【雑感】懐疑主義的態度、批判的思考の良し悪しと読者がそれをどう捉えるか
◆ 私の文章ってそんなに"シリアス"なのかなあ?
完全に昨日ポストしたツイートまんまの手抜き記事だが、最近、自分の書く文章とそれを読者の方がどう捉えるかに関して、少し思うところがあったので、簡単ではあるが、私の思いを吐露させていただく。一部の読者さんから頂いた感想というか助言みたいなモノは、私のことを思いやって言ってくださっている部分と読者としては、「こんなあなたは見たくない!」という気持ちが綯交ぜになった結果、出てきたモノだと私は考えている。もちろん、ご厚意には大変感謝している。ただ、私の文章に対する"アティチュード"というか、心構えのようなモノも多少ご理解いただきたいと思って、今回この文章を投稿する。まだ、読者数の少ない、吹けば飛ぶ塵ようなアカウントが、「こんなことを述べるのはどうなの?」とか「なんかせっかく読んでくれている人に意見(というか主張)のようなモノをするなんて、生意気じゃない?」と思う方も居られるかもしれないが、私は、これでも結構こだわりを持って(良く言えば、自分なりの信念をもって)文章を書いているつもりなので、生意気にも一言述べさせて頂きたい。以下、私の思うところを正直に述べたモノだ。昨日のツイートを元にしている。
たしかに私は「双極性障害」という病気を抱えていて、特に最近は「躁」と「鬱」が激しく入れ替わる「混合状態」と言われる状態にある(これは、医師や家族からも指摘されたから、第三者的に見ても、そういう状態のようだ)から、「躁」によるある種の衝動性や怒りのエネルギーが爆発して、重たい記事を量産することもあれば、「鬱」により何もやる気が起きなくなって(「起きなくなって」というより「湧かなくなって」という方が適切かもしれない)、まったく文章が書けないし、インプットもできないし、ただただ、「自分はどうしようもない人間だ」「生きているのが苦しい」「今消えた方がラクなのでは?」という思いに脳が支配されることもある。
そういうわけだから、実際に苦しいことがあるのは、確かである。それについて、文章で吐露することも度々ある。だから、前述の読者さんのご指摘は正しい部分もある。ただ、私の文章全体に占める割合として、そういった「苦しみの吐露」が大きな部分を占めているか(特に最近)というと、「別にそんなことはないだろう」というのが、私の思うところだ。意外と私の文章というのは、(後でも言及するが)その筆致のせいか、シリアスに捉えられることが多いと思っている。
たとえば、最近、『無の境地に至りたい』という記事を書いたが、あれは「もう最近苦しいから『無』になりたい」という意味で書いたのではなく、「ポジティブ最高!!」という世の中の風潮に対して、「いや、ポジティブな状態よりも『無』の状態の方が心的態度としては理想なんじゃないの?お釈迦様もそう言ってるし……」という意味合いで書いたモノである。「そういう『無』の心理状態に自分も到達したい、近づいてみたいな」という思いを込めて、あの文章を書いたのである。だから、決してネガティブな感情が元になった記事ではない。実はね笑。
感情に激しい波があるのは病気の性質上、普通のことだし、私にとってはあれが「平常運転」だ。事実、苦しいことも多いし、「救われたい……」と思わずにはいられないことも多いが、そういう病気だと思って一生付き合っていくしかない。基本的に「完治」はしない病気だから。「寛解」には持っていけるが、常に「再発」のリスクを考慮して、生活を組み立てていかなければならないのはたしかである。
◆私は良いモノは良いと言うし、悪いモノは悪いと言います(「批判」はOKだと思ってます)
あとは、私の考え方のクセなのかもしれないが、「懐疑主義」的であって、人が言ってることに対して、「それってホントにそう?こういう考え方もあるんじゃない?」というつもりで発した言葉が「他者に対する攻撃」と受け取られることが多いんだよね……。これは私にも気をつけないといけない部分があるが、悲しいことだなと思う。
このあと、私は他人の文章について、批判と称賛の「両方」をツイートした。率直な言葉で。
まず、批判的な方から。
次に称賛の方を。
このように、私は「良いモノについては良い、悪いモノについては悪い」とわりかしハッキリと述べてしまうところがある。その際に、たぶん人間というのは、ネガティブな情報の方を強く脳に刻みこむのだろう。流している情報が、ポジティブとネガティブが1:1という比だと、読者の印象としては「この人はネガティブな文章が多いな……」というモノになるだろう。ポジティブ:ネガティブ=5:1くらいでないと、「この人はポジティブだなあ、気持ちが良い!」という心境には至らない。だが、残念ながら、これは私にはどだい無理な話だ。
◆「批判」を完全に排除しようとすることへの疑問:「馴れ合い」はあまり好まない私の性向
これが私の言いたかったこと、人の目につくところで何か書いたり、言ったりすれば、そりゃ良く思う人(賛同する人)も、良く思わない人(賛同しない人)もいるだろう。だけど、「賛同意見以外書くな!」と言って、非賛同者を言論の場から、追い出そうとする人たちがいる。そこは、否定的な意見も理性的に述べられているのであれば、受け止めて、「イヤだなとか、これには私も反論がある!」と思えば、抗弁すれば良いだけの話だ。以前、「『ロジハラ』の何がいかんのか説明しよう!」という記事でも、述べたとおり、相手に「反論可能性」を与えないとダメだ。上述の「ポジティブな意見しか受け付けない(ネガティブ派の意見を封殺する)」というのは、それこそ『ロジハラ』的態度だと私は思う。
◆私が否定的なこと"も"述べる理由
そして、なぜ私が否定的な意見も述べるのか(もちろん、「良いモノは良いと言う」というのは先ほど述べた)、一応、こう自己認識している。
ここに私の本質的なところが集約されていると思う。私は自分も他者もできるだけ第三者的視点から見て、モノを考えたいと思っている。たとえば、ある二者間で何か諍いが起こったとしよう。そういったときに、どちらか片方の言い分を聞いて「そうだね!あいつ(もう片方の当事者)酷いね!」と同調することは、ほぼない。基本的には「相手の言い分も聞かないとわからないね」と言ってとりあえず、態度を保留して、もう一方の当事者からも話を聞く。
さらに、それだけでは、問題の当事者たる二者の主観的判断のみが、私の判断材料になってしまうので、可能な限り、当事者である二者の友人や知人(目撃者が居れば目撃者)という第三者に詳しい事情を聞く。そこに、自分の想像や斟酌(当事者の内心・立場の想像)を加えて、(ここまで情報が集まってはじめて)総合的に「Aさんには◯◯という落ち度があるが、△△については仕方がない。納得できる。Bにはそのことについてはキツくいっとくわ」「Bさんには□□という落ち度があるから、そこは反省するように。ただし、◇◇という事情は斟酌できるから、これは仕方がない。Aさんにも事情を話してきちんと説明しておくわ」というような判断を下し、仲裁に入る。
こういう形で仲裁に入ったことは何度かある。大学時代に数回と研究室時代にも数回。「なんでも第三者的視点を取り入れよう」というのが、私の基本スタンス。主観的すぎる情報のみを判断材料とすることはあまりしない。聞いても話し半分程度で聞くことが多い。
冒頭の「私は自己批判の塊だ」というのは、これまで私の書いてきた文章を読んできた皆さんならすでにご存じだろう。『才能のない自分がつらい』の記事なんかを読んでいただけるとよくわかると思う。だが、私の性格上、自分に対して向ける批判的な目を他者にも同様に向けてしまうというところがある。それが、先ほどの「他者への批判的な言動」や「『批判態度を許さない』という態度を許さない」という発言に繋がる。
自己批判はよくしているが、昨日のツイートでも「自分の文章」に対する批判を述べている。
要は、自分の文章は「帯に短し襷に長し」だから、誰にも届かない。そういう話をしている。こういうことをほぼ毎日(というか、毎時間)考えている。もうクセみたいなモノだ笑。
◆「批判」とは何か?今一度考えてみよう!(「非難」や「中傷」、「誹謗」との区別と守るべきルール)
そもそも、「批判」という言葉には、「相手を感情的に、根拠なしに否定する」という意味は含まれていない。以下、「批判」という言葉の定義。
第三義は、哲学用語なので今回は言及しないとして、私は普段、第一義で使うことが多い。ちなみに、前段のコンテストのお手本作品への「否定的なコメント」は「お手本は、テンプレに沿いすぎていて、オリジナリティを欠くし、オリジナリティの欠如を補完する要素も見当たらないから、文章としてはクオリティが低い」という、ダメな理由を添えて述べた私の「判定・評価」だから、「批判」にあたると思っている。
たぶん、世の中の多数派の人は第二義で使っていて、しかも若干意味を誤解して捉えているのではないかなと思う。たしかに第二義には、「人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し」というように、他者の誤りや欠点を指摘するというニュアンスが含まれている。しかし、そのあと「正すべきであるとして論じること」とあるように、議論によって相手の間違いを正すように指摘するという意味合いである。議論によって相手の誤りを指摘することは、それが「非難」や「中傷」にならず、「相手に『反論可能性』を与えて」行う以上は、やっても構わないというのが、私の考えだ。
そもそも第一義にもあるように、「批判」というのはもともと、「2つ以上のモノを比べて、評価・判定すること」という意味合いが強くて、そこに否定的なニュアンスはあまりない。
仮に第二義のような否定的なニュアンスを含んでいるとしても、議論というきちんとルールが決まったリングの上で、ルールを守って、お互いの良くない点を指摘するというのは、決してネガティブなことではない。自己研鑽にも役に立つ。私も研究室時代や会社員時代に散々「議論で」ボコボコにされた。それも大半は今の私の糧になっている。力になっている。私を磨いてくれたと思っている。だから、「批判」を決して悪いモノだと思わないで欲しい。私が何かズレたことを言っていたら、臆せず「それは違いますよ!」と指摘してほしい。ルールを守ったうえでね笑。それで、納得がいかなかったら、私も抗弁するかもしれないし、納得したら「あなたの言う通りです。ご指摘の部分は改善するよう善処します」となるだろう。お互いに理性的に話をすれば、ケンカになることはたぶんない。
「批判」するときに守るべき「ルール」について少し触れたが、ここで、「批判」とは区別するべき「非難」と「中傷」そして「誹謗」についても、定義を挙げておく。
「非難」の定義には、「論じる」というニュアンスが抜けているし、「責める」というニュアンスが加えられている。「批判」というともう少し「冷静に相手の誤りや欠点を議論の手続きを経て論理的に指摘する」というニュアンスが含まれているが、「非難」にはそういったニュアンスは含まれていない。どちらかと言うと「感情的になって相手を責め立てる」というニュアンスであるから、これは避けるべき行為だ。
「中傷」の定義には、「根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること」とあるが、これは行きすぎると「名誉毀損」となって、普通に訴えられるレベルの行為となってしまう。これも当然、避けるべき。
「誹謗」の定義には、単に「人を悪く言うこと」としか、書かれていなくて、その手段や根拠のあるなしについては触れられていない。ここには、「根拠のない人格攻撃」なども含まれるわけなので、当然やってはいけない。
このように、「批判」と混同されやすい、「非難」、「中傷」、「誹謗」について、「批判」はOKだが、「非難」、「中傷」、「誹謗」はNGだということについて述べた。他人に何か否定的なことを言うにしても、きちんとルールを守って言うことが大事なのだ。このルールを守れずに「批判」が、実質、「非難」や「中傷」や「誹謗」になってしまう人が結構たくさんいるから、「批判」という言葉に悪いイメージがついてしまうのだと思う。まあ、そんな感じで、私は誰かを「批判」する文章は書くかもしれないが、「非難」したり、「中傷」したり、「誹謗」したりする文章は書かないことにしている。
◆私の文章のクセ(筆致)と読者への受け取られ方について思うところ
最後に私の文章のクセと受け取られ方についての、私の愚痴(笑)でも置いて去っていこうと思う。これも正直な気持ちだ。
なんだか、noteでも実際のコミュニケーションでもそうなのだが、みんな私の言うことを真に受けすぎである(笑)。たぶん、私の普段の振る舞いを見て、「コイツは冗談とかを言うタイプではない。全部真面目な話なんだ……」と思わせてしまっているのかもしれないが。自分の自然、ありのままを表現するとシリアスな筆致になるし、シリアスな言葉に聞こえてしまうようだ。
ここは、私が自分の書いた文章を読者に肩肘張らずに読ませるだけの表現力が欠けているという問題もあるかもしれない。私は、「自分の文章や発言が読者や聞き手にどういう心象を抱かせるか」までコントロールできる技量と表現力を身につけたい。これには、まだまだ時間がかかりそうではあるが笑。
この話も、皆さん、あんまりシリアスに捉えないでもらいたい(笑)。「ああ、これがコイツの表現の"クセ"なんだなあ」くらいに思っておいて欲しい。私が読者に力ませるような文章を書いているせいなのかもしれないが、読者の皆さんももっと肩の力を抜いて(笑)、私の文章を読んでほしい。そんな感じで、今日はお暇させていただく。ここまで読んでくれてありがとう。
〈追記〉「懐疑主義」と「批判的思考」について
「懐疑主義」と「批判的思考」について、Wikipediaで調べてみたら、こんなモノが出てきた。
こちらの定義は『哲学的懐疑主義』であって、私の態度とは少しちがう。どちらかというとこちらの『科学的懐疑主義』にちかい。
どれだけ権威のある人が言ったことでも、あるいは無名の人間が言ったことでも、同じように前提や根拠から「本当に正しいの?」と疑ってかかるという意味では、『科学的懐疑主義』の定義が私があろうとする態度に近い。しかし、実際には「権威」が大事である。あとで、例を挙げながら、話をする。
そして、「批判的思考」について。
一文目の定義については、広義というか、「問題を特定して、適切に分析」するための手法はいろいろあるので、何とも言えないが、私は基本的にはあらゆることを疑ってかかるように意識をしている。たとえ、それが自説に近い主張であったとしてもだ。そうやって、「物事の問題を特定して、適切に分析」しようと試みる。
太字にした部分の2つめ、「単に否定的になるのではなく、自身の論理構成や内容について内省することを意味する」とあるが、他人の主張に対して否定的になることはあるが、同じ目を自分にも向けるという話はもうした。
「考察対象をよく理解する」ことは、できないこともあるが、できるように努めている。
「間違った推論を起こす暗黙の前提を明らかにする」ことは、論の前提が正しいかどうかを省みるという話は以前、『ロジハラ』について語ったときに述べた。これもできているかどうかは別として自覚的ではある。
「証拠について評価したり、循環論法や人身攻撃など論理的な誤りを避けるための誤謬についての理解」
これ、微妙だなあ……。正直に言って、完璧にできている自信はない。「証拠(エビデンス)についての評価」は、研究室時代に何度もやらされたので、習慣としてある程度は身についていると思うし、「循環論法」は、「証明すべき結論を前提として用いる論法」で、高校数学で習うから、やってはいけないことだということは知っている。とはいえ、知らないうちに「循環論法」になっていることがあるかもしれないので、そこは要注意だ。
「人身攻撃」は、「ある主張に対して、その主張自体に反論するのではなく、主張した人の個性や信念を攻撃すること」だが、いわゆる「人格攻撃」というヤツだ。これは、平静時なら、絶対にやらないが、「躁」に入って攻撃性が異常に高まった状態のときに、たまにやってしまう。私の悪いクセだ。
まあでもどうだろう?総じて、「批判的思考」ができているかは別として、「批判的思考」をしようとはしているという意味で、態度としては、「批判的思考」"的"なのではなかろうか。そもそも、「あなたは『批判的思考』ができていますか?」という問いに対して、「はい!できています!」と自信満々に答えるヤツは、「批判的思考」ができていないのではないか?
内省ができていないという意味で。
話を『科学的懐疑主義』に戻そう。先ほど、
と述べた。世の中の多数派の人間にとっては、「科学的懐疑主義」によって吟味された結論よりも、「権威」の方が大切であるという話。
悪い例に出して、申し訳ないが、某メンタリストのDさんなんかは、「権威」をうまく使っている人の代表だと思う。
彼はしばしば自分の説の根拠として、論文を援用する。これ自体は構わない。しかし、彼はたった1つの論文をもって「これが正解だ!」と言い切るような表現を多用する。おそらく、その方が説得力が出るからだろう。
皆さんご存じだと思うが、論文というのは(他の論文のレビュー論文を除いて)仮説の検証結果の1つに過ぎないわけで、絶対の真理ではない。
「反証可能性」というのは、科学の要件の1つで、ある論文で主張された内容が絶対真理で反証不可能なモノだと言うなら、それはもう「科学」ではなく、「宗教」である。いうなれば、「ドグマ」に近い。
彼のやっていることは、それに近い。以前、彼がYouTubeで「学校の宿題には学習効果がない(ほぼ言い切り)」という主張をして、その主張の補強のために、1本の論文を引用してきた。しかし、その論文の原著を読むと「宿題には学習効果がない」という記載は一切なかった。要するに、彼は論文を読んでいないのだと思う。
そりゃそうだ。普通にある主張を支持する論文(しかも、専門外のモノも含まれる)を見つけてきて、それを読んで、ちゃんと理解して、動画で喋る内容をまとめて、実際に淀みなくプレゼンするなんてことが、毎日できるわけがない。できたとしたら、彼は天才か何かだと思うが、たぶん違うだろう。一時期テレビにたくさん出ていただけあって、喋るのはかなり上手だとは思うが。
彼には学術面でのサポーターがいるらしい。たぶん、その方がDさんの代わりに論文を読んで、その要約をDさんに伝えているというところではないだろうか?その伝達がその回はうまくいかなかったのではないか。
彼は「権威」を本当に上手に使う。彼のYouTubeを見ると、背景には綺麗に整理された学術書の類いが並んでいる。一見すると、「この人はすごい読書家で頭が良さそうだ」と思えてくる。
しかし、私が思うのは、彼の本棚からは、まったく本好きのニオイがしない。本が好きな人の本棚(というか部屋)を見たことがある方なら、わかると思うが、あんなに綺麗に整理整頓されていない。雑然と大量の本がうず高く積まれている。私の父がそうだった。
本好きの全員がそうなるとは言わないが、Dさんの本棚は、アレは、完全に「人に見せる用」の本棚だ。要は、「演出」である。自分が賢い人であるという「権威性」を自分に付与するための。だから、私はあの人の話を話半分で聞いている。正しいこともあるかもしれないなあ……くらいの気持ち。
そんなわけで、「権威」が世の中の人にとっては、めちゃくちゃ大事なので、本当に権威をもつ「ホンモノ」以外は、どれだけ「権威」を演出できるかというのが、人に話を聞いてもらうために重要になってくる。先ほど、こんなツイートをした。
2つめのツイートの太字にした部分は、「ホンモノ」の「権威」をもっている人に当てはまる話である。
私は「ホンモノ」になりたいなあ……。分不相応な望みだけれど。
〈さらに追記〉記事執筆後の議論について
記事執筆後に、コメント欄に頂いたコメント(ご見解)を発端にして起こった議論が、大変興味深く、有意義なモノだったので、こちらにも転載させていただきたい。コメントをくださったのは、こちらの方。
彼はumomoさんという方でもともとVtuberという共通の趣味を通じて仲良くさせていただいている(と言ってもいいのかな?笑)。最近は、麻雀にご執心のようで、麻雀記事をたくさん書いておられるので、興味のある方はぜひ。実は今回、記事冒頭で話題に出した読者さんは彼のことだったのだが、今回非常におもしろいコメントをくれた。
彼とコメント欄でした議論が非常におもしろいモノだった。以下に掲載する。
「批判」と「非難」の細かいニュアンスの違いを受け手が汲み取るのは、難しいのではないか?というご指摘はその通り。特に、相手の人となり等がわかっている者や議論に慣れている者を相手に批判する場合は良いが、はじめて会う人等と議論するときは気をつけた方が良い。自分が考えている以上に、相手が言葉をキツく捉えてしまう可能性があるから。
だから、相手の行動に何か変容を起こしたいのなら、「説得」や「諭す」という手続きを取った方が良いのではないか?というのが、umomoさんのご意見。こちらに関しては、私は少し違う見解を持っている。
「批判」というのは、言葉を選ぶ必要こそあれど、議論の広がりという観点においては、必要なモノだと考えている。「説得」や「諭す」というのは、ある人が説得/諭される相手に対して、その人が思う「善なる方向」へ相手を導くために説き伏せるという意味合いが強い。だから、向かう先(結論)は1つだ。
しかし、「批判」の場合は、「複数のモノを比べた」結果、下された評価・判断を互いにぶつけ合うことで、様々な方向へ議論が展開していく可能性を秘めている。つまり、向かう先(結論)は様々である。「批判」もうまく使えば、議論の広がりを作ることのできる大切なツールですよというお話をさせてもらった。
もちろん、向かうべき方向が1つに決まっていて、そちら側に相手を導いていく場合、「欠点や誤りを指摘する」という過程がどうしても含まれてしまう「批判」より、「説得」や「諭す」方が穏便に事が進む場合が多いし、議論に慣れていない人や相手の言葉をキツく捉えてしまう傾向のある人に対しては、「批判」は好手とは言えないかもしれない。相手を選んでやる必要がある表現なのは間違いない。
しかし、「批判」をうまく使えば、発展的かつ建設的な議論をつくっていくことも可能であると私は考えているし、「批判」の意義は、そこにあると思っている。
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