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『アーモンド』(ソン・ウォンピョン)読了

人は誰もが”アーモンド”を2つ持っている。
アーモンドを語源とする扁桃体は、不安や恐怖といった情動を司る場所だ。つまり、感情と言われるようなものを感じる場所といったところだろうか。
そんな場所を、私たちは頭の中に持っている。

しかしユンジェはその扁桃体、アーモンドを持っていながらも「感じる」ことができなかった。

「僕は、周りの人がどうして笑うのか、泣くのかよくわからない。喜びも悲しみも、愛も恐怖も、僕にはほとんど感じられないのだ。感情という単語も、共感という単語も、僕にはただ実感の伴わない文字の組み合わせに過ぎない」p29

ユンジェは「感じる」ことのできない悲しみや虚しさ、あるいは優越感や背徳感を「感じる」とも、またできなかったのだ。


私は私の頭の中にあるアーモンドがどんなものか知らない。MRIを撮ったときも、どんなものかあまりよくわからなかった。確かにあるらしいが、その姿を見たことはない。

しかし私はきっと人よりもそこが敏感に反応するために、時に恐怖や不安で身体のなかがいっぱいになりそうになる。私のものだけでなく、私のものではない誰かの悲しみ、痛みまで勝手に吸い込むような苦しみは、まるで四角いシンクのなか独りでに膨れていくスポンジのようだ。泡とともに吸い込まれていく赤々とした辛い味、乳白色の酸っぱいソース、スイーツの甘い残りかすを自分も気づかぬ間にひっそりと吸い込み、膨れ、もとが何色だったのかわからなくなる。

『いいなあ……。本当に羨ましい、何も感じられなくて。俺もそうだったらいいのに……』p239

かつては私もゴニのように何も感じなければいいと思っていた。痛みは痛みでも、擦り傷のように見える形で傷つく痛みは、どこがどれだけ傷ついたのか、痛みはどのくらいで、あと何日で治るのかを知ることが簡単で、愛おしくも思える。しかしそれとは違う、見えない形で確実に傷つく痛みが嫌いだった。正確には怖かったのだと思う。馬鹿だったらよかった、何も感じなければよかった、そんな言葉だけをノートに書き綴った日もあった。何も感じなければ私はきっとこんなに苦しまなかったと、そうすればこれ以上の苦しみを感じることなんて一切ないと信じて疑わないように。

「やはりゴニが生まれない方が良かったように思える。何よりもゴニが、なんの苦痛も喪失も感じずにすんだだろうから。でもそうすると、すべてのことは意味を失う。嫌な思いをしない、辛い思いをしたくないという目的だけが残る。おかしなことに。」p224


共感が何に役立つのかわからない。共感だけで人は救えない。その人が感じる本当の痛みも苦しみも、結局のところ私は本当の意味で感じられない。共感ということも、私の中にある《感情》というカテゴリーに振り分けられたもののなかから該当するものを探して、ふさわしいと思われる感情を詰めただけの箱でしかないのかもしれない。
それでもユンジェの物語を読んで、ゴニの姿を見て、ドラの眼差しを見つめて、受けたこともない痛みをまるで自分も受けているかのように感じて、泣いている私がいまここにいるということだけは紛れもない真実だ。


「『僕、いつかは文章を書けるようになるかな。自分について』
『自分でも理解できない僕を、人に理解してもらうことができるかな』」p207

私はせめて私の感情を私のなかで感じるために、文章を書いているのかもしれないと思った。そして、その先に誰かの共感があるとなおいいな、と思いながら。


そもそも「君を知りたい」ということが愛なのだろうか。

それとも、君を知りたくて手繰り寄せた数少ない「愛」のひとつが共感なのだろうか。
どちらにせよ、ユンジェはどちらも「感じた」のではないだろうか。

「僕には、アーモンドがある。あなたにもある。あなたの一番大事な人も、一番嫌っている誰かも、それを持っている。誰もそれを感じることはできない。ただ、それがあることを知っているだけだ」プロローグ

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