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人間であることにくたびれて

多分、人は、人間であることにくたびれてしまったのかもしれない

ひきこもりや不登校は、その空間である人間性の発露が難しくなったていうことだ

40過ぎて、パートナーなし、所帯なし
年収250万以下とかだと、よほど生活に楽しみが多くないと
人間をやる理由がだんだんわからなくなってくるのでは、と思うこともなくはない

もちろん、自殺や犯罪などの反逆が増えなければいいなとは思うけど

配偶者や子息がない人が、15年とかそれ以上、性的接触なしに、今日の厳しい生産社会で踏ん張れるものなのかは疑問に思うこともあるけど(よほどやり甲斐のある仕事や趣味がない限り)

人は、人間であることに、いよいよくたびれ始めたのでは?

ひきこもり
ウツ
出社拒否

人は、人間であることにくたびれてきたのだろう

性被害を始めとする被害の告発で、人間であることの難易度は爆上がりしている
しかし、被害を受けた人に黙っていろというのでは、それも人間であることの難易度があがる

自分は、2浪したけど(宅浪)奨学金を得て進学した
若いころは、もっと上にいけるハズみたいな思い込みがあった。

しかし、40近くから、それ以降は、それが大誤算だったことに気づき
前科者というわけでもないのに、かなりしんどい思いをしている
いや、20代の大半がひきこもりだったので、かなり早い段階で挫折していた。

自分は、経済社会で要領よくやったりする才を根本的に欠いていた。

自分のまわりには、同じようなジレンマを感じている人か
まったく楽天的で、気休めばかりを言う人のどちらかが集まっている

高度文明社会で、人間であることにくたびれて、何らかの失調をきたしてる人に一旦「ひきこもれ!」というのは、ケースにもよるが、多分正しい
鍛えることによって乗り越えても、外界は大した報酬を用意できない

メジャーリーガーが報酬を独占する一方
庶民は、物価高の牽制を受けて、しかも給料が伸びない

資本主義文明に、勝ち負けという比較によるコントラスト(分断)が生じるのは、ある意味仕方ないこと
勝ち負けという差異が、資本の原動力で
これがないのは、たとえば共産(思想)なのかもしれない

1990年ごろの、東西ドイツの統一や、中国の天安門事件、旧ソ連のペレストロイカなどは、全部、共産思想(社会主義思想)の敗北と受け止められた
しかし、資本主義(勝ち負け比較市場主義)が勝利したのかはなんとも言えず
庶民にSNSという空間とスマホが与えられると、この勝ち負け比較は激化した。

こんな空間で、人間であることにくたびれてきた人が増加してるのは、仕方ないこと

性被害の告発は、仕方ないことではあるだろう
しかし、性の場というのは、ある程度、自己解放でなければ意味がなく
相手からまったくクレームがこないよう、細心の注意を払う必要があるのであれば、それは、性というより、ホストかなんかの顧客商売と似てる
こんな残酷な構図で、人が人間であることにくたびれて、朝から晩まで部屋でゲームに興じていても、全否定しにくいなにかがある

僕を含む、氷河期世代の、半分失敗したかのような人の何割かは
それでも、孤独な環境の中、それぞれのやり方で、人間であろうとするのかもしれない
逃げ切り世代と揶揄されることもあるけど
従来式ではもう乗り切れない状況の中で、所帯もパートナーも友達もいるのかいないのかよくわからない状況の中で、疲れた身体をひきずって、それでも生きてる

こんな状況を見るにつけ
ある見えてくる現実は
世代によらず、かなりの人が、人間であることにくたびれてるということだろう


ここまで読んでくださりありがとうございました
長い文でくたびれました?
御託を聞いていただきありがとうございました。

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