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『オールド・クロック・カフェ』6杯め「はじまりの時計」(8)

第1話は、こちらから、どうぞ。
前話(第7話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『オールド・クロック・カフェ』には時計に選ばれた客しか飲めず、過去の忘れ物を思い出す「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。
ランチの客がひけた店に祖父が母を伴って訪れる。桂子と母の間には長年、溝がある。時計が母と桂子の両方に鳴り、ふたりは「時のコーヒー」を飲む。時計が見せたのは、桂子が中学一年生のときに母と行った南座の顔見世の場面だった。桂子は幕間で母に学校でのいじめを打ち明け、めざめる。
桂子は、母との不和の原因はいじめではなく、「自立」に目を背けた自分にあることに気づく。だが、母の万季は別のことが原因と思いこんでいた。
母は南座のロビーでぶつかった男性が、桂子の生物学上の父親だと告げた。

<登場人物>
桂子‥‥‥‥カフェ店主
祖父‥‥‥‥カフェの前店主
万季‥‥‥‥桂子の母
公介‥‥‥‥桂子の義理の父

* * * Further Confessions * * *

 桂子の心は平坦だった。
 「生物学上の父親」と打ち明けられても、そう、と思っただけだ。ニュースキャスターが読みあげる原稿と同じで機械的に鼓膜をゆらしたにすぎない。不思議なくらい響かなかった。
 実の父は死んだと聞かされていた。墓参りに行った記憶も遺影もないから、おかしいとは思っていた。初めからいなかったから、なんの感慨もない。生物学上という無機質な学術用語が皮肉なほどしっくりくる。それくらい体温のある感情がわかない。桂子が「お父さん」とよびたいのは六歳の春から公介だけだ。一瞬すれ違っただけの人に波立つ感情などない。桂子と公介の仲の良さは母も知っている。公介が実の父親でないことは、初めからわかっていたことだ。
 それなのに、なぜ母はこれほど怯えているのか。首をひねって残像が頭の隅をかすめた。
「あそこにいたのは、あの人の家族?」
「そう」
「あたしと同じくらいの歳の女の子がいたよね」
「早生まれで、あんたより学年が一つ上よ」
 それが何を意味するか。
 母をまじまじと見る。母は耐えきれずに顔をそむける。
「そのとおりよ。不倫……やった。ごめん、ごめんな。うちがあほやったばっかりに」
 視線を膝に落としてこぼす。
「岩倉にそこそこ大きい総合病院があるやろ。きもの着てた人、奥さんなんやけど、理事長先生のひとり娘であの人は婿養子。いずれは病院を継ぐことが約束されてた」
「その人のこと、好きやったん?」
 顔をあげた母は眉を吊り上げて首を振る。
「看護学校を出たばっかりで世間知らずやったから、好きかどうかよりも不倫いうのに舞いあがった」
 ほんまにあほ、と肩を落とす。
「三十半ばの男にとったら新人看護師を手玉にとるのなんて手術一本こなすよりたやすかったんやろ。奥様が妊娠してはって、性欲のはけ口にされたんやね。ばかな小娘は不倫いう言葉に踊らされ、ドラマみたいやって有頂天になって好きいう気持ちと掃き違えた」
 あれほど言い渋っていたのに、長年つっかえていたものをぽろぽろと吐き出す。
「あたしが不倫してるのを母さんが知ったらどんな顔するやろ、抱かれながらそんなこと考えてた」
 なぜそこで祖母の久乃が登場するのか。屈折した心理がわからず、母親のセックスの告白に桂子は顔がほてる。
「妊娠がわかったときも、どないしよって慌てるより、これで母さんを困らせられるって思った。母さんが泣き崩れて、父さんがうちを張り倒して。ドラマみたいな修羅場を想像した」
 ほんまあほ、また自嘲する。
「娘を放ったらかしにしたから、こないなことになったって嘆けばええんやって。幼稚な感情をこじらせて、ほんまあほ」
 符丁のように「あほ」を繰り返す。
「命にたいしてこれほどの冒涜はあらへん。ごめんな、ほんまひどい母親で。ごめんな、かんにんな、ごめん……」
 唇をひきつらせ謝罪の言葉を重ねる。夫から渡されたハンカチはくしゃくしゃだ。
「その人に妊娠を言うたん?」
「言うたよ。ぼくの誘いに簡単に乗ったくらいや、他にも男がおるやろ、ぼくの子やって証明できるんかって。医者やのにDNA鑑定を知らんのかって内心で毒づいてたら、机から紙を出してなんか書きだした」
 苦々しげに口をゆがめる。
「八坂から岩倉まで身重で通うのはたいへんやろ。七条の病院に紹介状書いてやったから、ここに移るとええ。ぼくから連絡しといたるって恩着せがましく言うて。紹介状をうちの胸ポケットに無理やりつっ込むと、すぐに内線で婦長に『小菅さん辞めることになったから手続き頼むわ』って」
 頭が真っ白になった。不倫をスタイルみたいに楽しんだ代償がこれかと、ようやく万季は自分の愚かさと事の大きさを理解した。悔しかった。でも、それ以上に自分に吐き気がした。
 帰宅後すべてを打ち明けると両親は一瞬顔を見合わせたが、
「あら、まあ、あたしおばあちゃんになれるのね」
 母の久乃が微笑んだ。万季は号泣した。

(to be continued)


第9話に続く。

 


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