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九州南北朝の史跡を巡って旅行記としてまとめたい (西征府の変遷を中心に)

こんにちは。前回の記事で予告した通り、本記事ではnote2年目の抱負を書きたいと思います。

私事ですが、noteに投稿を始めて5月で一年が経ちました。これまでの1年間は、熊本県内を中心に思いたった史跡に行って、その史跡を単発でご紹介する記事を投稿してきました。ちょうど一年が経った頃こんな思いが湧いてきていました→県内のご紹介したい史跡もだいたい記事にしたし、九州内の県外の史跡も記事にする予定だったけど、遠いし、県内に比べて親しみが薄いし、よっぽど思い入れのある史跡じゃないとなかなか腰が重い。菊池市の史跡散策を一区切りとして、note投稿は暫く休止してもいいんじゃないか?

もうこれで最後にしようかな、諦めようかなと思った時に運命的な巡り合わせが来る事ってありませんか?大袈裟ですけど、私にとっての菊池散策もそんな感じがしました。菊池散策で九州南北朝時代の世界の一端を垣間見て、九州でもこんな豊かな歴史ドラマが繰り広げられていたのかと驚き、その魅力に取りつかれてしまいました〜笑(九州だけで大河ドラマにできると思う)特に前後征西将軍宮率いる南朝西征府とそれを支える家臣団の人間ドラマにとても魅力を感じています。そして特に南朝ゆかりの九州の都市では今でも南朝関連の文化や史跡が大切に守られて存在しているようです。ということで、今後は西征府の変遷をたどる形で九州内の関連史跡を巡り、記事にしていきたいと考えています。(行きやすい史跡から巡るつもりなので、時系列的な記事には出来ませんが。)そしてある程度全ての関連史跡を回りきった暁には、旅行記にまとめて、kindle出版などにチャレンジできたらと思っています。(あまりに面倒だったら出版は諦めます😅)

とはいえ、菊池散策で九州南北朝の世界の扉を開いたばかりなので、九州に散らばる史跡を巡る旅に出るにはまだまだ知識が足りません💦これから暫くは文献を読んだりネットで調べたりとインプットに注力する予定ですので、noteへの投稿や閲覧頻度は落ちると思います🙇‍♀️

九州南朝を取り扱うにあたり述べておきたいこと

戦前の皇国史観においては、南朝が正統と考えられていたこともあり、終戦前までは南朝方の天皇・親王・武将の事蹟の顕彰や賛美の傾向が強かったようです。一例として、明治の近代社格制度においては、南朝方の忠臣とされる一族を祀る神社は、国家に功績を挙げた忠臣や国家のために亡くなった武将・志士を祭神として祀る別格官幣社という社格を与えられていました。(藤島神社、北畠神社、湊川神社、菊池神社など。終戦後の1945年近代社格制度に基づく名称は廃止されています。)

そして戦後になると、戦前・戦中の反動からか、南朝とその周辺問題は意識的に避けられて来た感があり、また、北朝方に比べて南朝方の史料が極端に少ないことも相まって、南朝に関しては戦後の実証的な研究は現在でもあまり進んでいないようです。(森茂暁著『皇子達の南北朝』p.221-p.222による)

私は戦後生まれなので、戦前の思想はよく分かりませんし、深く調べるつもりもありません。現代以前のイデオロギー的な側面に囚われることなく、そこに史跡があるから。一生懸命生きた人々の痕跡があるから。というスタンスで、基本ノーサイドで人間ドラマ・歴史ロマンを楽しんでいきたいと思っています。(とはいえ、私は懐良親王のファンなので、南朝びいきの記述になってしまうかもしれません。北朝方の武将ファンの皆様におかれましては何卒ご了承ください🙇‍♀️ちなみに、北朝関連の史跡も幾つか行ってみたいと考えております。)

ざっくりとした散策プラン

県外の関連史跡を巡るにはまだまだ知識不足・情報不足の状態ではありますが、現時点で思い描いている大雑把な散策計画的なものを皆様に共有したいと思います。少しでも興味を持って頂けたら嬉しいなという気持ちで(´∀`*)

基本的には、南朝の西征府が置かれた地(前後征西将軍宮の御在所となった場所)を巡り、簡単な歴史解説をしながら、ゆかりの史跡をご紹介していくスタイルを取りたいと思います。(菊池の散策は終了。菊池散策シリーズの記事をお読み下さい♪)

まずは分かりやすいように、西征府(両親王の御在所)の変遷を以下に示します。現時点での手元資料と知識で書きますので、間違いや足りない箇所もあるかもしれませんが💧

懐良親王の御在所(西征府跡)

懐良親王九州入り後 ①谷山(約6年)→  ②八代(約10日)→  ③御船(約1ヶ月)→  ④菊池(約13年)→  ⑤太宰府(約12年)→  ⑥高良山(約2年)→  ⑦八女(1374年に菊池退却後、征西将軍職を良成親王に譲ったあとの隠棲地。同地で死去。)

良成親王の御在所(西征府跡)

1374年に懐良親王から征西将軍職を引き継いだ後 ④菊池(約8年)→  ⑧たけ(約?年)→  ⑨川尻・宇土(約?年)→  ②八代(約2年)1392年の南北朝合一 を迎える →  ⑦八女にて南朝の再興図るも同地で死去。

懐良親王のたどった経路 
菊池市発行冊子『菊池一族歴史さんぽ』p17より画像引用

各地の史跡ついて(散策前の現時点での雑感)

①谷山(現鹿児島市上福元町・下福元町)

主な庇護武将:谷山氏
懐良親王谷山入り時は13歳。史跡は谷山氏の居城・谷山城跡、懐良親王を御祭神とする谷山神社、懐良親王御所記念碑など。懐良親王に因んだ銘菓「じゃんぼもち」なるものがある模様。食べてみたい。

②高田(現熊本県八代市)

主な庇護武将:名和氏
薩摩から肥後入りした懐良親王が10日間ほど滞在した都市であり、菊池を追われた良成親王と菊池武朝が名和氏を頼って西征府を移した地。史跡は、懐良親王御陵、中世八代城跡(古麓城跡)、高田御所跡など。

③御船(熊本県上益城郡御船町)

主な庇護武将・阿蘇氏?
史跡は懐良親王が菊池入りする前に滞在した御船城。当時宮方が一番頼りにしていた阿蘇惟時が御船城で親王と面謁。御船町に御船城という中世山城は一つしかなく、今は城山公園となっているようなのでそこだと思うが、城主も含めて明確でない。自治体発行の郷土史や、自治体への問いあわせで裏をとるか。

④菊池(現熊本県菊池市)

主な庇護武将:菊池氏
散策済みで既に記事にしています。

⑤太宰府(現福岡県太宰府市)

主な庇護武将:菊池氏
史跡は太宰府政庁跡くらいしか今はわからない。懐良親王ゆかりの史跡確認要。また、西征府を太宰府に置くあしががりとなった、筑後川の戦い(大保原合戦)の古戦場は必ず訪れるべき史跡。古戦場は福岡県小郡市・三井郡大刀洗町・久留米市に渡る。合戦関連史跡も列挙できないほど沢山あるみたい。

⑥高良山(福岡県久留米市)

主な庇護武将:菊池氏
太宰府を目指した懐良親王と菊池武光が筑後における進出の拠点を置いた地であり、太宰府西征府陥落も2年程西征府を置いた地。筑後川を見下ろす天然の要害。史跡は、高良大社と高良山一帯の山城跡。

⑦八女(現福岡県八女市)

主な庇護武将:五條氏・黒木氏
懐良・良成両親王が晩年を過ごした山間地帯にある要害地。史跡は、懐良親王が晩年を過ごしたっいう大円寺、懐良親王墓所、良成親王御陵など。懐良親王の九州下向からの筆頭従者・五条頼元の子孫は1392年の南北朝合一後は同地に土着し、今でも良成親王の御陵を守っているそう。五條家には歴史資料も沢山残っているらしい。

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五條家に伝わる金烏の御旗と五條頼元の鎧兜。毎年秋分の日の『御旗祭』で他の歴史資料とともに一般公開されるらしい。八女市観光振興会パンフレットp4より画像引用。

⑧たけ(所在地不明)

菊池陥落後、菊池武朝と良成親王がしばらく西征府をおいた地。熊本市西部の金峰山付近といわれるが、はっりした場所はわかっていないようなので散策はスキップ。後に研究されて詳細解明されたらいいな。

⑨川尻経由宇土

主な庇護武将:菊池氏、河尻氏?宇土氏?
河尻氏と宇土氏については現時点でよくわからないが、菊池陥落時は南朝方だった模様。そのため、菊池が陥落し西征府の南下に伴い、河尻城→宇土城→八代城と西征府が移ったか。

因みに中世河尻氏の本拠地、川尻は以前散策し記事にしたが、当時は江戸時代以降の史跡を中心に紹介した。中世河尻氏は、鎌倉時代に鶴岡八幡宮を勧請したり、曹洞宗の九州本山・大慈禅寺を創建したりしており、ただならぬ豪族感があったが、やはり南北朝時代も活躍していたらしい。因みに河尻幸俊は観応の擾乱時、足利直冬を本拠地河尻に招き、九州入りを助けた。河尻城跡はじめ、あらためて中世河尻氏の史跡を紹介する記事をまとめたい。

ここまで書いて、本当にこのテーマ旅を完走できるのか不安になって来ました。。多分、史跡を楽しく回るだけならそんなに時間かからないのですが、記事にするのが10倍くらい時間かかるんですよね😅まぁ、人生なにが起こるか分かりませんし、途中で継続困難と判断した場合は、note上でごめんなさい報告します。(←逃げ道作っとく)

最後に

今後は九州南北朝関連史跡の記事を投稿するということで、今までの記事のスタイルが気に入ってフォロー頂いている皆様には申し訳ないです🙇‍♀️興味の無いテーマの記事を読むのは苦痛だと思いますので、フォロー外して頂いても構いませんし、ご興味のある記事だけ読んで頂けたらと思います。(スキ返しもお気遣いなく)逆にもし、今後も記事を読んでみたいな、興味あるな、と思って頂けた方はスキ押して頂けるとこれからの長旅の励みになります❗️

とはいえ、ずっと同じテーマも辛くなるかもなので、たまには肥後六花や別のテーマ・時代の史跡の記事も投稿していきたいと思っています。

今後の南北朝史跡の記事のスタンスとしては、今まで通り、史跡を有する町の風土や美しい自然が伝わるように、そして現地で感じたことや地元の人たちの思いなども丁寧に描いていけたらと思っています。付随する歴史の解説については、なるべく専門家の先生方が書かれた各種書籍や自治体発行の郷土史や観光パンフレット、自治体のHPなどに拠り、史実と通説に従うよう心がけつつ、学術的には採用されてないけど地元に伝わる伝承なども紹介していきたいです。

それでは本当に最後に、森茂暁著『懐良親王』より、九州中世史について述べられている箇所を引用して本記事は終わりたいと思います。

(前略)日本国の首都たる京都から遠く離れた九州の武士たちの独立性や自立性を求める特性を、「九州の理論」と呼んでよいと思うが、彼らにとって京都幕府の権威はあくまで相対的なもので、決して絶対的なものではなかった。いわば、その時々の状況に応じた臨機応変の態度であるが、しかし、彼らにもよるべき権威は当然必要であったはずである。著者は、それこそ南朝の系譜を引く西征将軍の権威ではなかったかと想像している。それは幕府の将軍である足利尊氏でもなく、執政の地位に返り咲いた足利直義でもない、第三の権威である。その第三の権威に九州武士たちの支持が最も多く集まった時期が、懐良親王の太宰府西征府の時代ではなかったかと思うのである。もしそう考えて誤りないとすると、「九州の理論」は南朝の権威によって政治的・軍事的に実質化されたことになる。こうした点は、九州が長い歴史を通じて身に付けた特性といって過言ではないだろう。
 日本列島を構成する島々のなかで、九州は独特の歴史と文化をはぐくんできた。それは中央から遠く離れた九州が地域的に完結しているという地理的な特質もさることながら、地理的にアジア大陸と最も近く、海外の文化といちはやく接触しやすいという地政学的な利点にもよるであろう。そのような長い歴史を通じて育まれた九州武士たちの主体性が、京都や鎌倉に置かれた朝廷や幕府などの中央権力を相対化することを可能にしたのかもしれない。
 (中略)九州の中世史は奥が深い。その深い九州中世史には独特の歴史と文化が秘められている。

森茂暁著『懐良親王』p313-315

【参考HP・参考文献】

・菊池市役所 政策企画部 菊池一族プロモーション室「菊池一族歴史さんぽ」パンフレット冊子

・ミネルヴァ日本評伝達『懐良親王』森茂暁著 2019年 ミネルヴァ書房

・『皇子たちの南北朝』森茂暁著 1988年 中央公論社

・川添昭二『今川了俊』1964年 吉川弘文館

・Wikipedia

・その他各自治体HPなど

【画像引用】

・八女市観光振興課発行パンフレット 『観る知る学ぶ 八女は楽しい』

・菊池市発行パンフレット冊子『菊池一族歴史さんぽ』

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