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土居豊の文芸批評 高村薫『レディ・ジョーカー』その1 平成日本を代表する小説 

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土居豊の文芸批評
高村薫『レディ・ジョーカー』その1


※写真は全て土居豊の撮影



(1)平成日本を代表する小説


現代のドストエフスキー、と呼ばれることもある作家の高村薫、その作品中でも人気の高い「合田雄一郎」シリーズの3作目『レディ・ジョーカー』は、平成日本を代表する文学作品だ。
物語はグリコ・森永事件をモチーフとしていながら、時代背景を1995年前後として、平成日本の虚実を描く。
時代がまだバブル崩壊後の予熱を保っていた時期、バブルの象徴のような日之出ビール(キリン、がモデルか)の高層ビル本社と、羽田近くの産業道路沿いの寂れた住宅地界隈の対比が、見事に効果的なのだ。
数多い平成日本バブル後を描いた小説の中で、高村の本作が異彩を放っているのは、犯行グループの群像の描き込みが実にリアルだからだ。
競馬場で偶然顔見知りになった男たちと、その一人がいつも連れてきている障害児の少女。この一見何者でもなさそうな一群の人たちが、運命に操られるように集まって、バブル日本を象徴する巨大企業を脅迫する。
競馬場で、文字通り名もなき群衆がレースのクライマックスで一体となって歓声を上げる場面の描写は、鳥肌が立つほどの迫力だ。その悲喜交々の場所で、密かに計画が芽生え少しずつ熟していく。
計画の生みの親は、青森の八戸出身の物井老人だ。この好々爺が長大な小説の背骨となり、一人の人間が20世紀を生き抜いてきた人生の重さを、古今例を見ない特異な犯罪という形で表現するのである。
本作は犯罪集団側だけでなく、標的となるビール会社の役員の面々、事件の背景に暗躍する闇の仕事師たちや新聞記者、そして事件に翻弄される警察の面々を巧みに描き分ける。
高村は『神の火』いらい、群像劇に手腕を発揮する作家だ。中でも「合田」シリーズの1作目『マークスの山』で、その手腕は芸術的なまでに磨き上げられた。シリーズ3作目にあたる、文庫本3巻分の長さを持つ本作では、多数の人物をそれぞれに同時並行で動かしながら、主役の刑事・合田の描き込みもますます深掘りがされている。本作の持つ群像劇としての幅広さ、思想的な深さと強度、人物の一人一人が躍動する「ポリフォニー」の手法は、高村が傾倒していたと思しきドストエフスキーのレベルを目指しているに違いない。
もし本作をドストエフスキーになぞらえるなら、前作『照柿』が『罪と罰』なら、本作はさしずめ『悪霊』といったところだ。本作の中で、犯行グループの中心である物井老人を突き動かす存在を「悪鬼」と名付けているのは、おそらくは「悪霊」からの発想ではなかろうか。



(2)21世紀の今の世相を先取りした傑作


本作のタイトルの元となっている「レディ・ジョーカー」とは、犯行グループの一人である元自衛官の娘である障害児が初潮をみたのをきっかけに、「レディ」と呼んだところからきている。この障害児こそが本作の影の主役であり、最初から最後まで物語の重要なモチーフであり続けるという、他に類を見ない特異な構造となっている。この構造は「合田」シリーズ第1作の『マークスの山』における、精神障害のモチーフで全編を貫く方法を、さらに発展させたものではなかろうか。
ただ、本作が書かれた時代と比べて今は障害の描き方にもっと配慮が求められるため、今後本作のような小説を同じやり方で書くことは難しいかもしれない。
さらに、障害児の親が退職自衛官だというのも、現在の日本の風潮から考えるとますます描きにくいといえる。しかし、ここで克明に描かれる障害者の少女の姿と親の苦心惨憺たる姿こそが、本作の肝である。平成時代に書かれた小説に、現代の障害者とその家族の苦悩が先取りされているとも考えられる。
そういう意味では主人公の合田自身と、犯行グループの一員である警官・半田も、現代の警察官不遇の状況を先取りした姿なのではないか。
合田の人生と半田の人生は、光と影の対比として描かれている。しかし今となっては結局、二人の警官のどちらも影だったことが、現在世間を賑わす警察絡みの事件の数々によって、奇しくも証明されていると考えてしまう。
前述の犯行グループの退職自衛官もまた、生き辛いように描かれている。彼が有能であるだけ、ますます悲哀を帯びているのだ。こちらもまた現在、連鎖的に起きているように見える自衛官絡みの犯罪の数々により、小説の人物が現在の自衛官を先取りしていたことが証明されつつある。
犯行グループの一人、零細工場の若い工員も、現代の中小零細企業受難の時代を象徴する。彼が犯行に加わる動機の一つは、作業中の事故で失った指先の肉を看護士に捨てられた恨み、という奇怪なものである。だが、いくら指先の肉片とはいえ、自身の肉体をゴミ扱いされることは、まさに個人の尊厳に関わる。ここで高村が上手いのは、そういう理屈ではなく、理屈抜きの怒りを人物描写で現出させていることだ。
本作は怒りの小説であり、現代の『怒りの葡萄』と呼んでもいいのかもしれない。




(3)高村薫はドストエフスキー?バルザック?

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/