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宮崎駿「君たちはどう生きるか」 2023年 スタジオジブリ作品 を観て少し考えたこと

この作品は、宮崎駿が10年ぶりに世に送り出した長編アニメーションである。宮崎駿が長編作品の制作をやめると宣言していたことは思い出せたが、それが「風立ちぬ」であり、それからもう10年も経っていたことは、驚きを持って気付かされた。

今回の作品「君たちはどう生きるか」は、前評判もあまり立っておらず、いつの間にか公開が始まっていたように思う。我々の世代でこのタイトル「君たちはどう生きるか」を吉野源三郎の名前とともに思い起こさない人間はいないだろう。当然、この作品に基づいた内容、すなわち、次世代の若い人たちに向けたメッセージを想定するし、この世界を、ある意味で”よい方向”に変えてきた「知の巨人」からの、この世界への置き土産的な、強く明確なメッセージ性のある作品を自然に想像していた。言い換えると、自分のようなすでに旧世代に属する人間に向けられた作品ではないと無意識に思っていた。私はジャンルにこだわらずに年間100本以上の映画を見ている映画ファンではあるが、この作品は私の世代には無縁に思えて、当初はあまり関心がなかった。

今回、この映画を見に行こうと思い立ったのは、宮崎駿の次の世代を代表する世界的なアニメ作家の地位をすでに確立した新海誠の最新作で、昨年2022年末に公開されて大ヒットした「すずめの戸締り」を観たこと、そしてその後、遅ればせながら芋蔓式に彼の作品を鑑賞したことがきっかけだった(このことについては、追って拙文を投稿したい)。

日本だけでなく、世界中の現代アニメ作家で、宮崎駿の影響を受けていない者はいないはずである。その巨匠が、前言を翻しても新たな長編作品を、それも、極めて教訓的な内容を想起させるタイトルの作品を、次世代のトップランナーである新海誠の作品の公開から半年後に、ひっそりと公開するという手法にも自ずと関心が湧くようになった。

「すずめの戸締り」は5月末に全国上映を終えていた。「君たちはどう生きるか」は、そのあと7月中旬に公開が始まり、私が観た時はそれから5週間が経っていた。東京の大きなシネマコンプレックスでは、まだ1日3−5回の上映が行われていた。平日の一回目の上映を観に行ったが、観客はおよそ二十人程度。観客動員の点からは、大ヒットとは言えない様子だった。

出だしからすぐ、この作品は、吉野源三郎の著書「君たちはどう生きるか」の内容に沿った作品ではないことに気付く。あとから分かったことだが、原作・脚本ともに宮崎監督のオリジナルストーリーで、宮崎監督が少年時代に読んだという、吉野源三郎の著書「君たちはどう生きるか」から”タイトルを借りた”ものであった。それよりむしろ、観ていて、すぐに「千と千尋の神隠し」(2001年)が思い浮かんできた。「千と千尋の神隠し」は、それ以前も以降も含めて、宮崎駿作品の中で、初見の印象が圧倒的に強烈な作品であったことも思い出していた。

時代は先のアジア太平洋戦争の只中。主人公の少年眞人は、火事で母親を亡くした後、父親に連れられて、疎開する。そこで、新しい母親、すなわち継母となる若くて美しい夏子に優しく迎えられる。そこは謎めいた屋敷であることがわかってきて、言葉をしゃべるアオサギが出現する。そのアオサギから、この世界とは別の「異世界」があり、母親は死んだのではなくその異世界で暮らしていることを示唆される。継母となった夏子は火事で死んだ母ヒサコの妹であることが明かされるのだが、その夏子もある日森の中に姿を消す。眞人は、アオサギに導かれて、二人がいる「異世界」に入る。ここから展開が複雑になり、”訳のわからなさ”が膨らんでいく感覚を覚える。夏子に出会えるが、なぜかインコに”幽閉”されているような状態。キリコという若い女性が現れて眞人を助けてくれる。さらにヒミという火の魔法を使う少女の出現・・・
この後、物語の冒頭に、かつて忽然と姿を消したと紹介されていた大叔父が現れる。彼はこの「異世界」の創造者(?)あるいはそれを継承している人物だった。この「異世界」が破滅の危機にあるので、眞人に自分の跡を継いで欲しいという。この大叔父の管理する異世界とはなんなのか、どんな世界なのか、判然としない。ただ、消滅の危機にあるということだけが強調されて伝えられる。結局、眞人は、その要請を、自分にその資格はないと断り、ヒミやアオサギに助けられ導かれて、夏子を連れ戻し、現世に戻ることができる。そうして何事もなかったかのように中断していた元の生活が再び始まる。2年後に夏子は子供を産み、眞人はお兄さんになり、戦争も終わっていて、一家揃って東京に戻るところで終わる。

一体、「君たちはどう生きるか」という”訴え”とどう繋がるのか?宮崎駿は、次世代の日本人、人類に”遺言”として何を訴え、問いかけているのか?

冒頭から、戦争で被災する街と逃げ惑う人々や命を落とす人々の場面から始まる。父親は、兵器を作る軍需産業の末端の事業で、一般庶民に比べて暮らし向きの良い生活をしている。また、そうした立場を特権のように利用し、息子への特別扱いを学校に要求する。どちらの状況に対しても直接的な異議申し立てや批判めいた場面や発言や態度は出てこない(ように思う)。この点に関しては、そうした人物を描くことですでに、異議申し立てをしていることは明らかなのだから、そもそも何も言葉はいらないとも言える。

この世界と異なる世界がある。そこは悪意に対抗する善意でかろうじて成立している世界。その世界の構成メンバーが善意を積み重ねる努力なしには続かない世界。その異界を鏡写しにして、うつつの世界でも、同じように善意を積み重ねる努力をしないと、脆く崩れるものだということを、絵空事でなく、目の前の"現実”であるかのようにアニメの中で経験させることで、気づいて欲しいということだろうか。それでは単純すぎる解釈だろうか。

壮大なスケールで人類の未来の苦難を描いた最高傑作である「風の谷のナウシカ」(コミック版1982-1994;映画版1984)は、その苦難の大きさがゆえに、解決策を提示できずに未完に終わった。「苦難を避けられない人類の未来にどう立ち向かうか」という同じテーマに、30年ののち、再度、そして最後の挑戦を挑んだのだろうか。

いずれにしても、この作品には、多くの謎があり、不可解さを感じずにはいられない。
・火災で死んだ母は、なぜ姿を変えて若い女性の姿で異世界で生きているのか、生きていなければいけないのか?その意図、役割は?
・擬人化されたアオサギとインコの役割。鳥を使ったことに何か意味があるのか?
・大叔父は一体どういう人物だったのか? なぜ異世界の管理者、支配者なのか?
・異世界は突然滅びたように見えたが、なぜなのか? 経緯が判然としない。
・助けに行った眞人を、夏子はなぜ拒絶したのか?
・夏子と母の姉妹の間には、何か秘められた関係があるのか?
・結局最後は振り出しに戻って、母親が変わっただけ(母の妹だから大きな変化とも言えない)で、普通の家族の生活が再び始まる予感。もう一つの世界を救うという大役を断って元の世界に戻ってきて、平穏な暮らしが始まるなら、大志を抱いて世界の課題に挑戦することはもはやあり得ないのではないか?
と、キリがないくらいの疑問と謎が浮かんでくる。

一言で言うと、まるで、宮崎駿の「夢分析」をさせられているような感覚だ。そのわけのわからなさにモヤモヤ感が残る。しかし、そのモヤモヤ感こそが、もしかしたら、宮崎駿が表現したかった、伝えたかった真意なのかもしれない。すなわち、「風の谷のナウシカ(コミック版)」で本人が味わった、この世界の滅亡に直面してどうしたらいいか、結局回答が出せなかったことと同じこと。自分一人の力ではその回答や解決には辿り着けないのだということ。だから、次世代にむけて「君たちはどう生きるか」と問いかけているのか・・・。

謎多き傑作である。

付記:
新海誠の「君の名は。」では、主人公はこの世界の時間を飛び越えて行き来する。「すずめの戸締り」では、並行して存在する異世界への扉を開けて行き来する。宮崎駿の「君たちはどう生きるか」では、やはり並行して存在する別の世界との間を扉を開けて行き来する。「千と千尋の神隠し」でも、異世界へトンネルを通って行き来する。
「時間」と「空間」が、この世を構成し成り立たせる決定的な二大要素であることは、科学で解き明かされたこの世界では、もはや否定し難い常識とも言える。人類の物語の創造の歴史の中でも、多くの壮大な物語(例えば、ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」など)が生み出されてきたし、これからも生み出されていくであろう。そして、その流れの中で、この二人のアニメーション界の巨匠も、アニメーションの特質を最大限活用して、この二大テーマに基づいたファンタジーを生み出してきたし、おそらくこれからも生み出していくであろう。

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