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目指せ、新人類(新人類宣言)

こんにちは、木月まことです。

時代は複雑さを増しています。

居場所がない
パワハラ・カスハラ
毒親・毒子息(?)
貧困
コンプライアンス

問題が噴出しています。

そこで、新人類に生まれ変わるしか手がないのではというはなしを今日はしたいのですが

新人類云々のはなしをする前に、まず今日の世界の様子とその問題をはなします。
そうしないと、新人類を目指すというはなしが分からないからです。


ではまず、今日の世界のはなしになります(日本のことですが)

昔、隣人との同一性の担保は、『ドラえもん』だとか、流行りのJ-POPだとか、あるいは『サザエさん』だとかでした。

いまでも『鬼滅の刃』とか『呪術廻戦』とかいろいろすごい作品が目白押しですが
でも、『サザエさん』や『ドラえもん』ほどポピュラー(誰でも知ってる)にはならないというか……
いや、正確には、『サザエさん』や『ドラえもん』もよく知らないみたいな世代がYouTubeやTikTokなどのメディアの興隆できているのかもしれません

いま、隣人との共通点の担保は、これらのカルチャーの領域ではなく
政治や立法、あるいは何らかの制裁に関するはなしばっかりです。

たとえば、同意に基づく性行為に関する法律が審議されてますが
ある男女が行った性行為に対する解釈は、男女で別なものになることもありますし
記憶というのは、あとで解釈がよいほうにも悪いほうにも変わるんです。
たとえば、僕も、スーパーで接客を10年以上やってましたが
まぁ、悪いことしか思い出さないです。
そういう意味では、僕は被害者になりうるんですが
僕の接客を受けたお客さんのほうも、被害者になりうるし
全部の接客シチュエーションがそんなに苦々しいものだったかといえば、当然そんなことはありませんが
僕が、万が一原告席に立てば、僕とかかわったお客さんは、全員加害者になりえます。

政治や立法のはなしというのは、すべてのことが苦々しいことだったとしないと成立しないので、そんなことは余程の例外を除きまずないのですが、はなしは複雑です。

つまり、『ドラえもん』や『サザエさん』といった、幸せの記憶で隣人と接点を持つことが難しい時代になり
どこかに被害者がいて、被害者が一方的に加害者をまくしたてて権利を主張して、それを庇護する新立法が審議されるという、直接関係ない人には不愉快なはなしでしか、隣人との接点はないんです。
もちろん、被害のカミングアウトは不愉快だからやめてほしいと言ってるのではなく、その種の話題が噴出するだろうということです。

庇護する新立法は、かなりややこしい問題を生みます。

法律ではなく、コンプライアンスですが
たとえば、ある女優さんが
映画でヤクザが車に乗るときシートベルトを締めなければいけない業界のコンプライアンスに嫌気がさして引退したはなしがありましたが
何かの権利を庇護する新立法は、しかたがないにせよ、かわりに別の問題を生み出します。

その女優さんは、業界を離れて生きることを選択したわけです。

かなりの人が、『サザエさん』や『ドラえもん』を見ていたしあわせな時代は過去のものになりました。

僕だって、接客の苦痛をカミングアウトして、公の承認を受ければ
もしかすると、商業施設に来るお客さんに
「店員をいじめてはいけません」みたいな法律なりコンプライアンスの樹立を志向して、公権力の立法措置を頼りにした、お客さんの行動を厳しく制限する法律の樹立を目指すことだって不可能ではないかもしれません。

でも、それ実現したらどうでしょう?

黙っていればいいんだ、などとも言いませんが
ある苦痛のカミングアウトを庇護する立法がどんどんできることは
直接はそれに関係のない人にも罪の意識を植え付けてしまい
日本人全体の自己肯定感が爆下がりするかもしれません。

もちろん、日本人全体の自己肯定感が爆下がりしないために
非常な苦痛を受けた人が口を噤むべきだといってるのではないんです。
カミングアウトが解決になるというのなら、それは試みられるべきでしょう。

行政は、カミングアウトに対して、庇護を推し進めるでしょうし
それはいけないことではないのでしょう。
ただ、映画でヤクザが車にのるときに……とさきほどいったような
幾分ビミョーな別の複雑な問題を生んでしまい
結果的に社会の不快指数が上がってしまうことも考えられます。

いや、行政の庇護をあてにせず、苦痛をこらえて、自己責任でひとり孤独に乗り切れと言ってるわけでもありません。

ただ、『サザエさん』や『ドラえもん』といった共通の楽園が失われてしまった私たちには、罪や苦痛を生み出す問題しか隣人と共通の媒介がなくなることも考えられます(趣味の世界とかを除けば)

こうなると、カミングアウトとそれに基づく、庇護立法の樹立にも、それが当面仕方がないとはいえ、ある限界が見えてきます。

わたしたちの世界からは『サザエさん』や『ドラえもん』、あるいは、昔の世代の、ビートルズやマイケルジャクソンといった、しあわせなエンタメやサーカスは失われてしまいました。
YouTubeの面白エンタメなんか、職場の人はほとんど知らないでしょう。

多分、これからの世界は、カミングアウトに基づく利権の争いが増えそうな予感があります。
世界の常識は、カミングアウトして覇権を握った利権に彩られるのかもしれません。

こうなると、立法措置みたいな共通性に期待して生きるより
もしかすると、それぞれが「新人類」としての、幾分の自立を志向するしかないのかなとも思います(100パーセントのまったき自立ではありませんが)

それぞれが「新人類」として、「生」を模索していくしかない時代がしばらく続くのかもしれません。

「幕府」や「大統領」みたいな巨大権力によりかかって生きたいな……というのが人情だとは思いますが
それがどうなってるのかは、ご存じなハズです。

スマホやキャッシュレスやGPSなどによって、どんどん無機質な統一が進んでる今日に
「新人類として、それぞれが自立だとぉ~?アホじゃねぇのか!」という意見もあるでしょう。

この「新人類」という楽観(?)が、はたして、僕の個人的な朝の発作なのかよくわかりませんが
これから噴出するであろうかなり特殊なカミングアウトに対する、たとえば、同意に基づく性行為の立法みたいな庇護立法が、大多数の人のしあわせに直結するのかは個人的にかなり疑問なのです。

そうすると、ぞれぞれが「新人類」を目指すしか手がないのでは?と思うこともある昨今です。

旧式利権や旧式の世界観やそのやり方のすべてがいけないなどという極端なことをいうつもりはありませんが
いろいろな綻びが生じているのも確かであり
個人個人もある程度、生き方を変える必要がでてくるのかもしれません。

もちろん、多分、「新人類」みたいな考えにも限界はあるのでしょうが

以上『目指せ、新人類(新人類宣言)』でした。

(あとがき)
で、ようするに「新人類」って、その中身はなんなのよ?って聞く人もいるでしょう。
僕もよくわかんないし、これが「正解」だというような、唯一の「解」もないのではないでしょうか?
唯一の「解」を求める姿勢が、結局、同意に基づく性行為がどうのとか、立法が男女の枕元まで介入してくる今日の不思議な(?)世界をつくってしまったのかもしれません。
カミングアウトとそれに対応する庇護立法の世界は、結局、カネ・コネ・嫌がらせ・脅しみたいな旧式の世界と手を切れないのではと思うこともあります。

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