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「障害」と呼んではいけない理由

近年では、発達障害が「増加」しているということが報告されている。我々はこの「障害者が増える」という現象をどのように受け止めるべきだろうか。ここにヒントをくれる迷言がある。

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つまり、科学者ワトソンによれば小学校の学力順位の下位10%は「病気」「障害」があるというのである。しかし、この論理こそが障害者の増加を生んでいるのではないだろうか。障害があるから学校の勉強についていけないのではない。それは全くもって逆であり、学校の勉強についていけないから障害と呼ばれているに過ぎないのである。学校は兼ねてから、順位低下の者を「障害」というレッテルによってひとくくりにしてきたのだ。それは、少し前まで知的障害とか、そのような呼ばれ方をして教室から排除し、特別支援学校・特別支援学級をつくっていたかもしれない。そして、今日そのような第一の障害者グループに排除することに成功した学校は、残ったクラスの生徒のうち下位10%を新たに障害者として認定しようとしているのである。それこそが第二の障害者グループ「発達障害」の誕生であった。飛躍したことを言っているように見えるかもしれないが、冒頭で紹介したワトソンの言葉はまさしくこの学校の構造を端的に表したものである。

このように、かつては障害と呼ばれていなかったり、病気と呼ばれていなかった人々をも医師や病院が「障害者」として次々に認定していくことを哲学者イリッチは医原病と呼んだ。

隠れた障害を持っていたから支援する必要が出てきたのではない。そもそも学校は下位10%のことを最初から「障害」と呼び、排除するように設計されているのである。だとすれば、学校において「障害者」は永久に生み出され続けることになる。障害者を排除した学校から、新たに障害者が発見され、問題提起され、支援という名前で教室から排除される。そしてまた、障害者がいなくなった学校から障害者が発見されていくのだ。だから、学校で「障害」と呼んではいけないし、障害者を探してはならない。探した途端、下位10%は排除の対象となる。このような事実は、障害が生徒本人の持つ特性ではなく、社会環境・学校が作り出す概念であることを意味している。障害は学校側、社会側にあるのである。これを障害の社会モデルと呼ぶ。障害ラベリングシステムの機能している学校は、自らが障害者と呼んで別教室に隔離していた生徒たちと「普通」の生徒たちを同じ教室に入れてなければならない。このようにして初めて、学校側にある「障害」を撤廃し、障害者と呼ばれる人々、くくられる人々は誰もいなくなるのである。

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