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イタリア美学Ⅸ――パーティ、女のひととのディナー、レストランの灯りに宿るロマンスの神様――

 イタリアに来て、イングリッシュパーティーに参加したり、本屋や画廊や図書館で、営業もあっていろんなひとと話したりしたし、その時に恋愛や芸術の話にはなったけど、その中にはいいなぁって思うひともいたし、そこそこだなぁって思うひともいた。
 そういう時にしゃべってて思うのは、いちばんいいと思うひとに似てるひととしゃべると、逆にそのひとの個性もよくわかるし、仲良くなれるんだけど、そうじゃない話は合うけど、ずっと仲が続くわけでもないんだろうなぁってひととしゃべると、不思議とチェス盤がよく頭に浮かぶ。

 仲良いひととしゃべってる時は、一貫して八〇年代、九〇年代ポップス、ジャズと、フェイシングのイメージが浮かぶし、散歩の時になぜか栃木県のおばあちゃん家で夕方、相撲を見てたことを思い出すけど。

 チェスっていうのは、将棋と同じで、クイーンやその他の駒をいかに使っても、キングを守りつつ、相手のキングを狙うかは原則で、重要な駒が減ったり、流れや形がおかしくなったりすると、サレンダーsurrender(降伏)の確率が高くなっていく。

 僕がいつも思うのは、結婚するわけでもないし、好きなひとにも似ていないひととしゃべる感じが、これに似てる気がするということだ。

 恋愛の話や芸術の話になると、こっちがはっきりいわなくても、僕がどんなひとが好きなのかを、相手が察することはよくある。もちろん、気が合うひととか好きなひとが似ているひとは、ふつうに意気投合して仲良くなるけど。

 それでも、そのひとだけと話すというわけにもいかないのが、パーティーや営業で、結婚ではないけどいいなぁって思うひとと話す時、自分がなんだか言われたくないこと言われてるなぁとか、褒められてるのに褒められてる感じがしないとか、そういう場面に直面したら、どうやってこっちの考えをうまく理解してもらえるかは勝負だ。

 結局、多くのひとは自分のことよりも、好きな女性が不快に思いそうなことを言われることがいちばん不快に感じるから。

 このタイプのひととしゃべると、自分がこれをいわれたら好きな女性が嫌がりそうだと感じた時、瞬時に反応できるかはカギなんだろう。

 僕が好きなひとや気の合うひとは、パーティよりも二人の時間が大切だからそんなにパーティ行かないっていってるひとが多かったけど、それでもパーティには参加しないと文学、仕事の仲間やつながりは増えていかないのも事実。

 そんな時、パーティの流れを悪くしないために、そのことを意識しつつしゃべるのは重要だ。

 もちろん中には、ふつうに話して解散のひともいるし、そういうひとをパーティのいくつもあるグループのいいと思うひとがいるグループに呼んじゃうのもすごく楽だけど。

 とはいえ、この瞬間は楽しい。

 好きなひとへの愛の機運が高まるし、だれが友達になってくれるかもよくわかるから。

 イタリアに来ると、僕が好みの女性は、みんなそうなのかはわからないけど、やわらかくて、甘いトーンでしゃべるとすごくよろこんでくれるし、レストランが自然といいムードになる。

 この前も、偶然、そういうムードになった時、マライヤ・キャリーのロマンチックな曲が流れた。

 しかし、ダイエットを理由にウイスキーと、ベイクドポテト頼んだのは誤算だったなぁ。やっぱりおしゃれな料理頼んでほしいのは、日本もイタリアも同じみたいだ。

 軽いスキンシップもイタリアの女性がよろこんでくれる。そういうのってひととひととの関係によるから、絶対ってはいえないけど、いやらしくない感じで、不意なタイミングで手とか肩にそっと触れると女性が笑顔になるのはイタリアでも同じだ。
 地下鉄で隣にすわった瞬間に、「手相ちょっと見られるんだ」っていって手相の話から手に触れるとか、信号が青に変わったタイミングでそっと肩触れるとか。

 東欧と南欧の女性はほんとそういうひと多いよ。

 僕はぜひ東欧や南欧のひと、できればイタリアの女性と結婚したい。

 ロマンチックなムードが好きな女性ばっかりだし、どんなに雰囲気ばかりの男といわれても、雰囲気はやっぱり大切だと思う。だからこれからも雰囲気と、ひととしての心を大切に生きていきたいと思いつつ、婚活に励もうと思う。



了 

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