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子どもを何人産むか、計画することは哲学的に許されるのか?

私が最近よく考えるのは、子どもを産むか否か、何人産むかということを考えること自体が哲学的に許されることなのかということです。ここでの「子ども」はまだ存在していない客体であり、パターナリズムだとすることはできないように思います。

自由至上主義者のミルトンフリードマンは、親は子どもを特殊な形のサービスとして消費している、と主張します。私は、(非常に嫌なことですが)これは正しいと思っています。つまり、現在では避妊することは当たり前になっているし、子どもを何人産むか、あるいはそもそも子どもを産むか産まないかを「選択」するようになっている。この選択にある計画性は、子どもをサービスとして消費する行為そのものだと思えます。つまり、親は子どもを産む前の段階では所有物として考えていると言っても過言ではないのです。

しかし、フリードマンはこうも言っています。親は子供を産む選択をするまで特殊な形として子供をサービスとして見ているが、その選択をした途端、子どもは人間として親に従属する客体から主体に変わるのだ、と。フリードマンは何を「子供」とするかを明確に述べていないので、中絶は殺人なのか、親の所有物(胎児)の単なる廃棄なのか、という結論は出していませんが、いずれにしても子供が存在した場合は、親の支配から解放されるべき主体であることは明らかでしょう。

生まれるはずだった子どもが親の選択によって生まれなくなることは、殺人と何が違うのだろう

「子供」は存在しない以上、所有物として親が消費することは自由主義では許されることだと思います。例え、各人の選択の結果が本来誕生するはずだった命がそうならないようになったとしても、実在する他者を殺すこと(他者危害原則)とは全く違うわけですから、選択の自由は親の自己決定権の範囲だと思います。これは、親になり得る人々の自然権でしょう。

子供を産むかどうかについて計画することは、一見するとあまりにも大きく他者(生まれ得る子供)の人生に介入する行為ですが、その"子供"がいないのですから、危害も何も無いというのは考えてみれば当たり前のことです。

少なくとも、フリードマンの見方からすれば、子供が人間としてこの世に存在していない以上、権利を侵害される当事者が不在なので、問題にはなり得ないのでしょう。私としては、(計画や避妊によって)生まれるはずだった子どもが親の選択によって生まれなくなることは、殺人と何が違うのだろうと一瞬思いましたが、子に関して計画する権利は、親の重要な自己決定権の一つとして尊重すべきなのかもしれません。

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