自分が死ぬとしたら...
新年、あけましておめでとうございます。皆様、今年もよろしくお願いいたします。
僕は1月2日生まれのため、明日、Endo-sanアップデートがかかり、バージョンが34.0になりますので、Twitterのアカウントネームも変える必要がありますね。()の中の数字をアップデートしておかなければ。
新年一発目のタイトルが死について、というのも少し怒られそうなものですが、別に新年を迎えようが何をしようが1年は365日ありますので、その中の1日ということでしかありません。
けど、新年だからこそ、書いておきたいと考えたのは事実で、真剣に考えてみました。なお、この文章の文字数は2984です。
目次
・明日、心臓がとまりますという宣告
・家族のこと(妻)
・家族のこと(子どものこと)
・仲間・友人のこと
・人に会えなくなるのがイヤだ
明日、心臓がとまりますという宣告
「明日の○時にあなたの心臓が止まってしまいます。防ぐことも、どんな対処をしようとも無駄です。確実に死に至ります。」と宣告を受けたとして、どんな風に思うのかということを考えてみたんです。
結論として、死にたくはありませんでした。絶対。
人は確実に死にます。いくら寿命が伸びたところで、死を迎えることには変わりはありません。
もしかしたら、近い将来、僕の記憶データは残り続けるのかもしれませんし、肉体も技術の進歩により老化を遅らせる、もしくは記憶データが持ち運べるのであれば、別の肉体に移ることも可能になるかもしれません。
そうなると、精神性が生き残るのだから、実質的に永遠の命を手に入れる可能性すらあるわけですが、それを望むのか望まないのか、というところになりそうな気もします
それが人間のあるべき姿なのかどうか、などというのは正直わかりません。
自然の対義語・反対語、不自然や人口となっています。では、自然という言葉がどこまでを範疇に収めるのかということになりますが、人の手が加わっていないことが自然なのでしょうか。
僕の考えは、人間が地球で生まれ、育ってきた生物なのであれば、その人間が手がけることも自然だといえると考えています。
なので、いかなる人工物を人間が生み出したとしても、それは地球という大きな袋の中で起こる「自然なこと」だということです。
ただ、人間が取る行動で他の生物が迷惑を被ってしまい、絶滅するような状況になってしまうというのは人間のエゴですし、それを許すか許さないか、は自然かどうかという点とは別問題なので議論は必要だと思います。
そう考えると、人工物が人間にだけ適応され、それが人間の中だけで解決されるのであれば、それはそれで自然なことなのかもしれません。もちろん生態系に何かしらの影響を与えるでしょうが...。
ただ、いくら技術発展をしたところで、僕は両親から授かった肉体と、その器の中に宿し、様々な人に出会うことで育まれたきた精神性を保った状態で死を迎えることを希望します。
いつかは死を迎えるというのは考えていますが、明日急に死ぬとしたら...などと考えると、怖いですし、嫌なんです。
制御できないから怖い、というよりも、今の自分が保持している何かしらに対して、自分がまったく関与できなくなる、という状況が怖いということな気がしていて、それが何かを考えてみました。
家族のこと(妻)
妻には本当に助けてもらってばかりいます。一緒に生活をしてくれることが当然などとは絶対に思えないぐらいに感謝しています。
すごく嫌な気持ちを抱かせたことも一度や二度ではないでしょうし、僕と一緒にいることがストレスでしかない時期もあったでしょう。
だから、僕は彼女が笑ってくれることがすごく嬉しいです。それを一回でも多く笑ってくれるような状況をつくりたいし、そうできる関係をまだまだ続けていきたいと考えています。
死んでしまったら、それができなくなってしまいますので、非常に困ります。死にたくありません。
家族のこと(子どもたち)
我が家は妻と子ども3名と共に生活を送っています。3人の子どもたちは望まずとも我が家(僕と妻のもと)へ来てくれたことを本当に感謝しています。
そんな彼らとの生活は、期間限定のものだと自覚しているからこそ、失いたくないという気持ちがすごく強い。
例えば、年齢はいつなのかはわからないけども、お風呂へ一緒に入らなくなることをはじめ、共に行動をすることがどんどんと増えていくわけです。
妻はこれを「剥がれていく」と表現していました。すごく納得できる表現で、大きく感心したものです。
彼らはまるで僕たちの体に貼ってあるシールを剥がすかのように、親という存在が不要になることが増えていくわけです。
そう考えれば考えるほどに、子どもとの生活は僕や妻にとって最高の贅沢な時間な訳で、どんなものと比較しても、彼らとの時間がなくなってしまうことは苦痛でしかありません。
そんな彼らとの期間限定の付き合いは、18年、15年、下手したら12年で自立を迎えるかもしれません。そうなると、我が家の長男は現在5歳のため、あと7年しかありません。
その贅沢な時間を味わうことができるのが、もう半分程度なのにも関わらず、それを一瞬にして失ってしまうかもしれない、ということを考えるとすごく嫌なのです。死にたくありません。
仲間・友人のこと
2018年9月、自分なりに1つ誇らしいことがありました。#スポーツの未来に僕たちができること と題したイベントの第一弾を開催したことです。
自分の人生を振り返ってみても、そんな風に自分を誇らしいと思えることは決して多くありません。
自己満足の範疇を出ないのかもしれませんが、一人や二人といった少ない人数ではなく、一定数以上の人が嬉しそうにニコニコとしてくれていたことが、僕は心の底から嬉しかったんです。
こんな自分でもできることがあって、そのできることをできる範囲でやることによって、こんなにも人に喜んでもらえるのか、ということを考えると、すごく誇らしい気持ちにもなりました。
そして、自分だけではできないことを自覚もしていたし、痛感することも多かったのですが、そこでたくさん救ってくれた人たちがいました。
すでに知り合っていた人もいたし、まだ会ったこともなければ、話したこともないような人たちも、「僕」というよりも「僕のやろうとしていること」を助けてくれました。
まだまだ、彼らとともにやりたいし、会ったこともないし、話したこともない人と一緒にやりたいと思ってます。
同じように頑張ろうって思ってる人たちを、その人たちと一緒になって助けたいし、そんな人たちと、ちょっと熱っぽく話したいんです。
会えてない人の数が多いのは仕方ないのかもしれないけど、その可能性が一瞬にして潰えてしまうのはすごく嫌だ。死にたくありません。
人に会えなくなるのがイヤだ
こうやって考えてみると、僕の根幹にあるのは人との関係性だということがよくわかりました。家族のことはもちろんなのですが、仲間となってくれた方や、その可能性がある方に会えなくなるのは非常にツラい。
僕は、人と会うことによって自分の考えが足りないこと気づくきっかけや、逆に何かしらを与える機会に恵まれることを強く望んでいて、それが断たれることが、すごく嫌なのだということがわかりました。
結論、やっぱり死にたくありません。
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