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『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(9)

第1話から読む。
前話(第8話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『オールド・クロック・カフェ』には、「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。時計に選ばれた人しか飲めない「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれる。店主の桂子が姉のように慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。時のコーヒーなど信じないという環に16番の時計が鳴る。環は8歳の誕生日に、母が出て行った過去をもつ。30歳の誕生日に正孝からプロポーズされた環が「時のコーヒー」で見た過去は、22歳の誕生日のシーンだった。
当時の恋人の翔は、砂漠で2000年も生きるキソウテンガイという植物を研究するためナミビア行きが決まっていた。翔は環に指輪を渡して、その日のうちにナミビアに旅立つ。出発の日を知らされていなかった環は、また、誕生日に大切な人に捨てられたと思い込む。

<登場人物>
  カフェの店主:桂子 
桂子が姉と慕う:瑠璃
 瑠璃の友人:環
   環のかつての恋人:松永翔   
   環の現在の恋人:正孝 


* * * long time no see  * * *

「桂ちゃんみたいに上手に淹れられへんしコーヒーメーカーまかせやけど」
「はい」といって瑠璃が、湯気のあがったマグカップを二つ、大きな杉板のテーブルに乗せた。

 鴨川は左右の岸で表情が異なる。
 西岸は河原にせり出すように店やビルがひしめき合い、夏になると川床を張りだすが、東岸は樹木が縁どり、春には桜がうす桃色に堤を染め花びらを散らす。川端通りは鴨川べりに沿って走る唯一の大通りで、そんなところが瑠璃は気に入っていた。
 昨年の6月に結婚したばかりの瑠璃の新居は、川端二条を東に入ったところにある町家だ。仕舞屋しもたやふうのつくりで、通りに面した一間いっけんが出格子になっている。格子窓の内側には横長の大きなデスクを置いている。夫の啓介の仕事デスクだが、瑠璃は啓介がいないとき、そこに座って通りを行き交う人の息づかいや鴨川の風が運んでくる季節を感じて時を忘れる。

 玄関引き戸をからからと滑らせ、ほら入って、と瑠璃は笑顔で振り返る。
「奥まで土間の走りやってんけど。さすがに台所が土間なんは、冬は寒いし使い勝手も悪いから、板を敷いてもろてん」
 格子戸の向こうは一間ほどが、黒光りのしている細長い「走り」と呼ばれる土間で、自転車が一台置いてあり、若草色の麻の暖簾が土間とその奥の板の間とを仕切っていた。土間の天井は高く、2階まで吹き抜けの昔ながらの造りだ。
「1階はほぼ事務所だけど。ここの方が、話もしやすいから。こっからあがって」
 夫の啓介は建築士で、事務所兼住まいにしているらしい。
 土間の右手が部屋で、玄関口から一本目の柱まで上がり框のかわりに柾目の杉板がわたしてあり、それがそのまま板の間の台所へと続いている。合理的でセンスの良いリフォームだ。
「今日はお客さんの家で打ち合わせしてるから。夕方まで帰って来んといてってラインしたし」
 ほら、早よあがって、とうながす。
 通りに面した部屋は6畳の和室で、啓介の仕事部屋になっている。続くひと間は手前よりも広く、10人は座れそうな大きな杉板のテーブルが置かれていた。仕事の打ち合わせにも使うし、作業台にも、食事のテーブルにもなるらしい。腰高の棚が台所との境界も兼ね、本や資料が収められている。

 瑠璃は環の前にマグカップを置くと、隣に腰かけた。淹れたてのコーヒーの薫りがほわりとカップからあがってくる。
「スマホ出して」
 環はバッグからスマホを取り出し、翔の番号を表示させ、テーブルに置いた。胸が痛いくらい縮まり、動悸が加速度的にあがる。画面の数字がすぅっと遠のいていく気がする。震える指で画面を滑らせた。

 トゥルルル、トゥルルル、……6回、7回……、コール音を数える。
 10回を数えて、ほらね、とあきらめと落胆の混じった気持ちの傍らで、ほっとする気持ちもあった。もう切ろうと、指を伸ばしたときだ。
「ハロー」
 心臓が跳ねあがった。
 機械音で少しくぐもっているけど、鼓膜が覚えている懐かしい声がした。ずっとこの声が聞きたかった。
「しょう」とかすかに息を漏らすと、環は両手で口をおおった。
 言葉よりも先に涙がこぼれる。嗚咽が喉で引っかかり声帯をふさぐ。
「もしかして……たまき? 環か?」
 スピーカーから、寝起きが吹っ飛んだといわんばかりの甲高い声が響く。
 環は口を押さえたまま微動だにしない。
 はらはらと涙を流すその横顔を見つめ、瑠璃はスマホに話しかけた。
「翔さんですか? はじめまして私は環の友人の瑠璃です」
「え!瑠璃ちゃん? ほんまに瑠璃ちゃん?」
「私をご存じですか?」
「うん。環からしょっちゅう聞いてた」
 しゃべれそう?と、環に小声で尋ねると、激しく首を振る。
「環、泣いてて話せそうにないんで、私が代理で。時間、大丈夫ですか」
「時間は気にせんでええよ。こっちはアバウトやから。いやぁ、瑠璃ちゃんと話せるなんてうれしいなあ」
 まるで昨日も会ってたような気軽さの、のんびりとした声音に、瑠璃は身構えを少しほどく。でも、失敗は許されない。環の記憶の蓋をこじ開けたのは、私なのだから。
「8年も経って、今さらって思わはるかもしれませんが」
「翔さんがナミビアに旅立った日から今日まで、環は植物園のことも指輪のこともすっかり忘れてました。たぶん自分で記憶に鍵をかけたんやと思います。心を守るために。せやから、堪忍したってほしいんです。そのうえで8年前のことについて、いくつか確かめたい。厚かましいのは承知してます。でも、ここをクリアせんと、環が前に進まれへんのです」
 瑠璃はスマホの画面に前のめりになる。
「うん、ええよ。なんでも訊いて」
 拍子抜けするほどのどかな声が返ってきた。スピーカーからふわりと風が吹いた気さえした。
 瑠璃も緊張していた。会ったこともない男性。環が心の奥にしまい込むほど、たいせつな人。8年間の音信不通。どのくらいの距離感で話せばいいのか。せっかくの機会を潰してしまったらどうしよう、その恐怖感。わきに冷たい汗がにじむ。
 それらを、やわらかくすぅっと吹き飛ばしてくれるような風だった。
 瑠璃はいつもの瑠璃にもどる。

「じゃ、遠慮なく。8年前に植物園で指輪をプレゼントしたのは、何でですか? あの日が環の誕生日って知らなかったんですよね」
「うん。誕生日と聞いてびっくりした。プレゼントは指輪でなくても良かったけどね」
「どういうことですか?」
「女性にはアクセサリーをプレゼントするもんやって、研究室の同僚に言われて。へえ、そんなもんか。あげたことないなあ、言うたらどつきまわされて。あんな美人を彼女にしとって、お前、何してるんや。早よ、買いに行けって、店の地図を渡されてね」
 光景が目に浮かんで、ぷっと瑠璃は吹き出しそうになる。環も泣き笑いしてる。緊張はあとかたもなく散っていた。
「あんなキラキラした場所、入ったことなかったから、目がちかちかして。ぼーっとしとったら、店員さんが何かお探しですかって。アクセサリーって言うたら、ネックレスですか、指輪ですか、ブレスですか、ピアスですか」
「なじみのない単語をばぁっと並べられて。わかったのが指輪だけやった」
「それで、指輪にしたんですか?」
 思わず瑠璃の語尾があがる。
「うん、そう」といって、翔がスマホの向こうで笑う。
「でも、指輪にしてよかったよ。キソウテンガイに似てるのがあったから」
「やっぱり。あれはキソウテンガイのイメージだったんですね。似てるなと思いました」
「そやろ。瑠璃ちゃんもわかってくれたんか。うれしいなあ」
 ほのぼのとした声が返ってくる。
「指輪の内側のメッセージなんですけど。あれは、なんで?」
 瑠璃は2つめの疑問を問う。
「何て彫りますかって訊かれて。無料ただでメッセージ彫ってくれるんか。えらい親切やなあと思った」
「あれ、結婚指輪でしょう。結婚指輪にはお互いのイニシャルを刻印するんです。from S to Tとかって、ふつうは」
「あ、そうなん? それでかぁ。店員さんが困った顔して奥に引っ込んで、追加料金がかかるけど、ええか、いわれた」
「でも、伝えたかったのは、あれやかったからなぁ」
「Waiting for you in Namibia」瑠璃が暗唱する。
「環が気づかなかったら、どうするつもりやったんですか。ていうか、実際8年も気づかなかったんですけど」
「気づかんでも、ええと思ってた。ぼくの勝手な想いやから」
「ナミビアで環のことを想ってる。それを伝えたかった」
「環を連れて行くつもりはなかった、ということですか」
「うん、まだ学部生やったし。環の人生はこれからで、ぼくが潰すわけにはいかん。おまけに行き先はアフリカ。ナミビアは治安はいいけど、衛生状態とか行ってみんとわからん部分もあった。ぼくにとっては夢がかなうチャンスやけど、環を巻き込むなんて考えられんかった」
 それはわかる、わかるけど。
「じゃあ、なんで、愛してるって言ってキスしたんですか」
「2年付き合ってたのに、まともに気持ちを伝えてなかった。次、いつ会えるかわからんし、日本に帰って来るかもわからん。せやから、ちゃんと伝えとこうと思った。キスは、気持ちがたかぶったというか」
 翔もまっすぐで誠実だ。多少、常識に無頓着でも。恋愛のイロハに疎くても。それなのに。

「どうして……」
 とつぜん絞りだすような声が左隣から聞こえた。
「どうして、あの日、最終便で旅立つことを教えてくれなかったの!」
 環が泣きはらして充血した目をきっとつり上げていた。
「だから、また、捨てられたと思って……着拒にして……」
「また?」
「またって、どういうこと?」
 翔のいぶかしがるトーンが機械ごしに伝わる。
 環が、はっと、口を両手で押さえる。
 ああ、お母さんのことを話してなかったのか、と瑠璃は理解した。
 糸がもつれた根本はそこにある。話すのが辛いんやったら私が代わりに、と言いかけたけれど、思い直し、環の二の腕をそっとつかみ目で合図する。
 だいじょうぶ勇気をだして。瑠璃は環の肩に後ろから手を回す。

「8歳の誕生日に……」
 一瞬、言い淀むと、すっと環は背を伸ばした。
「私はお母さんに捨てられた。私の誕生日に、母は男と出ていったの」
 スマホの向こうが沈黙する。
「誕生日は最悪の日に変わった。でも、あの日、22歳の誕生日に、翔は指輪をプレゼントして愛してるって言ってくれた。うれしかった。翔が、私の誕生日を塗り替えてくれたと思った」
「せやのに。携帯はつながらんし、朝になって下宿に行ってもいてへん。思い余って研究室を訪ねて、最終便で旅立ったと知った」
「あ、また、誕生日に私はたいせつな人に捨てられた……そう思った」
 最後はまた涙が声を滲ませる。それでも、環は美しい姿勢を崩さない。

「……そんなことが、あったんか」
 翔から明るい声音は消えていた。
「ごめん。環、ごめんな。ほんまに、ごめん」
「ナミビア行きをぎりぎりで告げたら、環が悩まんですむと思ったんや。物理的に間に合わへんタイミングで知ったら、一方的にぼくのせいにできるやろ。最終便に乗るのは……。言うつもりやってんけど、言えんかった。環との糸が切れてしまいそうな気がして。ナミビアに着いたら連絡しようと思ってた。ごめんな。自分のことしか考えてなかったんやな」
 言葉を一つひとつ選んでいるのが、スマホ越しに伝わってくる。
 環はみじろぎもせずに画面を見つめている。 
「環を自分の夢に巻き込むつもりはないと思ってたけど。心のどっかで、環がついて来てくれるのを期待してたんやと思う。ほんまに環のことを考えたら、ナミビアに行く前にきちんと別れて解放してやるべきやった。愛してるって一方的に告げてキスするなんて。自分の気持ちばっかりや。指輪のメッセージも、think of you で良かった。勝手に想ってるんやったら、それで十分や。それを無意識にでも『待つ』にしたのは、独りよがりな気持ちがどっかにあったんやろな。結局、ぼくは自分のことしか考えてなかった、ごめんな」
 環が無言で何度も首を振っている。
 瑠璃はその肩を撫で、スマホに向き合った。
 最後に、これだけは訊いておかなければ。

「もう、結婚はされてますか」
「してないよ」
「今、付き合ってる女性とか、結婚の約束をしてる方とかいますか」
「いない」
「じゃあ、指輪のメッセージはまだ有効なんですね」
「うん」
 瑠璃は大きくひとつ安堵の息をはく。さあ、これでしあげよ。

「環は、今、別の人からプロポーズされてます」
 水面に小石がひとつ落ち、画面の向こうで波紋が広がる。
「でも、返事に迷ってます。だから私が今日、無理やり環の記憶をこじ開け、やっと8年前のことを思い出したところです。指輪を探して植物園に行って。勇気を振り絞って、翔さんに電話をしました。一日で、ほんまにいろんなことがあって。環は、たぶん、気持ちの整理が追いついてません」
「だから、もうちょっと待ってやってもらえますか」
 波紋は鎮まっただろうか。
 ひと呼吸の静寂のあと、明るい声が還ってきた。
「うん、ええよ」
「2000年も生きる植物を研究してるんや。10年、20年待つぐらいたいしたことない。いつまでも、待ってる」

(to be continued)

第10話(10)に続く→


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