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既に存在した共生社会ーミニ読書感想『みんなが手話で話した島』(ノーラ・エレン・グロースさん)

文化医療人類学者ノーラ・エレン・グロースさんの『みんなが手話で話した島』(ハヤカワ文庫NF、2022年10月4日初版発行、佐野正信さん訳)が学びになりました。タイトル通り、聴覚障害があるか、健聴者かに関わらず、発声と手話を併用する島の話。あるべき目標に掲げられる「共生社会」が、既に実現していたという話です。


ただ、本書は「こうすれば共生社会が実現できる」という教本ではない。舞台となる米国のヴィンヤード島で、なぜみんな手話が話せるかと言えば、近親の結婚が多いなどの要因で、遺伝的な聴覚障害が高頻度で発生していたから、というのが大きな理由になります。つまり、聴覚障害がある種「所与の条件」だったために、手話を話すことが当たり前になっていたのです。

共同体の側がデフォルトで手話を使うことにしたから「みんなが手話で話した島」になった。なんだかトートロージーのような結論です。

本書ではむしろ、そうやって共同体側が無理なく、当たり前として「合理的配慮」を組み込むと、社会がどうあるか、というのが読むべきポイントな気がします。著者もそのように総括している。

ヴィンヤード島から引き出せる最も重要な教訓は、共同体が障害者を受け容れる努力をおしまなければ、障害者はその共同体の正規の有益な構成員になれるということである。

『みんなが手話で話した島』p237

そうした社会では、聴覚障害はハンディキャップではない。だから、力を持つ聴覚障害者は社会的役割を大いに発揮するし、結果として裕福な聴覚障者もいる。

強いて言えば、共生社会の実現とはこのように、配慮をデフォルト化することとも言えます。著者は「ハンディキャップの再定義」と言語化している。

もっとも重要なのは、アメリカ社会全体のように障害者に適応の負担のすべてを押しつけてしまうことなく、一つの社会が障害者に適応できたという事実は、障害者の権利と障害がない者の義務について重要な問題を提起するということである。ヴィンヤード島の経験は、ハンディキャップという概念が気まぐれな社会的カテゴリーであることをはっきりと示している。それが普遍的なものではなく単なる定義の問題であるとすれば、おそらくそれは再定義することができるし、現在使われている「ハンディキャップ」とおう用語で要約されている文化的先入観の多くも取り除くことができるのである。

『みんなが手話で話した島』p236

共同体の側が歩み寄ろう、という言説は、現代社会、いや現代日本には非常に相性が悪い気はします。不寛容の広がるこの時代には。

これは逆も然り。どうしてハンディキャップは生まれるのか?という話です。ヴィンヤード島から遺伝性の聴覚障害が減っていくのは、外部からの転入者の増加が要因でした。そして、そうしたアウトサイダーが彼らの常識で「聴覚障害者にも責任能力を認めているのか?」などの疑問を発したことで、ヴィンヤード島もその他の米国社会のような「差別がデフォルト」の世界に急速に変化します。

また、もう一点注意としては、ヴィンヤード島には知的障害への偏見は存在したということ。手話がみんな話せることと、あらゆる障害理解とは、また別の話であるという面には気を配りたいところです。

それでも、ヴィンヤード島は明らかに、聴覚障害のある人には暮らしやすい社会だった。それは決して気遣いではなく、社会システムとしてのデフォルト化をうまく組み込んだ結果であり、倫理観とか高尚な意識の結果ではないことは、現実的な希望だとも言えそうです。

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