見出し画像

手拍子でビートルズーミニ読書感想『実験の民主主義』(宇野重規さん)

政治思想研究者の宇野重規さんが、『WIRED』『さよなら未来』で知られる若林恵さんを聞き手に語った『実験の民主主義』(中公新書、2023年10月25日初版発行)が学びになりました。民主主義の在り方やプラグマティズムがテーマですが、自分は療育や障害者のインクルージョン(社会包摂)の観点から読みました。


本書は、立法府中心に捉えられてきた民主主義を、行政のDXを主軸に考え直すことをテーマにしています。選挙で「誰が政治をするか」を選ぶだけではなく、トクヴィルが初期の米国に見たような、市民によるDIY的な政治活動こそ大切ではないか?いわば「手を動かす=Do」の民主主義です。

Doの民主主義は、「その人に資格があるか」は問わない。立法中心の民主主義は、政治家や官僚などのエリートを選任し、トップダウンで社会運営する。そのやり方とは異なる。

むしろDoの民主主義は、それぞれが「できることをやる」からスタートする。引用です。

 最初からあらかじめ決められた席があって、例えば、A席、B席、C席、D席という指定席に対して、一応の競争性を取り入れたとしても、それで真の意味でのインクルージョンが実現できるわけではありません。決められた席について、そこに座るのに適任なのは誰かという考えに立っている限り、包摂の理念は実現しませんよね。
ーーはい。
 それに対して、「Do」に力点を移すことで、「何もできない人なんていない」という見方を初めて導入できる。誰しもは何かはできるはずなので、この人はこれができる、この人はこれができる、というのを組み合わせていって、何か新しい働き、共同の営みみたいなものを作り上げていくことを包摂と言うのだと思います。いま、民主主義において考えなくてはならないのは、こっちですよね。
ーーDoが軸にないと、「参加」はつらいです。

『実験の民主主義』p188

「ーー」部分が聞き手の若林恵さんで、何もない部分が著者の宇野重規さん。著者は、Doの民主主義は「何もできない人なんていない」という見立で駆動していくと解きます。

障害児を巡っては、インクルーシブ教育が言われる。でも著者が指摘するように、それが「用意された指定席に座る」形では、全くもってインクルーシブではない。それは多数派の健常者が、障害者の「席を用意してあげる」に過ぎないからです。そんな席、居心地が悪いに決まっている。

障害があっても、何かはできる。たとえ重度障害だとしても、たとえば「そこに存在する」という行為が、場にもたらす何かがある。そこから発想を広げるのが、Doの民主主義である。

これは、極めて療育的発想でもあります。療育は、障害のある子を「出来ない」とみなさない。たしかに定型発達者が当たり前にできることは出来なくても、今のその子の状態で出来ることはある。そこからほんの少し上の「発達の最近接領域」を見定め、出来ることを拡張していく。

本書の読みどころは、博識かつ優しい著者宇野重規さんの語りだけではありません。編集者である聞き手の若林恵さんが、絶妙な合いの手をいれる。このDoの民主主義においても、若林さんは「手拍子のビートルズ」という抜群のメタファーを放り込む。

ーーそうした考え方と、DIWOやオードリーさんが語る「コンピテンシー」とら少し違う観点に立っている気がしています。DIWOは、むしろ「ビートルズをやりたい」といって集まった人が、手拍子しかできない人でも、リコーダーしか吹けない人であったとしても、それで何とか「ビートルズをやってみる」という考え方に立ちます。

『実験の民主主義』p186

これまでの民主主義は「ビートルズをやるためにはボーカルが必要で、ギターが必要で…」という発想です。その中では、たとえばギターもベースもドラムも難しい人、障害や病気のある人は、バントを組む資格がないとされた。席がないわけです。

でもDoの民主主義は、その人ができることから音楽を立ち上げる。もちろん、それはもはやビートルズではないかも知れない。でも、ある意味「ビートルズ的な何か」を最解釈し、構想することは可能かもしれない。

発達障害のある子を育てる上で、定型発達者と比べるだけでは「劣る」「出来ない」だけに陥ってしまう。でも、そこからは何も生まれない。できることをベースに、これまで理想とされた何かとは別の何かを、親である私自身も想像しなければなりません。

この記事が参加している募集

推薦図書

万が一いただけたサポートは、本や本屋さんの収益に回るように活用したいと思います。