見出し画像

アルベール・カミュ「ペスト」(新訳岩波文庫)を読んで

 定期購読をしている岩波書店「図書」の最新号(2023年5月号)の編集後記にあたる「こぼればなし」の最後に、
◉第28回小西財団日仏翻訳文学賞に、受賞者として三野博司さん、受賞作品としてアルベール・カミュ『ペスト』(岩波文庫)が決まりました。
という記述が目に入った。この一文で、当時知人と行っていたミニ読書会でこの本を取り上げ、強く心を揺さぶられた体験が蘇ってきた。この本が出た当時は、ちょうど新型コロナウイルスの感染が急速に拡大し、世界中がパニックに陥っていた時である。すでに2年近く前になるが、今回は、前述の受賞の報を機会に、その時の感想を紹介したい。なお、読書会では、"パンデミック下の人々の行動を描いた過去の名著"ということで、『ペスト』とともに、ボッカッチョの『デカメロン』も併せて取り上げたので、こちらの感想も加えておきたい。

***
選書の理由:
 新型コロナウイルスによる"想定外"のパンデミックに世界中が混乱し、多くの人命が日々失われる日常が続いている。原発事故による放射能汚染に続いて、ここでも科学技術への過信と信頼喪失に直面し、世界各国は対応に右往左往している。
 コロナ禍の発生する前に、すでに人類の存続を脅かすほど危機的な状況が進行していた地球環境の悪化。それを引き起こした人類の傲慢、強欲な行動が、今回の新型コロナウイルスの感染爆発をも引き起こしたと考えられる。人類は、人類自らが引き起こしたこれらの大災厄を克服できるのか。
 不条理や無力感に襲われる中で「人」は何を考えどう行動するのか、どう行動するべきなのか。「自分」はその時何を考えどう行動するのか。パンデミック下の人々の行動を描いた過去の名著を紐解きながら考えてみたい。

***
一言感想:
『ペスト』
 人は不条理な極限状況に追いつめられた時、深く悩み、苦しみ、考え、行動する。その時、その人の「本性」があらわになり、「審判」が下される。が、その「審判」も不条理だ。

『デカメロン』
 人は、圧倒的な無力さを感じると、その目の前の状況から目を背け、愉悦、快楽を貪ることでしか、生を享受することができないということか。

***
『ペスト』について:
最初、古典的な翻訳本である新潮文庫版を読み始めたが、岩波文庫に出たばかりの新訳版があることを知り、比較しつつ読んでみた。前者の翻訳が翻訳調の固い日本語であること、後者の方が現代日本語の柔らかい調子に訳出されていること、後者には、物語の現場となったアルジェリアの都市オランの略地図や、詳細な訳注がついていることから、後者で読むことにした。

ペストに突然襲われた地方都市で、隔離と孤独という極限状況に陥った人々が、どう生きるか。医師リユーの目を通して、偶然出会った、立場も生き様も異なる個性的な人々の発言と行動が織りなす群像劇が展開する。

誰もが、馬鹿げたこと、災禍など起きるはずがないと考えて生活していた。謙虚さを失って生きていた。この作品が書かれたときは、戦争(第二次世界大戦)のことを暗示しているが、今やあらゆる災禍を包摂する人間社会の真理のように受け止められる。東日本大震災の津波と原発事故も、全くそのまま当てはまるではないだろうか。

「歴史が遭遇した30回ほどのペストの大流行は、1億人近い死者をもたらした・・・。1億の死者とはなんだろうか。戦争が起こり、従軍してようやく、ひとつの死とはなんであるか、かろうじてわかるものだ。そして、ひとつの死は、その死を目撃しない限りなんの重みもないから、歴史上に散在する1億の死骸は、想像の中では煙のようなものに過ぎない・・・」

今日の社会では、交通事故死者x人、年間自殺者x人など、日々、人の死がひとつの数字に化けて多い少ないと無感動に通り過ぎていく。津波被害者の夥しい死体も、ほとんど目撃されることなく、死者1万8千xx人という数字で括られて繰り返し語られる日々があった。死の重みは感じられることなく、裏返しで、生の重みも軽く扱われるようになっている。この状況も現代にそのまま当てはまるではないだろうか。

登場する人物について:
グラン
 自分の趣味に熱中する慎ましい公務員。自分の善意を貫き通す人間。

リユー 
 日々の労働の中にこそ確実なものがある。一番大切なことは自分の職務をよく果たすことだと考える。この物語の語り手。
 リユーの印象的な言葉;
 「ペスト(悪)と戦う唯一の方法、それは誠実さなんだ」(ランベールに対して)
 「ペストは全員から愛の力を、そして友情の力さえ奪い取っていたのだ。なぜなら、愛とは、幾らかの未来を要求するものであるが、私たちにはもはや現在の瞬間しか存在していなかったからである。」

リシャール
 医師会の会長。ペストの蔓延という自分たちが立場的に窮地に追い込まれる状況を、悲観的な考えだと受け入れることを拒む。東日本大震災の原発事故の時、放射能漏れや炉心溶融(メルトダウン)を、青ざめた顔で必死に否定した政治家、役人、電力会社の幹部たちの姿が重なる。

コタール
 自殺未遂したが、羽振りの良い小金持ちらしい老人。「大はつねに小を呑み込む」という信念を持つ保守的な人間。時の体制に阿(おもね)るやから。ナチス占領下でナチス協力者となることを引き受けた人物。「ペストの共犯者。(共犯者であることに)無上の喜びを見出している共犯者」(タルーの表現)。ペストが終息すると、自暴自棄(?)の行動に走る。

イエズス会士パヌルー神父
 厳格なキリスト教の熱烈な擁護者。聴衆に向かって厳しい真理を容赦なく語った。「出エジプト記」からエジプトにおけるペストの流行を引用して、「この不幸はみなさんの当然の報いなのです。・・・ひざまずきなさい」、「今日・・・、反省する時が来たからです。義(ただ)しい人は恐れることはありませんが、邪なる人は震え上がる理由があります・・・」、「・・・ずいぶん昔、アビシニアのキリスト教徒たちは、ペストこそが神によって示された、永遠に到達する有効な手段だと考えました」
 彼は、このように、「ペストは神が遣わされたものであること、この災禍が懲罰的な性格を持つこと」を雄弁に語った。が、・・・

ランベール
 職業はジャーナリストであるにもかかわらず、目の前で起きている歴史的災厄を目を凝らして「書く」ということをしない。リユーの言い方をすれば「自分の職務をよくはたす」ことをせずに、別離状態になった妻との再会のために、自分だけ逃げ出すことに心を捉えられている。しかし、「自分一人だけ幸福になるのは、恥ずかしいことかもしれない」と葛藤する。

タルー
 最も重要な登場人物。レジスタンス運動のリーダーを仮託された人物。ペストに襲われた人々を助けるために保健隊を組織する。神は常に沈黙していると考え、神なき時代における「悪(ペスト)」に対する人間の戦いを支えるモラルを、リユーとともに提示する人物。パヌルーの「神が支配するこの世」と対照される。骨の折れる仕事に精を出しながらも人に気を配りもてなす。

 リユーとタルーの会話には、この世界の成り立ち、不条理さ、その世界で生きていく生き様と死に方など、緊張感のある真剣なやりとりが繰り返され、その回答の与えられない問いは読むものを深い思考に誘う。
 例えば、次の思想は圧巻だ;「この世の悪はほとんど常に無知から来るのだ。そして善意は、もしそれが見識を備えていなければ、悪意と同じだけの害をなすかもしれない。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、問題は実のところそこにはない。しかし、彼らは多かれ少なかれ無知であり、その程度の差がいわゆる悪徳と美徳の分かれ目なのだ。最も救い難い悪徳は全てを知っていると思い込み、人を殺すことをも自分に許す無知である。殺人者の心は盲いている。そして可能な限りの賢察がなければ、真の善意も、立派な愛も存在しない」
 「各人が自分の中にペストを抱えている。一時の不注意によって、他人の顔に息を吹きかけて相手に感染させないように、絶えず気を配らねばならない。自然な状態とは病菌のことだ。その他のこと、健康や無傷や何なら正常と言ってもいいが、それは意志の、決して緩めてはならない意志の結果なのだ。誠実な人間、つまりほとんど誰にも感染させない人間とは、できる限り気を緩めない人のことだ。そして一瞬たりとも気を緩めないためには、強い意志を持ち、意識を張り詰めている必要がある。ペスト患者であることは疲れることだ。けれども、そうならないように努めることはもっと疲れることだよ」

少年の死とその受け止め方について:
子供=「罪のないもの」の断末魔の苦痛を正面から見つめる体験。少年は全力で戦い、大人より長く苦しんで死んでいく。

パヌルー神父「怒りを覚えるのは、これが私たちの理解を超えているからです。でも、おそらく、私たちは理解できないことを愛さねばならないのでしょう」

リユー「私は愛について、違ったふうに考えています。子どもたちが拷問にあうようなこの世界を愛することは、死ぬまで拒むでしょう」、「人間の救済、それは私にはおおげさすぎることばです。私に関心があるのは人間の健康、まず健康なのです」

パヌルー神父(説教)「最も残酷な試練でさえも、キリスト教徒にとっては神の恵みとなる。そして、まさしくこの場合に、キリスト教徒が探し求めねばならぬものはその恵みであり、恵みとはなにか、どのようにすればそれを見出せるかなのである」「全てを信じるか、さもなくば全てを否定するかです」「今日神は、人間たちを不幸の中に突き落とすという恩恵を与えられたが、それは彼らに、全てか無かを選択するという最大の徳を取り戻し、引き受けねばならぬように仕向けるためである」「子供の苦しみは精神にとっても心情にとっても屈辱的なものである。しかし、だからこそ、それを受け入れねばならない。神が望んでおられるからそれを望まねばならないのである」「神への愛は困難な愛であります。・・・この愛だけが、子供の苦しみと死を消すことができるのであり、ただこの愛だけが、いずれにしても、子供の死を必要なものとするのです。なぜなら、子供の死を理解することは不可能であり、それを望むことしかできないからです。・・・人間の目には残酷であるが、神の目には決定的な信仰であり、そこへ近づいていかねばなりません」

「罪なきものが目を潰されるとすれば、キリスト教とは信仰を失うか、我が目を潰されることを受け入れなければならない。パヌルーは信仰を失いたくない、彼は最後までいくだろう」とタルーが言った通り、パヌルーはペストに感染し、医者(リユー)の診察を求めずに死んでいく。

リユーの母親について:
「ペスト」に登場する唯一の女性、そして重要な存在である女性。タルーもその日記のなかで、その行動と態度を讃える女性。
「これほどの善意が読み取れるまなざしは、常にペストより強いものだという奇妙な断定を下し・・・」「簡単な言葉で全てを表現する彼女の話し方」「それほどの沈黙と陰に埋もれているにもかかわらず、彼女はどんな光でも、たとえペストの光であっても、それに対抗できる」
カミュが1歳の時、父親は第一次大戦で戦死した。母親はもの静かで、二人の息子を貧困の中で育て上げる。そんな母親への尽きせぬ愛情が、リユーの母親リユー夫人の姿に重ねられているのだろうか。人生において最も不条理な、「生まれながらの不平等」も彼の"不条理"哲学のもとになっているのではないだろうか。

***
『デカメロン=「十日物語」』(河出書房新社)について:
ヨーロッパでペストが猛威を振い始めた1348年のイタリア、フィレンツェを舞台にした物語。日本では、室町初期南北朝時代。足利尊氏政権時代。吉田兼好晩年の時期。
百話のうち読んだ話:
第一日 第1話ー第10話
第二日 第5話、第7話
第三日 第1話、第3話、第10話
第六日 第10話
第十日 第1話ー第7話、第10話 

「デカメロン」(河出書房新社)表紙

ペスト禍のもとで、"自分の命を助け、保ち、守るのが、この世に生まれたものに天然自然に与えられた権利"と、恵まれた貴族階級の七人の若い(20代)婦人たちが、同様な立場の青年3人を誘いこんで、安全な田舎の地所へ避難する。
その別荘で、毎晩一人一話お気に入りの話を披露してペストに襲われた悲惨な世の中の出来事を忘れて、享楽に耽る。

ペスト禍の世の中は、彼ら(著者)の目にはどう映っていたか;
 善悪をわきまえず、欲望に身を任せ、夜も昼も快楽に耽っている。世俗だけでなく聖域である教会や修道院内でも掟を破って肉体の欲望に身を任せる人々の姿。
 人間の本性は今でも変わらないのではないかとふと思う。もし、1ヶ月後に地球に大隕石が衝突すること、地球の生き物がほぼ確実に全滅することがわかったら、”現代人”はどう行動するだろうか。”欲望に身を任せる”のではないだろうか。

人間の貪欲、禁欲、色欲でまみれた世俗の世をあらわに描くだけでなく、当時の倫理道徳を縛っていたはずの宗教的権威である教会の聖職者たちも、上から下まで好色、金欲、大食い、大酒飲みと俗の限りを尽くしていたことを遠慮なく露骨に描いている点、他に類例がないように思う。

人間の本能の謳歌、特に性的な欲求を満たすことに対するおおらかさが感じられる一方、倫理道徳的な精神の高貴さ、気高さ、清らかさに対する称賛、支持のような態度も感じられる。

かなり直接的な性行為の表現や性器の隠喩とはいえあからさまな表現は、日本では「古事記」の中にいくつもある”男女の交わり”の描写を思い起こさせる。一方、「源氏物語」になると、社会的禁忌に捉われない奔放な”男女の交わり”が、あけすけに表現されているようだが、こちらは、直接的な性行為や性器描写は必要としない物語の内容になっているように思う。

第十日の全10話は、ほとんど、”褒め称える行為”の話になっている。怪しからぬ行為の話から始まって、最後は、”良き行い”を語り合うようになって終わるというのは、著者ボッカッチョのこの著作に込めた基本的な真面目さの表れであろうか。
 一方、『「役に立つ話か害になる話か」判断は読者次第。両面あるのがこの世の習い。腹の立つ話は読まず、楽しい(と感じる)話だけ読んで欲しい』と読者に委ねる態度には、「心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづればあやしうこそものぐるほしけれ」の境地にも読み取れる。

(終わり)

*****


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?