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夏目漱石『門』をいまさら読む

夏目漱石『門』(角川文庫、1951年2月15日初版発行)を読みました。いまさら、ではあるけれども、三宅香帆さんの『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』(角川文庫)で紹介されていて、どうしても読みたくなりました。「旧刊も、出会った時がその人にとっての新刊」とはまさにそう。ほんとに、読めて良かったなと思いました。

(『読んふり』の魅力はこちらで紹介)


『読んふり』では、『門』の代名詞とも言えそうな、禅寺の前で立ちすくむ主人公の心情が取り上げられていました。いざ読んでみると、夏目漱石の「忍ばせ方」がとても気に入りました。たとえば最序盤のこちら。

宗助は意にも留めないように、軽く「そうか」と言ったが、あとからゆっくり、
 「これでももとは子供があったんだがね」と、さも自分で自分の言葉を味わっているふうにつけたして、生温い目をあげて細君を見た。

『門』p28

主人公夫婦の夫、宗助が風船のだるまというおもちゃを思いつきで買ってくる。「子どもが遊ぶようなものを買って」と何気なく妻から言われ、ふと漏れ出た言葉。「子供があった」という過去形の言葉に、じとっとした不穏さがにじみます。

本書は、一言でいえば「子なし夫婦の苦悩」。夫婦は人を傷つけながら結ばれた過去があって、子宝に恵まれないことを、その過去と関連付けて考えてしまう。いわば「罰」として子なしの現実があると捉えている。

その罪悪感を、受け入れているようで、なかなか受け入れられない。その微妙な心情が、風船だるまを買ったこと、そして妻のちょっとした言葉にささくれた言葉を返してしまうことに表れている。

罪悪感は、夫婦にしか共有できない。ある種の「共犯者」のようにして日々を過ごしている。それを表したこんなくだりも胸に残りました。

やがて日が暮れた。昼間からあまり車の聞かない町内は、宵の口からしんとしていた。夫婦は例のとおりランプのもとに寄った。広い世の中で、自分たちのすわっているところだけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助はお米だけを、お米はまた宗助だけを意識して、ランプの力の届かない暗い社会は忘れていた。

『門』p69

ランプの光を、互いの支え合いのメタファーにしている。本来なら、居場所を照らし、道を照らすランプが、むしろ結界のように存在すること。その矛盾を、夏目漱石はそっと読者の前に置く。

忍ばせて、それがだんだんと読者の中で膨らむ。そんな暗さ、謎の提示の仕方が、なんというか「文豪」だよな、と納得しました。

旧作特に古典は、なかなか手に取るきっかけは乏しい。それを与えてくれた『読んふり』に感謝したいなと感じました。

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