「一人で死ねよ」ということ

朝、川崎登戸の殺傷事件をテレビで知った。
次々に人が刃物で刺され、傷つけられ死んだ人もいるとのこと。
いつもと変わらぬ朝が突如悲惨な朝になった。
テレビを観ながら怒りや悲しみの感情に襲われる自分がいた。
死んだ人は突然人生が途切れ、傷ついた人は身体も心も傷を負った。
何故だ、あまりに不条理。
刺された人と面識のないボクは悲しみよりも怒りだけに支配された。
人々を刺した人は、自らを刺し死んだ。
ボクは「死ぬなら一人で死ねよ」と思った。
いや、怒りを込め口に出し言葉にしていた。
「一人で死ねよ」・・・一人で自殺しろよ・・・
ん?もしかしてボクは「自殺」に「線引」をしているのか?
と、ふと考えたのは夜のこと。

夜、とある人から話しを聴いた。
精神・心の病で苦しむ人たちの話しだった。
昔「キチガイ」と憚りもなく言われていた頃と時代が違う。
とはいえ、精神を病んだ人にとって、いまだ世間の常識と無理解は厳しい。
誰も病になりたくてなったわけでない、、、不条理のなかを生きている。
ずっと長い間、悩み苦しんでいる。
周囲の迷惑をかけているのではないか?
夢も希望もなく生きる意味があるのか?
膝を抱え、頭を抱えて生きている。
いつ自分をコントロールできなくなるか分からない。
何がホントかわからなくなる。
もしかしてあのテレビから聞こえる刺した人は自分かもしれない。
そんななか、ネットだけでなくテレビでも周囲からも聞こえる・・
「一人で死ねよ」の合唱。
老若男女いろいろな声と文字が幾重にも重なり頭のなかに溢れる。
「一人で死ねよ」「ひとりでシネ」「シネ」「ひとりで」「勝手に」・・・
輪唱となって暗示の言葉が響く。
周りに迷惑かけて、毎日苦しんで、
ああなっちゃ駄目だ、、
一人で死ななくちゃ、、、
ひとり、、、、今は、ひとり、、、死ななくちゃ、、、
声に憑かれる。
もし誰かがそばにいれば暗示は解かれるのに、、
少し話しを聴くだけでいいのに、、、

不条理にも線引はあるのだろうか?
果たしてこの夜、何人が?何十人が?
呪文に取り憑かれて
「一人で死んだ」のだろう?
その「一人で死ぬ」自殺が報道されることはない。
「一人で死んだ」人の内面を知ることもなく。
「一人で死ねよ」は終わることなく繰り返されるのか?

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