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子どもに対して抱いてしまう「全能感」を捨てよう

子どもと生活をしていると、急に「全能感を抱いてしまう人」って、結構数いるんじゃないだろうかと思う。

子どもとの生活が始まったからといって、高尚な人間になるわけでもないのに、子どもに対して随分と上から目線で接しようとする「大人」を演じようとする人のことだ。

ぼくもその一人だった。ここではあえて過去形にして書いてる。そうでありたくないという気持ちと、そうあるべきではないと戒めのつもりだ。

これまで、ぼくはその態度を「年齢」と「体格」を踏まえたマウンティング行為だと捉えてきたのだけど、「勘違いな全能感」ともいえる。

ぼくが自分自身に対して、「そうなっているかもしれない」と気づいたのは、自分が子どもに対して注意や指摘をする場面を思い返した時。

自分自身で振り返ってみると、これがすぐにわかる。

たとえば、朝、起きてこない子どもを起こしに布団のそばに行く。

「ほら、もう起きないとだぞ。早く。起きるぞ。」とかなんとかいうのだけど、果たして、自分はこの年齢(長男6歳)の時に、自発的に起きれていたのかというと、自信がないどころか、起きれていなかった記憶しかない。

起きれなくて、集団投稿で迎えにきてくれた人たちを先に行ってもらう、なんてことをしたのも1度や2度ではない。

それをなんだ、「父親」って役割を与えられたら、何でもかんでも言っていいのか。自分の仕事へ向かうまでの時間がないからといって、それを理由に彼らの起きるまでの時間を短縮していいのか

いや、そこじゃないな。

まるで自分のいっていることが「正しいこと」だと認識した上で、その通りにことが運ばないと子どもが不幸にでもなるかのような物言いをしている態度は、果たして「適切な振る舞い」なのか

そもそも子どもに対して偉そうにいえるだけの立場にいるのか。

そう立ち返ってみると、ぼくは別に大した人間でもない。

世界中で売られている電球の可能性を引き上げるようなLED関連の開発をしたわけでもないし、iPS細胞の可能性を見出して研究をし続けたわけでもない。だから、ぼくはノーベル賞を受賞していない。

できるものならした。

ノーベル賞を受賞するって気持ちを体感したいとは思う。だけど、ぼくはそこまで「できる人間」ではない。だから子どもに対して偉そうな態度を取れるものではないような気がする。

そこまでできるからといって、そんな態度をとっていいとは言えないが、少なくとも、ぼくはそれをいうべきではないとは思う。

「いやいや、そうではなくて、親なんだから善悪をはじめとした"教育"を施さなければいけないだろう。」

と、ある人物から指摘を受けた。ぼくは「何をいってるんだ」と返した。

そもそも善と悪について語れるほどに、善とは何か、悪とは何かを考えたのか。見る立場や状況によっては、その考えを一変させるようなものだから善と悪を考えるのは難しいわけで、それをさも簡単かのような顔をして、お前は善悪を子どもに「教えられる」と思っている。その考えが浅いのだ。

そんな風に雄弁と語る夢を見た。随分と心地よかった。相手の悔しそうな顔が忘れられない。誰かといえば知らない人だったのは覚えている。

話が随分と遠くに離れてしまった。

こんな風に、話がついつい脱線してしまうような人間が、子どもとの生活をできている時点で、すでに恵まれているのだ。

ましてや、子どもとぼくとの間にある差によって、親の果たす役割なるものが生じるのであれば、それを持って優位性を示すだけの価値がある「差」なのか。

その差は、ぼくに全能感をもたらすだけのものなのか。

よく考えると、まったくそうではないのだと気づく。いや、これをよく考えなければならない時点で、ぼくの底浅さを身をもって実感する機会になるのだとけど...

冒頭でも書いているように、ぼくが彼らに対して上回っている部分は、「年齢」と「体格程度」であり、先日、長男はぼくがサジを投げた次男のもらってきたライオンみたいなロボットのプラモデルみたいなヤツを自力で完成させた。

ぼくはプラモデルみたいなヤツは、説明書があって、そこに書いてあるパーツとパーツを組み合わせていくから完成するのであって、とりあえずパーツを切ってバラバラにした状態では(やりにくいから)できない、とサジを投げた。諦めたのだ。

でも、それでも長男は挫けず、ぼくに助けを求めてたのにサジを投げたものだから、自らが説明書を見て、同じような形をしているもの同士をくっつけ、なんとか形にしようとがんばり、その結果、無事に完成に至った。

ほら、どうだ。

もうすでにぼくは彼に負けているじゃないか。

そもそも、それを勝ち負けと評している段階で、彼に対して全能感を抱くことが失礼なんだと気づく。もし、これで気づかないのであれば、阿呆としかいいようがない。

この圧倒的な敗北感というか、長男に対する尊敬心すら抱けずに、大人ぶって「がんばったね」なんていえる立場なのか、と。いえない、間違いなくいえない。まったくもっていえるわけがない。

それでも「親なんだから」と上から目線でモノを言いたいのであれば、止めはしない。止めはしないけど、子どもから尊敬される未来は訪れないだろうことはわかる。そして、いく年かは誤魔化せたとしても、将来的にバレる。

全能感や、上から目線を保ちたいのは、自分に自信がなくて、引け目や負い目を痛感している何よりの証拠だ。

ぼくも日々、間違ってばかりだし、彼らに対して、到底、手本にならないような態度や姿勢を取ってしまっている機会や時間だって多々ある。

けど、自分が完璧じゃないから、間違ってる時には子どもに対して謝らないといけないし、対等な関係なのだと認識した上で接しないとダメなんだ。

ぼくは子どもと生活をしているからといって、偉くなったわけでも、強くなったわけでも、賢くなったわけでもない。むしろ、できないことが露呈する機会が増えた分、情けない自分を認識することが増えたように思う。

だからって、せめて子どもの上に位置することを望むのは違う。そんな態度を無意識的に取ってしまっているのであれば、もう、マズい状態だ。

もしかしたら、嫉妬心からきているのが、子どもに対しての全能感なのかもしれない。けど、それは紛い物で、何ももたらさないし、残らないモノだ。

それに気づいたからといって、親ランクが上がるわけでもなんでもない。そもそも、そんなものがない。

さて、こうなると困ったもので、考えなくてはいけない。

彼らに対して、どう接すればいいんだろう。

ずっと考えて行かなきゃいけないのが、親の役割なんだろうと、最近になって、やっと実感できるようになった気がする。気のせいかもしれないけど。

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