争が進行。北のコーダ・ハン国と南のセラーノ・ソル国が狙っている。15歳になったカイルは立宮し藍宮を賜る。藍宮でカイルとシキ、キリトが出合う。古代レルム文字で書かれた『月世史伝』という古文書を見つけたシキは、巽の塔でイヴァン(ルチルの父)と出合い、共に解読を進める。レルム・ハンの建国前に「月の民」という失われた民がいた。
 男児と偽って星童の職に就いていたシキは、イヴァンに女であると悟られる。自らの性を悲観したシキは、禁断の書『本草外秘典』に載っていた薬を調合し飲む。薬に喉が灼かれシキは昏倒する。

<登場人物>
キリト(12)‥第4王子(王妃の三男)
カイル(17)‥第2王子(貴嬪サユラの長男)
ラサ王妃‥‥‥王妃・トルティタン国の第1皇女だった
ラザール‥‥‥星夜見寮のトップ星司長、シキの養い親
シキ(12)‥‥星童、ラザールの養い子、女児であるが男児と偽っている
ナユタ‥‥‥‥カイルの近侍頭

<レルム・ハン国 王家人物>
ウル‥‥‥‥‥国王
サユラ‥‥‥‥貴嬪
アカナ‥‥‥‥淑嬪
アラン‥‥‥‥第1王子・逝去(享年18歳・王妃の長男)
ラムザ‥‥‥‥第3王子・逝去(享年14歳・王妃の次男)
カヤ‥‥‥‥‥第2姫宮・カイルの妹
カムラ王‥‥‥レルム・ハン国の前王(キリトたちの祖父)
王太后‥‥‥‥カムラ王の妃・ウル王の母
ラムル王‥‥‥レルム・ハン国初代王、建国の祖

<その他登場人物>
ソン‥‥‥‥‥キリトの守り役
イヴァン‥‥‥ルチルの父、エステ村領主、巽の塔に幽閉されている
ルチル‥‥‥‥イヴァンの娘、天卵を生む
ムフル皇帝‥‥トルティタン皇国の前皇帝
ウロボス元帥‥レルム・ハン国の軍のトップ
カール・ルグリス‥王太后の兄
ダレン伯‥‥‥内務大臣、天卵の捜索隊を指揮する
アトソン‥‥‥トビモグラ・ルチルの白の森への逃亡を助けた

<補足>
星夜見寮‥‥‥‥‥星の運行で卜占をする役所
月夜見寮‥‥‥‥‥月の運行で卜占をする役所
真珠宮‥‥‥‥‥‥ラサ王妃の宮(後宮にある)
藍宮‥‥‥‥‥‥‥カイルの宮(外廷にある)
翡翠宮‥‥‥‥‥‥サユラ妃の宮(後宮)・カイルはここで育つ
レイブン隊‥‥‥‥レイブンカラスによる王直属の偵察隊

『黎明の書』‥‥‥王国の史書・天卵に関する記述がある
『月世史伝』‥‥‥古代レルム文字で書かれた幻の古文書
月の民‥‥‥‥‥‥滅びた古い民
巽の塔‥‥‥‥‥‥王宮の南東の端にあり、イヴァンが幽閉されている
エステ村‥‥‥‥‥白の森の東を守る村
白の森‥‥‥‥‥‥王国西端にあり、人が入れぬ森。白銀の大鹿が森の王
※白の森については、こちらを参照してください。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


「流転」(1)

 ――さて、いかがしたものか。
 ラザールは跪拝しながら、先刻より事態を思案していた。
 真珠宮の正殿では四半刻ほどにらみ合いが続いている。

 事の発端は、こうだ。
 王妃の望みでラザールはキリト王子の師傅しふを引き受けることになり、王子とのはじめての謁見に真珠宮まで足を運んだ。後宮に続く回廊を春風が駆け抜け、アーモンドの白い花が散っていた。 
 キリト王子の師傅となることは、もっか王宮を二分している権力闘争のキリト派に入ることを意味する。かねてよりゴーダ・ハン国とセラーノ・ソル国の脅威に挟まれ、不穏な星夜見ほしよみがあった今、国として一丸とならねばならぬというのに、政治の中枢にいる廷臣たちが派閥争いしか頭にないことにラザールは嘆息する。名門とされる貴族ほど自陣営の勢力拡大の画策ばかりで、国の行く末など二の次だ。アラン王太子とラムザ王子の相次ぐ薨去は不測の事態ではあったが、なにゆえ王妃は実子のキリト王子の立太子をためらい、無駄に王太子の空位を長引かせているのか。混乱を助長しているようにしかみえない。土蜘蛛のごとく巣から出ずに、背後で糸を引くものがいる。王妃も踊らされているのだろう。一介の星夜見でしかない我にできることなどしれている。
 ラザールはしばし立ち止まり、春霞のたなびくノリエンダ山脈を見あげる。さて、キリト王子の資質はいかがなものだろうか。
 後宮でも正殿までは男臣も入廷できる。真珠宮は王妃の宮といっても、その正殿は小ぶりな広間くらいだ。ただし、真珠宮の名にふさわしく壁にも床にも白く輝く雪花石膏アラバスターが敷き詰められている。正面奥に縦長の窓が三つある。窓から縦に射しこむ陽が白くなめらかな雪花石膏の肌理きめに反射してまぶしい。窓の前に純白の絹の座面をもつマホガニーの玉座があった。
 ほどなくラサ王妃が侍女を従えて現れた。ラザールは跪拝する。王妃が扇をはためかせて艶然と座すと、ぱたぱたと駆ける足音がした。
「母上、何用でしょうか」
 声変わり前の高い声が聞こえ、左奥の扉が開いた。
「ラザール殿、おもてをあげられよ」
 王妃はちらとキリトに投げた視線を戻し、ラザールに声をかける。
「そちがラザールか」
 つかつかとキリトが歩み寄り、ラザールの前で膝をつく。
「王子、もったいのうございます。どうかお立ちください」
「かまわぬ。それより、シキはどこじゃ?」
 キリトはラザールの背後にせわしなく視線を動かす。
「シキは伴っておりません」
「病か? このところ藍宮らんきゅうにも来ぬ」
「ご案じいただき畏れ多いことにございます。シキは息災にございます」
 ぱしっと、扇を閉じる鋭い音が部屋に響いた。
「シキとは誰じゃ」
 王妃が詰問する。
「ラザール星司長せいしちょうの養い子です。藍宮で兄上とともに、シキに星の話を聞かせてもらっています。母上にもお話しましたよ」
「いちいち下々の者の名なぞ、覚えておらぬ」
「なぜですか?」
 キリトが立ち上がって王妃を振り返る。
「名とはその者のこと、覚えるのが礼儀だとソン爺が申しておりました」
 おや、とラザールは王子を見あげる。行いはまだ子どもであるが、王妃をたじろがせることわりを持っている。ふむ、これはみどころがあるやもしれぬ。
 もちろんラザールは、シキがカイル殿下と知り合ったことも、藍宮でキリト王子と出くわしたことも、王子に請われて星の話をしていることも、逐一報告を受けている。偶然にもシキが先に二人の王子と知り合ったことは僥倖であった。シキの曇りなき目を通して、王子たちの人柄と様子を知り得ている。
 様々な理不尽も静かに諦める忍耐があり、思慮深いカイル殿下。かたや、自由奔放で才気煥発なキリト王子。陰と陽。真逆のご気質であるが、お二方とも王たる資質の片鱗が垣間見える。うまく導けばいずれも賢王となられるであろう。だが、導くべき周囲の大人たちが、くだらぬ権力闘争を仕掛け、二つの希望の芽を摘み取ろうとしている。ご兄弟に争う意思などないものを。なんと愚かなことか。純粋な魂を汚泥にまみれさせねばならないのか。はつらつと瞳を輝かせている王子を見あげる。
「シキのことで参ったのではないのか?」
 キリトがまたラザールに視線を落とす。王妃とラザールのあいだに横向きに構え、キリトは半身を交互に話し手に向ける。
「ラザール殿はそなたの師傅を引き受けるために参ったのじゃ。賢者として名高いラザール殿について、しかと学ばれよ」
 王妃が告げると、キリトはいっそう瞳を輝かせる。
「兄上も、カイル兄上もごいっしょですか?」
「なにを馬鹿なことを申す。そなただけに決まっておる。よき王になるには、広く世の中のことを学びやれ」
「それは不公平にございます」
 キリトが頬をふくらませる。
「不公平とな?」
「なぜ吾だけが学ばねばならぬのですか」
「王になるために、決まっておろう」
「長幼の順では、次はカイル兄上です」
「カイル殿はサユラ妃の御子である、れたことを」
 呆れ顔で扇を閉じ、王妃は椅子の背にしなだれる。
「母上の、王妃の子でなければ、王位は継げぬのですか。ならば、なぜサユラ妃やアカナ妃がいらっしゃるのですか」
 ゆるりと体を起して王妃はキリトを睨む。
「吾ひとり勉強するなど、嫌でございます。王太子の位をめぐって吾と兄上を競わせるおつもりであれば、公平でなければなりません。どちらが優れているかは同じ師についてこそ明らかになります」
 王妃は口を噤んだままだ。理路整然と不平を述べているのが吾子でなければ、「無礼な」のひと言であしらい、即刻、退室を命じていたであろう。幼き反逆者の胆力を頼もしいと、ラザールは目を細める。母后に唯々諾々と従い傀儡でいることに甘んじた父ウル王とはご気質が異なる。
「兄上といっしょでなければ、師傅など要りません」
「我儘もたいがいにしやれ。母の命が聞けぬのであれば、藍宮に通うこともまかりならん」
 とうとう王妃が堪忍袋の緒を切らす。
「母上、それは卑怯というものです」
「卑怯と申すか」
 がたり、と王妃が椅子の両袖に手をついて立ち上がる。声も手もわなないていた。
 しかるにキリトは、母の挙措を意に介することなく涼しい声で続ける。
「武術の鍛錬と勉学を怠らなければ、月に二度、護衛を伴って藍宮に通うことを許すと母上はおっしゃいました。吾はその言いつけをたがえておりません。藍宮に通うことと、ラザール殿を師傅とすることは別問題にございます。約束は約束です。お守りください」
「いいかげんにせぬか」
 王妃の悲鳴が正殿の空気を震撼させる。

「流転」(2)

 ここまでか、とラザールは顔をあげる。王子はとにかく、王妃が感情を激させている。臆することなく、一歩も退かぬ交渉術。粗削りではあるが、なかなかのものだ。磨けば光る玉となるだろう。
「お鎮まりくだされ」
 低く鋭い声が床を這う。不穏な空気が、一瞬にして鎮まる。けっして大きな声ではなかったが、平素は森のごとく穏やかなラザールの一喝に王妃はその無礼をなじるのも忘れ、碩学の賢者を凝視する。キリトもラザールに相対して屹立する。
「王妃様は、キリト様をまことに健やかにお育てになられましたなあ」
 二人の視線を受け止め、ラザールは激した空気をなだめるように話す。
「キリト様ぐらいのお歳頃の子は巣立ちを前に不安と本能から、親の慈愛の比翼にむやみに抗います。王子がことごとく王妃様の命に抗われるのは、大きく羽ばたこうともがいておられる所以ゆゑんであろうと臣はお見受けいたします。臣からことをわけてご説諭いたしますゆえ、王子と臣と二人だけにしていただけませぬか。なお、ゆめゆめキリト様の御心を踏みにじるような軽挙をなさりませむよう。それこそ親子の絆に取り返しがつかなくなりますこと、ご賢察のほど伏してお願い申しあげます」
 語り終えると深く頭を垂れた。
「相わかった。キリトの室を使うがよい。頼みましたぞ」
 王妃は扇をひと振りして立ち上がり、右の扉より退室した。

 キリトの居室は中庭をめぐる左の回廊を折れた最奥にあった。そこに至るまでに二室あり、立太子前のアラン王子とラムザ王子の室だったのだろう。閉まってはいるが錠前は掛けられていない。おそらく内は生前のままであろう。主を失った部屋は静かだ。ちらりとキリト王子が開かずの扉に目をやる。その背からは先ほどの覇気は消え淋しさが滲んでいた。

「なにゆえ、兄上ではなく吾を選んだのじゃ」
 部屋に入るなりキリトはくるりと向き直ってラザールに尋ねる。
「お待ちあれ」といったんキリトを制し、ラザールは廊下を窺ってから扉を閉める。扉前には警護の衛兵が立っていた。
 キリトの侍従が二名、部屋の隅に控えている。王族は常に多くの視線に晒されている。それらを横目で確認し、ラザールはキリトにおだやかな笑みを向ける。
「僭越ながら、殿下は堅苦しいのがお嫌いとお見受けいたします。今日は気持ちのよい晴天にございます。庭の四阿あずまやあずまやでお話いたしましょう。いかがですかな」
「おお、それはよい」
 キリトが顔を明るくする。駆け出す勢いで、両開きの掃き出し窓を押し開ける。庭園には獅子の口から水のこぼれる石造りの小さな池があり、四阿は池に架けられた橋の中ほどを広くとって、しつらえられていた。庭は兄弟の三室に面している。数年前まではこの庭に三王子の笑い声が響き、水遊びに興じたことであろう。
「こっちじゃ、早う」と王子はラザールの手を引く。王妃との理詰めの態度とはうってかわって、まるで子どものはしゃぎようだ。その天真爛漫さがまぶしい。叶うのであれば、ゆっくりとお育て申し上げたかったが、事態は逼迫している。急いで大人になってもらわねばならぬ。
「アラン兄上たちとここで遊んだ」
 足もとの小石を拾い池に投げ入れて、キリトはラザールを振り返る。水紋が広がる。
「ラザール、そちは、吾のどこがカイル兄上より優れていると思うて、吾を選んだのじゃ。そちと会うは、今日が初めてのはず。どこぞで吾のことを見ておったのか。それともシキから聞いたか。吾は兄上ほども学問はできぬぞ。吾のどこに見所があった」
 真剣なまなざしでたたみかける。ごまかしを許さない目だ。
 うわべだけの言葉で褒めるのは容易たやすい。だが、そのような無責任な甘言ほど人を空疎にするものはない。自身を取り巻く世界の実態を知り、どう立ち向かうべきかを考えてもらわねばならぬ。魑魅魍魎のほうが権力の亡者たちよりもよほどまともだということも。清濁併せ呑む心の剛さを持ってもらわねばならぬ。
 ラザールは柔和な表情を消す。
「王子のお人柄も資質も関係ございません。そのようなことは慮外にございます」
「吾の見所は関係ないと申すか」
「残念ながら。むろんカイル殿下の資質も関係ございません」
「では、なぜ吾なのじゃ」
 キリトには納得のゆかぬことは許さぬ気構えがある。
「それを開陳いたす前に、王子にお尋ねしたき儀がございます」
 よろしいですか、とキリトに請う。
「かまわぬ、なんなりと問え」
 ラザールは四阿の欄干に立ち、立木の茂みと空をなめるように見回す。さすがに真珠宮の庭にはレイブンカラスの姿はないようだ。侍従たちは橋のたもとで控えている。侍女も茶の用意だけして下がった。四阿にはキリトとラザールの二人だけだ。それを確認すると、改めて王子の前に跪拝した。
「王子の偽りなき御心をお尋ね申し上げたい。カイル殿下のことはどのようにお考えでござりまするか。カイル殿下を排して王太子になりたいとお望みでしょうか。この老臣に王子の本心をお教えくださりませ」
 なんだそんなことか、とキリトは晴れやかに笑う。
「吾は兄上をお慕いしておる。すばらしいお方じゃ。シキから聞いておらぬか。兄上にこそ王位を継いでいただきたい。ここだけの話じゃが」と声をひそませ、上体をかがめラザールの耳もとに口を寄せる。
「アラン兄上より、カイル兄上のほうが優れておられる、と吾は思う」
 にたり、と口角をあげ頬を紅潮させる。
「それを伺い、臣の覚悟も定まりました」
「ならば、父上にカイル兄上の立太子を薦めてくれるか」
 ラザールは首を振る。
「いいえ、臣は王子をお育てする覚悟が定まりましてございます」
「なぜじゃ、なぜそうなる」
 キリトが解せぬという顔をする。
「長い話になります。老体には堪えますゆえ、失礼ながら、座してもよろしいでしょうか」
「もちろんじゃ。遠慮せず掛けよ」

「流転」(3)

 中央に三本の猫脚がついた小さな青銅の円卓をはさんでラザールとキリトが相対する。
 対岸では獅子の像がたえず水をはきだし、水煙をあげていた。声変わりもまだな少年に容赦なき現実を突きつけねばならない。ラザールは喉の奥で唾を呑む。
「王宮を二分している派閥争いが、王太子の空位に由来することはご存知でございますか」
「だから、早う、カイル兄上を王太子とすればよいのじゃ」
 簡単なことじゃないか、とキリトは逸る。
「王子とカイル殿下には、決定的な違いがございます」
「母上が王妃か、妃嬪かであろう」
「それは些末なことにございます」
「では、何だ?」
「王子がトルティタン皇家の血を引いておられることに尽きます。またそれが、派閥争いの火種でもあります」
「吾が愚かであっても、トルティタンの血筋であればよいということか」
「いかにも」
 ばん! 
 円卓を力まかせに叩いてキリトが立ち上がる。池の魚が跳ねる。
「ならば、そちについて学んでもしかたあるまい。勉強などしとうないわ」
 キリトは怒りを吐き捨てる。睨みつける瞳には、まだ王の威厳はない。駄々をこねる子と同じだ。
「カイル殿下をお救いするには……」
 ラザールはキリトを見据え、「必要でございます」と続けた。単調の低音で諭す。人を御すのは感情の昂ぶりではない。火を消すのは水である。
「兄上を……お救いする? 吾が?」
 燃えあがりかけた焔は、たちまち勢いを失う。戸惑いがその熟しきらないおもてにあがる。感情を揺らしたままキリトは椅子に身を落とした。
「カイル殿下は、早晩、窮地に陥られるでしょう。その折にお救いできるのは、キリト様しかおられませぬ」
 ラザールはキリトを見つめ静かに告げる。
「兄上の身が危うくなると申すか」
 キリトの声が尖る。
「おそらくは」
「なぜじゃ。カイル派の者どもは助けにならぬのか」
「残念ながら。彼らの関心事は、一族の隆盛と権力の美酒でございます。カイル殿下のお命が危うくなれば、掌を返し保身に走るでしょう」
「なんと卑怯な。それでも臣か」
 キリトの声がさらに鋭くなる。
「国に王は必要ですが、国を治めるのは王ではございません」
「どういうことだ」
 ラザールは威儀を正す。
「王族であられる王子には腹に据えかねるでしょうが、権力とは如何なるものか、その真実を正しく理解していただかねばなりません。それが御身おんみを守り、ひいてはカイル殿下をお救いする手立ても見えてまいります。老臣の妄言に耳を傾けていただけますかな」
 うむ、とキリトはうなずく。
「聞こう。耳の痛いことほど聞かねばならぬと、カイル兄上も仰っておられた」
 ラザールはわずかに表情をゆるめる。
「王子はシキの申していたとおりのご気質であられますな」
「シキは、何と?」
「気持ちがまっすぐで聡いお方と」
「シキがそう申しておったか」
 キリトの瞳がたちまち輝く。自由奔放なまま放置されたゆえのまっすぐなご気質。それは人を魅了もするが、甘言に弄される危うさもある。教育を急がねばなるまい。

「流転」(4)

 ぴぃいいい。雲雀がひと鳴きして空にあがる。
 ラザールはそれを一瞥して威儀を正した。この心根のまっすぐな王子に権力の汚辱を開陳せねばならない。
「王の下に廷臣がおり、王が統べているようにみえます。ですが、それは幻影であり、見せかけにございます。王は廷臣の上にまつりあげられた飾りにすぎませぬ」
「飾り……だと」キリトの語尾が跳ねあがる。
「左様。王宮の望楼にはためく双頭の鷲の国旗、あれと同じにございます。政治を行い、国を動かすは臣下でございます。王は国の象徴としてあればよい。極論を申し上げれば、玉座に座ってさえいればよいのです。王が無能であるほど、権力に群がる者どもにとっては都合がよい。これが権力の真でございます」
 王とは尊きものと教え込まれてきた王子が、初めて耳にする酷い現実。キリトは唇を引き結び、ラザールを睨む。
木偶でくであれというか」
「権力をほしいままにしたき者にとっては」
 キリトの眉根がつり上がる。
「初代ラムル王の伝説はどうなるのじゃ。英雄であらせられたラムル王が蛮族を倒し、レルム・ハンを建国されたというではないか。お祖父様のカムラ王も勇猛果敢であったと、ソン爺が言っておったぞ」
 キリトはひっしで反論を試みる。納得のいかぬことには一歩も退かない気構えがこの王子にはある。
「ラムル王の事蹟は、六百年以上も昔のことであるため真実はわかりませぬ」
「英傑王といわれておるではないか」
「歴史や伝説は、時の権力の都合の良きように創られるものでございます。ラムル王がいかに勇猛であられたとしても、お一人で建国できたでしょうか。一騎当千であったとしても、いくさでは鬼神のごときと讃えられようとも」
「兵を率い軍を指揮され、レルム・ハン国を建てられたのではないのか」
「むろん優れた族長ではあられたでしょう。ただし、王お一人の力に頼る国は脆い。王がたおれてしまえば、国は瓦解いたします」
 キリトは眉間に力を込めラザールから視線を外さない。
「カムラ王がお斃れになられたときが、まさにそうでございました。我が国は存亡の危機に瀕しました。現在の愚かな派閥争いの遠因も、かの折に端を発しております」
「どういうことだ」
「カムラ王がトルティタンとの戦場においてご薨去こうきょなされたことはご存知でしょう」
「むろんじゃ」
「あの戦はカムラ王が仕掛けられ、王自らが陣頭指揮を執られておりました。王がお一人で率いておられたのです」
 ほら見ろ、といわんばかりにキリトが勝ち誇った笑みを浮かべる。
 ラザールはひとつ咳ばらいをして続ける。
「それ故に、王がお斃れになられると軍はたちまち統率を失いました。王の死を秘匿して早々にトルティタンと『イルミネ講和条約』を締結し窮地を脱しましたが、それも王のご遺命であったと聞こえております。条約調印のテーブルに着いたのが王の影武者と露見すれば、我が国はトルティタンの属国になっていたやもしれませぬ。まことに危なき橋でございました」
「カムラ王の勇猛さが、国を存亡の危機に陥らせたというのか」
「いかにも。ラサ王妃様は同盟の証として我が国にお輿入こしいれなされましたが、ありていに申し上げれば人質でございました。ご婚儀の翌日にカムラ王の死が公表され、ウル王が即位されると、トルティタンのムフル皇帝が地団太を踏んだと伝え聞いております」
「だから……次の王はトルティタンの血筋を引くものでなければならぬのか」
「ご明察のとおりでございます。ゴーダ・ハン国とセラーノ・ソル国の脅威がある今、トルティタンとの盟約を反故ほごにはできませぬ」
 キリトは爪を噛む。
「吾は……レルム・ハンの王族でありながら、生まれながらの人質でもあり、同盟の象徴でもあるということか」
 ラザールは驚いて目を|瞠《》く。なんと聡い王子であろうか。
「ご慧眼にございます」
「アラン兄上もラムザ兄上も身罷られた。吾しかおらぬ」
「左様。そもそも次の王太子はキリト様、一択でございました」
「では、なにゆえ派閥争いが起きたのじゃ。カイル兄上は、臣籍降下して諸国を放浪したいと仰っていた。兄上は王太子の位など望んでおられぬ」
「王子様方のご意思は関係ないと申し上げました」
「ああ、そうであったな」
 キリトは細い肩を落とす。そこにラザールは追い打ちをかける。
「やがて、ラサ様が王妃であられることを問題視する声があがりました」
「なぜじゃ。同盟のために、母上は犠牲になられたのであろう」
「王統の純血が保てない、と主張する勢力が現れたのでございます」
 はっ?と、キリトがまじまじと目を剥く。
 ぴぃいいい。池畔の茂みからまた雲雀が蒼天を衝く。
「それで……カイル兄上の母上サユラ様が後宮に入られたのか。血とは、それほど大事か」
「象徴としての王にとっては」
 池を渡る風はぬるく淀んでいる。
「王統の純血を主張した勢力も、おそらく本音では純血に拘泥しておったわけではございません」
「どういうことだ。そちの話は混沌としてわからぬ」

「流転」(5)

「カムラ王が戦地にてお斃れになった折、王の遺志を実行して条約締結を成し遂げ、戦の処理にあたられたのがウロボス元帥です。これによって、一介の陸軍大将でしかなかったウロボス元帥が絶大な権力を手にされました。幼かったウル王は、まさに飾りの王でしかございませんでした。実権を握られたのは、表向きは母后であられる王太后様でしたが、裏で権力を手にし国を動かしたのは、ウロボス元帥と王太后様の兄上のカール・ルグリス侯爵といわれております。これを苦々しく思っていたのが、サユラ妃のご実家であるギンズバーグ侯爵家をはじめとする名門貴族でした。ウロボス元帥とルグリス侯爵家の力を少しでも削ぎたかった。浅ましき権力の駆け引きでございます」
「純血かどうかは、政争の具にされただけか」
「いかにも」
「それが、今の派閥闘争につながっていると申すか」
「左様。なれど、不審な点がございます」
「まだあるのか、何だ?」
 キリトはいい加減、呆れていた。
 権力とは何だ。それほど魅力的なものなのか。実体のない、得体のしれない怪物に、吾もカイル兄上も、ただまつり上げられ翻弄されるのか。持って行き場のない怒りがほむらとなって、躰の深部を灼くような心地がした。獅子のように吠えたい。
「トルティタンは、ウル王即位の折に煮え湯を呑まされております。故に、カイル殿下が立太子なされば、トルティタンが黙っていないは明白。同盟の解消だけで済めばよろしいが、ゴーダ・ハン国と手を結び我が国に攻め入ってくることも十分に考えられます」
 ぴぃいいい。また雲雀が晴天を衝く。
「にも関わらず、王太子の空位がいたずらに二年も続いております。そこに胡乱うろんな作為を感じるのでございます」
「どういうことだ」
「本来であれば、遅くともラムザ王子がご逝去の三月みつき後にはキリト様の立太子が公表されて然るべきでありました。なれど、王妃様が渋られたと承っております」
「ああ、母上が申しておった。アラン兄上も、ラムザ兄上も暗殺されたに違いない、立太子は不吉だと。兄上たちは真に謀殺されたのか」
「それは臣にはわかりかねます。ただし、王子様方を立て続けに亡くされた王妃様のお嘆きの深さは、尋常ならざるものでございましたでしょう。そこに付け込んだ輩がおったのではないでしょうか」
「付け込む?」
「アラン殿下とラムザ殿下の急逝は不可解であり、王統の純血を主張する一党の謀略によるのではないかと、王妃様に耳打ちされた者がいたのではないでしょうか。キリト様を無事に王にするには、反対勢力を炙り出し一掃すべきであると」
「そのための、引き延ばしか?」
「恐らくは。そのように考えると、この無意味な空位に合点がゆくのです」
「母上に吹き込んだは、ウロボス元帥かルグリス侯爵か」
「ウロボス元帥もカール・ルグリス侯爵もすでに隠居されておられます故、裏で操っている者を特定するのは困難でございましょう。ギンズバーグ侯爵家が踊らされたのでございます」
「踊らされた?」
「嵌められた、とも言えます。カイル派に組する貴族が明らかになった時点で、キリト様の立太子が公表され、ギンズバーグ家を筆頭に多くの貴族が失脚させられるでしょう。恐らくギンズバーグ侯爵父子とカイル殿下は謀反の罪を被せられて極刑に処せられます」
「なぜじゃ、なぜそうなる」
 キリトは椅子を蹴倒して立ち上がる。
 石造りの橋を打つ金属音に、橋のたもとで控えていた侍従が駆け寄ろうとする。
「大事ない。椅子を倒しただけじゃ」と片手で制し、キリトは椅子を起して座り直す。
「事態を収束させるには、見せしめとして誰かが罪を被らねばなりません」
「母上に吾がお願いしよう」
「事態は引き戻せないところまで進行しております。今、軽率に王妃様に嘆願いたしますと、かえってカイル様を窮地に陥らせるやもしれませぬ」
 キリトは半ば開きかけた口を噤んで唇を噛む。眉間が引き攣っている。
 淀んでいた空気がぴんと張り詰める。
「兄上の窮地を黙って見過ごせと申すか」
「臣は」と言ってラザールは立ち上がり、キリトの足下に跪拝する。
「キリト様とカイル殿下とお二方ともにお救い申し上げたいのでございます。それ故、キリト様の師傅を承りました」
 ひざまずくラザールをキリトは無言で睨む。
「そちの本心か。それとも駆け引きか」
 ラザールの瞳をきりりと凝視する。
「本心にございます」
「相わかった」
 それだけを告げると、キリトは振り返ることなく四阿あずまやを後にした。理不尽に抗う未だ消化しきれない感情が少年の肩を強ばらせていた。
 ラザールは跪拝したまま、踵で石橋を蹴るように歩む足音を聴いていた。

「流転」(6)

 キリト王子との謁見を終え、ラザールが正式に師傅を拝命してからひと月半ほどが経っていた。ダレン伯を指揮官とする捜索隊がリンピアの港を華々しく出航して三週間あまり。その余韻が冷めやらぬ中のできごとだった。
 十日前の昼過ぎにゆるい地鳴りがした。市場の果物屋のりんごの山から、一つ二つがころころと転がる程度の揺れだったが、星夜見の塔から海上を見張っていた物見は、はるか南の海上で火のつぶてが天に向かって吐き出されるのを目撃した。その直後に雷鳴が轟き、海も陸も突如嵐にのまれた。かの物見によると、火の礫があがる直前に巨鳥がノリエンダ山脈の方角に飛んでいったという。これも何かの予兆ではないかと色めきたつ者もいたが、南海に無数に点在する小島の一つで火山が噴火し天を揺るがしたにすぎぬというのが、おおかたの見方だった。
 ところが、嵐がおさまった翌朝、念のためにと派遣されたレイブン隊が驚愕の報せをもたらした。天卵の捜索艦隊が壊滅したのではないか、というのだ。島は噴煙をあげているため近づくことが不可能だったが、双頭の鷲の国旗や艦隊の残骸とおぼしき木っ端が海上を埋め尽くしていたという。それだけでも十分に王宮を震撼させるできごとだったが、その三日後に丸太につかまり漂流していた艦隊の一員を漁船が保護した。救助された兵士によると、島の山には魔物が住み、恐ろしげな鬨の声をあげ、その直後に山が噴火し旗艦が吹き飛んだと語ったのだ。
 「天はあけの海に漂う」との星夜見が当たったのだ。天卵による凶兆のはじまりだと、王宮は蜂の巣をつついたような混乱に陥った。さらに島の噴火はセラーノ・ソル国もすでに確認済で、この機に乗じて同国の艦隊が押し寄せるのではないかとの憶測まで流れた。王都リンピアの市街では、家財を荷車にまとめて逃げ出す者が続出するしまつだった。

 ラザールは王都の混乱を好機と捉えた。計画を立ててからまだひと月あまり。いま少し準備に時間をかけたかったが、何事にも機というものがある。実行に移す決断をした。

 コツン、コツン。
 書斎の暖炉からかすかに響く硬質な音をとらえると、ラザールの頬がわずかに緩んだ。隣で膝をつき祈るように固唾をのんでいたシキの頬もうっすらと紅潮する。
 あらかじめ灰を取り除いておいた炉床のレンガを、ラザールは金梃かなてこで一つ二つとはずしていく。シキも無言で手伝う。観音開きの鉄蓋がしだいに形をあらわにする。レンガをすべて取り除き、鉄の蓋を左右に開いた。
「お待たせしやした」
 ぬっと毛むくじゃらの黒い物体が飛び出した。前につきでるようにとがった鼻だけが白い。トビモグラだ。暖炉の穴からは続いてカイルが、カイルの後方を守るようにしてナユタが姿を現した。
「殿下、ご無事で何よりにございます」
 暖炉から這いずり出たカイルは、膝の泥を払う。
 その御前にラザールが額づく。シキも無言でひれ伏す。
此度こたびは世話をかけた。心より礼を申す」
「もったいなきお言葉です。ですが、まだ安堵はできません。まずはこれにお着がえください」
 町人ふうの粗末な衣服を手渡す。
「ラザールのだんな、あっしはトンネルの残りの仕上げをしてきやす」
 トビモグラはそう言い残すと、くるりと穴に消えた。
「ありがとう、アトソン。よろしく頼む」
 トビモグラのアトソンは、巽の塔に幽閉されているイヴァン殿から融通していただいた。
 カイル殿下をお救いする覚悟を定めてから、ラザールは日夜、方策を練った。王宮にいる限り殿下のお命が風前の灯であるのは明らかだった。派閥争いはすでに後戻りできないところまで進展している。キリト王子にも申し上げたが、行きつく先はカイル殿下の磔刑であろう。その前に殿下を城から救出せねばならない。王宮の者に気づかれずに城外へお逃がしするには、いかにすればよいか。厳しいレイブン隊の監視網をいかにしてかい潜るか。王妃をはじめとするキリト派の動向をキリト王子に探っていただいてはいたが妙案は浮かばない。考えあぐねていたときだった。
 シキが『月世史伝』解読のあいまにイヴァン殿から聞いた話をしだした。
「天卵を生んで、王宮から狙われていたルチル様はトビモグラの地下トンネルを使って白の森へお逃げになったそうです」
 これだ、と膝を打った。地下からなら人目にふれることなく王宮を脱出することができる。まずは協力してくれるトビモグラを探そうと思った矢先、
「これは秘密ですが」とシキが声を潜める。
「その英雄のトビモグラのアトソンが、イヴァン様の荷物にまぎれて付いて来たそうです。巽の塔の地下に穴を掘って暮らしているとおっしゃっていました」
 ラザールの瞳に光が宿る。
「シキ、明日も巽の塔にまいるのか? では、イヴァン殿に……」
 ラザールは計画の一端をシキに話し、イヴァン宛に書状をしたためた。
 ――藍宮からラザール邸まで、貴殿が帯同したトビモグラに地下道を掘ってもらえないか、と。

 それがひと月半ほど前のことであった。地下トンネルは嵐の鎮まった翌日に完成した。
 同時に、キリト王子からカイル殿下に計画のあらましをお伝えいただき、いつでも出奔できる心づもりでいていただくようお願い申し上げていた。

「流転」(7)

 上等の絹の長衣を脱いで質素な短衣の腰ひもを結び終えると、カイルは傍らに端座しているシキに目をやる。
「シキ、久しいな」
 一月は新年の行事続きでカイルが忙しかった。三月に王宮を震撼させた星夜見があり、星夜見寮が慌ただしくなった。その後シキは『月世史伝』の解読に勤しんでいたため、藍宮へ足が遠のいていたのだ。
「息災であったか」
 シキは無言でうなずく。
「その不遜な態度はなんじゃ。殿下が尋ねられておる。はきと答えよ」
 ナユタがカイルの背後から鋭い声で注意する。
 シキはびくっと肩を震わせ、瞳をあげた。
「じ…づ…れい…いだじ…まじ…だ」
 蝦蟇ヒキガエルがつぶれたような、とぎれとぎれのダミ声が書斎の空気を擦こすった。
「声を失うたは、まことであったか」
 カイルが目を剥き、シキの前に膝をつく。返事すらまともにできず、シキは唇を噛む。
「何があった?」
 カイルはうなだれるシキの両腕に手を添え、ラザールに目を向ける。
「臣が愚かでございました」
 いかなるときも表情の変わらぬ老臣の顔が苦渋にゆがんでいる。
「あまりときはございませんが、殿下には知っておいていただきとうございます。よって臣よりご説明申し上げます」
 ラザールが居ずまいをただす。
「シキは女子おなごでございます」
「そうではなかろうかと案じておった」
 シキがはっと顔をあげる。
「いづ…がら?」細い目を見開き、瞳を震わせる。
「初めて図書寮で出会った日を覚えているか」
 二年前のことだ。
「ナユタに打ち据えられて鼻血を流しておったそなたを、吾は抱きかかえて宮に連れ戻った。お転婆なカヤを抱くことが多かったからな。抱きあげた感触がカヤを思い起こさせた」
 カイルがシキに微笑みかける。
「シキを男児と偽ったは、星童ほしわらべにするためか」
 カイルはラザールに問いただす。
「左様でございます」
「星を観る才があったからか」
「それは後のちに判明したことでございます」
 ラザールは瞼を伏す。
「私は遠い昔、息子を星夜見の夜に亡くしました。その恐怖は今も胸に巣食っております。故に幼いシキを夜に一人にするわけにはいかないと案じました。私が傍らにいたとて息子を助けることができたとは思っておりません。なれど、私自身が恐れたのです。幼子を宵闇に一人にすることを」
「それで、男児と偽って」
「左様でございます。ほんの数年のつもりでございました。星童の時期を終えれば、娘に戻せばよいと。ですが、シキには星夜見の才がございました。私はその才が惜しうなりました」
「女子にも門戸を開けぬものかと画策いたしましたが、星夜見は国の吉凶に関わる寮であるだけに、忌み事に対する抵抗は思いのほか高うございました」
 ラザールは嘆息する。
「そうこうするうちに、例の星夜見があり、ますます禁忌に触れるのが難しくなりました」
 そうであろうな、とカイルも同調する。
「巽の塔に幽閉されているイヴァン殿も、殿下同様、シキが女であることに先日気づかれました」
「思いつめたシキは」と言いながら、ラザールは立ち上がる。机の抽斗ひきだしから鍵を取り出すと、書斎の奥にある扉付の書庫を開け、角の擦り切れた古い本を一冊カイルに差し出した。
「『本草外秘典』でございます」
「禁断の奇書。そなたが持っておったのか」
「曾祖父が二代前の国王ソアラ様より託されたと聞いております」
「薬事寮が保管しているのかと思っておった」
「薬事寮では興味を持つ者が出来しゅったいする可能性があります。この一冊を残しすべて焼いたそうでございます」
「なにゆえ一冊だけ残した?」
「有事の保険……でしょうか」
「保険?」
「市中に出回っているものをすべて焼いても、書写して秘匿している者がいる可能性を排除できません。人は禁ずるほどに執着するものでございます。この奇書にある薬が悪用された場合、処方がわかれば対策もできようと、一冊だけ残されたのでございます。それがよもやこのような事態を招くとは」
 ラザールが中ほどの頁を開く。
「低声奇矯薬?」カイルが読み上げる。
「声を低くする薬でございます」
 カイルはシキの顔をまじまじと見る。シキは顔を背ける。
「シキは男として生きるために、禁忌の薬を調合いたしました。臣の浅はかさがシキの声を奪ってしまったのです」
 シキはそうではないと言いたいのだろう、激しく首を振る。
「殿下にお願いしたき儀がございます」
 ラザールはカイルの前にぬかづく。
「シキを連れて行っていただけないでしょうか」
「それはかまわぬが、どんな危険があるかわからぬぞ」
「シキは武術もひととおり修めております。また、農夫の娘であるので野営でも知恵が働きましょう。市場にもよく出かけ、町のことも心得ております。むろん星も読めるので道案内もできます。必ずや旅のお役に立てると存じます」
 ラザールは頭をあげカイルに視線を合わせる。
「シキを娘に戻してやりとうございます」
 なにとぞ、とラザールは面おもてを伏せ声を細くする。
 カイルが背後のナユタを振り返る。
「多少は市井に通じているとはいえ、私も貴族の暮らししか知りません。民の暮らしぶりがわかっているシキの存在は大きいと存じます」
 ナユタの言に、シキが頬を紅潮させる。
「では」とラザールも床から顔をあげる。
「うむ。シキ、よろしく頼む」
 カイルの承諾を得るなりラザールはシキに向き直る。
「シキ、急いでこれに着替えなさい」
 町娘ふうのふわりとした膝たけのドレスをシキに手渡すと、シキは衝立の後ろに消えた。

「流転」(8)

 シキが席を立つと、ラザールはカイルに向き合った。
「さて、旅の設定でございますが。ナユタ殿とシキとを結婚したての商人夫婦。カイル殿下は、誠にご無礼ではございますが、若夫婦の従者ではいかがでしょうか。買い物などは主人がし、従者は荷物持ちになるので人目につきにくいかと存じます」
「それでかまわぬ。ナユタも異論はないな」
「御意にございます」
「早速ですが、言葉遣いにはくれぐれもお気をつけください。ナユタ殿は、殿下の主人になられるのです。畏まった言い回しはなされませぬように」
「心得申した」とナユタは首の後ろを掻きながら苦く笑う。
「また、これは戯言ざれごととしてお聞きくださりませ。グリフィンの爪は万病に効くとの言い伝えがございます。万に一つではございますが、シキの声を取り戻せるやもしれませぬ」
「グリフィンか……。神獣であるゆえ、めったと出現せぬという。遭遇は期待できぬぞ」
「心の片隅にでもお留めおきくださればけっこうでございます」
 娘を心配する老親の顔で目を伏せた。
「だんな、準備がととのいやしたぜ」
 暖炉の穴からトビモグラがひょこっと顔をのぞかせる。鼻が泥まみれだ。
「ご苦労だったね、アトソン。では、納屋まで三人を案内してくれるかな」
「承知いたしやした」
 アトソンが穴に首を引っ込める。
「納屋に荷馬車を用意してございます。アトソンが納屋まで地下トンネルを繋げてくれました。馬車は庭師のトムが御します。トムは毎週水曜日に馬車で市場に買い物に出かけますので、レイブンカラスに目撃されても不審がられないでしょう。荷台には雨除けの布をかけてございますので、その下に潜んでください。市場につくとトムが荷ほどきのふりをいたしますので、その隙に馬車からお降りください。市場の人混みにまぎれれば、王都からも怪しまれずに出都できましょう」
「これが通行手形でございます」
 三人分の木札と路銀を手渡す。
「路銀は用意しておる」
「多くとも困るものではございません。ただし、三人それぞれ分けてお持ちください。また、過分な支払いはなさりませんように。金を持っていると露見いたしますと賊に狙われます」
「心得た」
「苦難の尽きぬ旅になりましょう」
「籠の鳥で居るよりよほど良い。吾が望んだことだ」
「こちらはサユラ様とカヤ姫様からの文でございます」
 ラザールが懐から文を手渡す。
「母上とカヤからとは。いかにして」
「キリト様が翡翠宮にお忍びでまいられ、お二方よりお預かりして来られました」
 ふっとラザールが片笑む。
「カヤ様はキリト様に、早くあなたが即位してお兄様を救ってちょうだい、わらわはあなたの駒としてゴーダ・ハン国でもどこでも嫁す心づもりはできているわと、啖呵を切られたそうにございます。なかなか勇ましき兄上思いの姫宮であられますな」
 はは、とカイルも乾いた笑いをもらす。
「キリトには世話をかけた。吾は王族としての責務を放棄して逃亡する。最も重たきものをキリトの肩に残していかねばならぬこと、誠に胸が痛む」
「微力ながらキリト殿下は、臣が全力を尽くしてお支えいたします。臣の望みは、いつの日か即位されたキリト殿下をカイル殿下が支えてくださることでございます。お二方が王旗のごとく双頭の鷲として並び立たれる日が来ることを衷心より願っております」
 ラザールはカイルに視線を据える。
「どうか、どうかその日までご無事で。生きてくだされませ」
 カイルは老臣の手を取り無言でうなずくと、立ち上がった。
 まずナユタが暖炉の穴を降りる。カイルが続く。
 ラザールはシキを胸に掻き抱き、
「シキ、そなたと過ごした五年は私にとって喜び以外のなにものでもなかった。ありがとう。おまえのことは、かけがえのない娘だと思っておる。カイル殿下を頼む。そして、シキ、どうか生きて帰って来ておくれ」
 最後にきつく抱きしめると、「さあ、お行き」とその背を押した。
 二度と会うことは叶わぬかもしれぬ。ラザールは胸のうちで三人の無事をただひたすらに祈った。


(第15章「流転」了)
(第3幕「迷宮」完)

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