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どうしてフィルムカメラを使うのか?

フィルムカメラの手間と苦慮

2023年8月26日にフライトが予約されている。
飛行機に乗る予定があると、
どうしても焦燥感に駆られてしまう。

荷物を忘れていないか?
乗り遅れないように早めにつけるか?
空港の場所を間違っていないか?
入国のVISAが必要か?

これらと同じくらい、私を焦らせる質問が脳裏をよぎる。
それは、
この35mmフィルムを
フライトの日までに使い切れるか?である。

私のフィルムカメラの中には
Kodakの200T 5213が装填されている。
フィルムをエックスレイに通してしまうと、
フィルムとその写真に悪影響が出てしまう可能性がある。

カメラから取り外されているフィルムであれば、
手荷物検査の時に、係員の方が
自身の手で検査をしてくれる。
一方で、
カメラはエックスレイ検査の対象内のため、
その中のフィルムは例外ではない。
フィルムを使い終えることで、
初めて取り出しが可能になる。
8月26日に間に合うか。

こうした例は、
フィルムカメラを持つ上での手間の氷山の一角である。
その他にも、不便な点や苦慮する点がある。

それらを簡単にまとめると、
・フィルムの購入から現像までお金がかかる

・写真の確認まで時間がかかる
(フィルムを使い終え、さらに現像のプロセスが必要なので)。

・思った通りの写真の仕上がりかどうか分からない

・すぐに写真をシェアできない
(フィルムを使い終え、さらに現像のプロセスが必要なので)。

・スマートフォンにに比べてかさばる

・写真編集による「フィルム風」写真の加工技術

・環境問題

これらの要素を踏まえると、
フィルムカメラはなんと時代錯誤的なのだろうか。
気軽にスマートフォンで写真が撮れる。
デジタルカメラで高画質な写真を何度も撮れる。
インターネットによる高速な情報移動が可能になり、
カメラやスマートフォンで撮られた写真は、
撮影後すぐに一瞬で送りたい人のもとへ届く。
フィルムカメラの良さでもあった、
「銀塩感」や「シャープじゃない自然な奥行き」、
「フィルムの色の個性」などは、
写真編集ソフトが演出してくれるようになった。

以上の点を踏まえると、フィルムカメラで写真を撮るには、
コスパが悪く、非合理的で、手間がかかり
ナンセンス(フィルムカメラを使う意味が不明である)かもしれない。

それでも、私はフィルムカメラを持とうと思う。
お金がかかるのに、
撮影後すぐに写真の確認に時間がかかるのに、
スマートフォンを持っているのに、
荷物の幅をとるのに、
フィルムのケアが大変なのに、
それでも、
フィルムカメラで写真を撮りたい。

私を惹きつける不思議な魅力のフィルムカメラ。
本記事では、
私がフィルムカメラで
写真を撮る理由を書いていく。


①お金と撮影数の有限化による、「思い出の鮮明さ」

簡単に言うと、
お金がかかり、
なおかつ、撮影回数が限られていることから、
1枚の撮る写真の思い出の鮮明さが増す、ということだ。

フィルムの購入から現像費用まで、
金銭的コストがかかる※1。
撮影回数も、35mmフィルムの場合、
27枚-36枚に限られる。
こうした有限化された撮影回数の中で
写真を撮るとどうなるか。

一枚一枚の写真を大事に撮ることができる。
一枚一枚を大事な人や本当に気に入った場面、
何故か心が引かれた一瞬を撮ろうとする※2。
その結果、何が起こるか。
フィルムで撮った写真を眺めると、
その写真を撮ろうと思った時の
状況や意図、心情がより鮮明に思い出される。
大事な時にのみ有限化された状況で撮られた写真は、
「思い出の鮮明さ」のようなものを
持ち始める。

Kodak 400 @Japan

※1 デジタルカメラや高性能なスマートフォンのカメラにより、
今後も消費者のフィルムへの需要は下がり続けるかもしれない。
そのため、今後、さらにフィルムが値上がりするだろうが、
値下がり可能性は低い。

※2 これに加えて、1枚1枚への集中力が高まることも期待される。
四国地方のとあるお宝屋敷を運営する、
元カメラマンも現役をフィルムカメラと共に過ごした。
仕上がりの確認まで時間がかかり、
なおかつ、
コストがかかってしまうからだ。
彼は、フィルムカメラで撮る時の
緊張感を今でも覚えている、と言っていた。


②忘れたころに

忘れたころに
何かが届くと
少し嬉しくなることがないだろうか。

例えば、
オンラインで本を注文したとする。
到着時期が大幅に遅れるという連絡を受ける。
何週間か過ぎて、
買ったことすら忘れてまう。
そうして、玄関に本が届いていると、
ちょっとしたサプライズのようで、
少なからず高揚感が生まれる。

もっと分かりやすいのは、
タイムカプセルを開ける時だろう。
小学校の時に埋めたタイムカプセルを
20歳に開封する時の気持ち。
何年も前に自分が書いた
とうに忘れてしまった
手紙やテストの答案、
意味不明な小石のコレクション。
忘れた頃に見てみると、
より興味深く映るものだ。

このちょっとした嬉しさには、
「忘れたころに」手元に来ることがポイントである。
何事も「忘れる」ためには時間が必要だ。
フィルムカメラは、その「忘れる」ための時間を
演出してくれる。

先ほども言及したように、
フィルムで写真を撮った後、
現像という作業が必要になる
全てのフィルムを使い終えることには、
最初の方に撮った写真の内容はとっくに忘れてしまっている。

さらに、現像のために
専門のカメラ屋に出し、
二週間ほどで手元に届く。

その間も、自身が撮影した
写真の忘却はさらに進む。
すぐに自分が撮った写真を確認できないからこそ、
写真を見る時の高揚感が高まる。
まるで、「忘れる」こと、つまり、
「過去」から少し距離を置くことによって、
写真を見る印象が変わる。

私は少なくとも3つフィルムがたまるまで、
現像に出さないようにしている。
皆さんも、あえて
「忘れる」時間を作ってみていただきたい。

Lomography Film Unknown @New Zealand 

③偶然の作品

フィルムが現像されるまで、
何が取れているか分からない。

そのため、私のような素人の間では
ブレる/ボヤける/コマがずれるといった
いわゆる「失敗」が起きてしまう※2。

しかし、この「失敗」のおかげで、
偶然思わぬ面白い写真が撮れることがある。
ピントのあった、一切ボヤけないがない、
完全無欠な写真を撮れるのは素晴らしいことだ。

一方で、フィルムカメラの取り直しができない状況により、
ブレやボケ、コマずれ、フィルムの色の個性などが積み重なり、
面白い写真を撮ることができる時がある。

Lomography ISO 800 @New Zealand

※3アレ/ブレ/ボケを敢えて手法に取り入れた
森山大同氏の写真は非常に興味深い。


④瞬間の物体化+再開/手紙の口実

フィルムの現像を終えると、
必ずネガフィルムが手渡される。
写真で撮った一瞬が、
必ずこのネガフィルムという形で、
物体化することになる。

このネガフィルムさえあれば、
専用の機械やカメラ屋さんで
何度も写真を焼き回すことができる。

もちろん、
このネガフィルムがかさばってしまうのは分かる。
だからこそ、
写真の中に映る大切な人に、
また会いに行って、そのフィルムの断片を渡すといい。
遠方の場合は、手紙と一緒にそれを渡すといい。
どうせ物体化するのだから、
それを口実に、
会いに行ったり、
手紙を書いたりすることができる。
素敵ではないか。

遠く離れた懐かしいあの人へ、
好きな人へ、
ご無沙汰な人へ
また一つ、会うための/手紙を書くための口実ができた!!

Kodak 400 @Japan

⑤カメラが私に写真を撮らせる

フィルムカメラは、
スマートフォンと比べて重量感がある。
スペースもとる。
存在感があるのだ。

フィルムカメラを持っていると、
不思議なことが起こる。
普段の身の周りのものが
興味深く見えてしまう。
それとも、
フィルムカメラを持つことで、
自分自身が面白いもの探そうとするのか。
身の回りのものや人、風景がいつもと違って見えるのだ
(または、カメラによってよく見ようとするのかもしれない)※4。
この「写真を撮る側」のムードの変化が実に面白い。
ある意味、フィルムカメラが「写真を撮る側」に
写真を撮らせているようだ。

Lomography / Earl Grey 100 @Japan

※4  このような現象は、フィルムカメラだけではなく、
デジタルカメラを使う人でも共感する人がいる。


⑥ナンセンス=贅沢

イントロで何度か伝えたように、
フィルムカメラは、
コストパフォーマンスが悪く、
写真の撮り直しができない。
効率や合理性とはかけ離れている。
フィルムカメラを使うことは
ナンセンスなのかもしれない。

しかし、このナンセンスさこそ、
贅沢だと思う。
少し想像して欲しい。
フィルムカメラを通して、
お金を稼げるわけでもなく、
美しくなるわけでもなく、
スキルを身につけたり、
有名になったり、
世界の誰かを救えるわけでもない。

ただただ、自身が「いいな」と思った瞬間に
そこに向けて写真を撮るだけ。
そんなことに没頭できるなんて、
本当に贅沢で素敵なことだと思う。

鬼ごっこを思い出してほしい。
友達と走って、
汗をかいて、
服を汚して、
くたくたに疲れて、
翌日の鬼ごっこの可能性を引き連れながら、
夕暮れを帰っていく。

何も成し遂げていない。
お金やスキルを得たわけでもない。
偉い人とコネクションができたわけでもない。
ただただ、楽しかったし、それに没頭しただけ。
それだけ。

非効率的、非合理的、ナンセンスさ、
そいういった領域の中に、
フィルムカメラが引き込んでこれる。
その中にある
贅沢さや楽しさがあるように思う。


Lomography / Redscale XR 35mm ISO 50 @Vietnam

まとめ

本記事では、
「私がフィルムカメラをどうして使うのか?」
について、書いてきた。
効率さや合理性、コスパを重宝される時代において、
時代錯誤と言われるのも無理はない。

一方で、①や②で述べたような
「撮る側」の写真へ対する印象の変化、
③と⑤の人意を超えた「道具」と「道具を使う主体」の
興味深い関わり、
④のフィルムカメラを通しての人間関係
⑥の「ナンセンスなことに没頭できる贅沢さ」
といったところに、
フィルムカメラの得意分野が
まだあると思う。

フィルムカメラは、
デジタルカメラやスマートフォンカメラなどの最新技術、
環境への配慮、
効率/合理性/コスパ良好への傾倒、
といった時代の流れの中で、
黄昏時を迎えているのかもしれない。

その終わりまで、
フィルムカメラの写真と
上記のような面白さを模索していくつもりだ。

それにしても、
依然として、
フィルムを8月26日まで使わなけれいけない件は
いまだ解決していない。


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