見出し画像

”母親らしさ”を受け止めること

母性的なものを考えると自己犠牲が頭に浮かぶ。
自分らしさや自分を満たすことも大事だよという優しい言葉に救われる。
ただ、私の場合は自分の今までの人生で、あまりにも〇〇らしさを無視して生きてきたなという愚かさを感じる。

大学生のころに、友人に言われた印象的な言葉がある。
「最初からお兄ちゃん、お姉ちゃんだった人は一人もいない」
血液型の性格診断は馬鹿馬鹿しくて、嫌いだけど、家族構成で性格が出ると思う。デリカシーのなかった20歳そこそこの私は、サークルの仲間にそんな話をして、「お姉ちゃんっぽい!」「弟って感じだね~」「お兄ちゃんいそう!」なんて勝手な感想を述べていた。
そんな私を非難するわけでなかったと思うけど、一人の友達が最初の言葉を言った。彼は、一人っ子だと自覚している中、突然10歳以上年の離れた妹が生まれた。だからこそ、兄としてのふるまいに戸惑ったという話をしていた。

娘が産まれてからその言葉が度々脳裏に浮かぶ。最初から母親だった人は一人もない。兄や姉とは違って、はっきりと自分の意志で親になる選択をしたはずなのに、いまだに戸惑ったり、覚悟ができていない自分がいる。(我慢させることは間違っているけど)お兄ちゃんやお姉ちゃんになった子たちでさえ、自分より小さきものと共に生きる生活を受け入れているというのに。

ちなみに、私は妹だ。面倒見の良い優しい姉がいる。助けてくれるのは当たり前だと思って生きてきた。そういえば、別の友達が、弟が産まれる時祖母の家に預けられて寂しかったことを、出産して思い出したと話していた。私は、そういう風に寂しいけど、受け入れたくないけど、受け入れなくては…という経験が圧倒的に少ないと思っている。

自分らしく、個性的、自由。そんな言葉を浴びて、好き勝手、のびのびと生きてきた。そんな自分の人生を否定するわけではないけど、母親になった今、いつまでも”周りと共に生きる生き方”から目を背けてはいけないと思った。子供と生きる、夫と生きる、家族の一人として生きる。のだから、いつまでも自分らしさに執着するのは、あまりにも子供っぽいなと。アルコールやたばこを我慢できない言い訳を、自分らしく生きたいからと言うことみたいだから。自分をコントロールしないといけない。

とどのつまりは、自己犠牲と欲求のバランス。
すべてを子供中心にしてはうまくいかないし、自分の心を満たすことで共に生きる家族も幸せになる。結局、そんな曖昧さの中で生きることしかできないのだろう。
自分らしく、母親らしく、どちらに振り切ることもできない。
大切なのは共に生きる相手を思うこと。
周りの望む自分や社会での当たり前に合わせるのではなく、大切な人に合わせること。

ああ、生きるということは本当に正解がない。

”母親らしさ”という言葉にはやっぱり、ぞっとしてしまうけど、”私の大切な娘を幸せにするには?共に生きるには?”そんな視点で自分の行動を選択していきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?