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動物から考える社会運動⑤の2 学ぶ場所がない!!!

わたしたちはなぜハラスメント運動/野宿者支援をしながら動物の運動をするのか?——動物問題連続座談会の一回目第5弾2。野宿者支援・労働運動など複数の問題に携わってこられた活動家の生田武志さん・栗田隆子さんをゲストにお呼びし、交差的な運動についての議論を深めていきます。

【参加者】
深沢レナ(大学のハラスメントを看過しない会代表、詩人、ヴィーガン)
生田武志(野宿者ネットワーク代表、文芸評論家、フレキシタリアン)
栗田隆子(フェミニスト、文筆家、「働く女性の全国センター」元代表、ノン・ヴィーガン)
司会:関優花(大学のハラスメントを看過しない会副代表、Be With Ayano Anzai代表、美術家、ノン・ヴィーガン)

※ 動画は前半と同じものです。記事化にあたり、動画⑤の内容を分割し、加筆・修正しています。



努力神話と差別意識——他人が許せなくなる心理


——(続き)みなさんの加害性・特権性について話をきかせてください。

深沢 今日は生田さんがいらっしゃるので野宿の話で言うと、生田さんも記事を書かれていましたが、メンタリストDaiGoが“ホームレス”への差別発言した事件、わたしあの炎上をリアルタイムで見てたんです。わたしも小さい頃から家族から、「ホームレスは危ないから近づいたらダメ」と言われていて、それを普通に受け入れて育ってきたから、"ホームレス"の方に対して漠然と「怖い」とか「理解不能」という思いを抱いて、それ以上考えないできてしまっていました。


※ 実際には野宿者は襲撃を受ける立場である。
野宿者襲撃・略年表(「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」より)

* 生田さんの記事「日本社会は多くのDaiGoで満ちている」

* DaiGoの発言の深刻さについて。


 わたしは裁判はじめた当初、支援者もいなかったし、コロナ禍だったし、家でヤングケアラーをしていて、介護の悩みを相談できる同世代の友達なんか1人もいなかったから、本当に孤独だったんですけど、そのときにDaiGoの動画を毎日見てたんですよね。DaiGoの動画って、レジリエンスだったり、「いじめから生き延びる方法」とか「トラウマから抜け出す方法」とか、すぐ使える心理学のワークの情報が豊富なんです。基本的に口は悪いんですけど、「自分の人生は自分で変えられる」という前向きなメッセージが強いんです。わたしは裁判で味方もほとんどいなくて、まわり敵ばっかりという状況の時に、そのメッセージに縋り付くことで生き延びていた。

 だから、DaiGoって差別発言ひどいしヴィーガンに対しても偏見ひどいんですけど、そういう発言をきいても、「あーはいはい。いつものアレ言ってんなー」と聞き流して、使える情報だけメモして使ってて、それからちょっと経ってあの炎上があって、それで「ああ、あの空間ってやばかったんだな」と気がついた。それってわたしの受けたセクハラ被害の周囲の反応とも似てたと思うんですが、本当に深刻なことが起こっても、その周りにいる人は瞬時に判断できない、「近いと見えなくなる」という距離の問題があると思った。

 でも、その時、リベラル系の人が「DaiGoみたいな動画を見てる人がいんのか。世も末だな」などと一方的に批判をするのも目にしたのですが、それにはすごく違和感を覚えて。わたしの大学院在学中のハラスメント事件でも、多くの人たちは加害教員が授業中に「〇〇は死ね!」というのを笑って聞き流してたように、別に“加害者側の人とそうでない人”という二項対立で世界が成り立っているわけではなく、どういう場所であれ、あるコミュニティの中で過激な発言が許容されてそれが指摘されないまま許容されてしまうとエスカレートする、ということだと思う。

 それと同時に、DaiGo的な、即効性のあるメッセージに縋りつかざるをえない人たちの居場所がない、という問題も深刻だと思っていて。自分も普段「役に立つかどうか」で価値を測られているからこそ、他の命もそういう尺度で測ってしまうのだと思うし、こういう価値観から脱却できるような場所づくりもしていかなきゃ、命の重さに優劣をつけるような意識は——それこそ種差別も——なくならないんじゃないかなとも思います。

メンタリストDaiGoのYouTubeより。もし猫が「癒され」る存在ではなくて、飼っていても「得しない」としたら、これほど可愛がられていただろうか?



生田
 僕の立場からも言っといた方がいいと思うんですけど、DaiGoの発言は近年例をみないほどひどいものだった。それで調べたんですが、彼の発言って、視聴者からの「親から『すべて間違っている』と言われた」という相談への答えだったんですよね。それに対してDaiGoが「いじめられたから、親に虐待を受けたから、自分が成功できないと言う人はいるけど、同じ状況でも成功している人はいくらでもいるよ」と答えたところからはじまった。彼自身は小学校一年生から中学生までずっといじめを受けていて、しかも東大に入れなかったことでコンプレックスを抱えていた。そのコンプレックスに打ち勝つために、「何かを成し遂げなければならない」という使命感を持っていたと言っていた。「自分の力で未来を切り拓くものだ」と言っているけど、たぶん彼は「成功し続けなければ、努力し続けなければ、生きる価値がない」という圧力でずっといたと思うんだよね。それが彼の居場所で、そこから見ると、野宿の人たちは何もやっていないように見えた。そういうところで強烈な差別意識が出てきたのかなと思うんです。

 これは彼だけの問題だけじゃなくて、僕が以前話したときにすごく反論してきた人がいて、その人は、事業に失敗してもう死のうと思ったんだって。でも宗教を信じて立ち直った。そしてそれを力説して、「だから頑張ればなんとかなるんだ!」って言うんですよ。いや、あんたはなんとかなったかもしれないけど、なんとかならない人もいるだろう、と思うけど、自分が努力して成功したぶん、他の人が失敗するのが許せなくなっちゃってる。だから、努力が自分の居場所になっていて、他の人を全部否定するというのがあって、それは根深い問題かなあ、と思ったんです。

 ついでにいうと、DaiGoは猫を大事にしていて、保護猫を育てている。それはもちろんいいことなんですが、彼の場合、猫と家族以外の人間に対する絶対的な不信があると感じました。なので、野宿の人とかは、まったく否定してしまう。あと生活保護の人も否定していたけれど、これは、自分自身が差別とか不幸な生い立ちにあった人が、他の人を許せなくなる一つの典型的なパターンかな、と思って、難しいところかな、と思いました。

 彼も大変な10代を送ったらしいけど、ただ、以前は意外と10代の女性で釜ヶ崎にはまる子が多かったんです。それも、拒食症の女性が結構多くて。「なんでかな」って不思議だったんだけど、拒食症の女性って家族に過剰適応する人が多くて、家族に認められないと生きていけない。だから、いい子を演じつづけたり、学校でいい成績を取り続けることで自分の居場所を確保する。ただ、それも中学・高校とかの時点で無理がくるじゃない。そのときに釜ヶ崎に行くと、社会常識を超えちゃった、なんでもありの世界なので、「自分がいままで我慢して合わせてきた社会の常識ってなんだろう?」って価値観が一変するみたい。

 だから、DaiGoとは違う意味で、学校や家庭に過剰適応しちゃった人が、居場所というか、まったく違う生き方を見つけられる場所として、釜ヶ崎があったと思うんですね。そういう意味で、野宿者の人を否定するパターンもあるけれど、一方で、違う生き方を野宿の人たちに見つける人もいて、いろんな可能性があるなと感じています。

 栗田さんが言ってたように、自分の関わっている人が、新たなトランス女性の問題とかにまったく無理解でがっかりすることはあるんですけど、ただ一方で、新しい問題に出会うと「あ、この人はこんな理解示してくれるんだ」みたいな良い意味での意外な発見もあるじゃない。だから、両面あるんだな、とはよく思いますね。


* なかのまきこ『野宿に生きる、人と動物』では、野宿の人たちが、捨てられた猫や犬を大切に保護して暮らしている様子が描かれている。

* 実話に基づいた映画『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』も、野宿者と猫の共生を描いている。



別の社会を知るきっかけとしての野宿・貧困問題


深沢
 でも本当にさ、学校が「学ぶ場」として機能してなくない? 

栗田 それはもう本当にそう思います。少なくともわたしが経験した頃の学校がわたしの生存を支える言葉を教えてくれたか、あるいは世界を広げてくれたか、というとそういうこともなかった。日本がどういうことをしてきて、世界の中で日本はどういうポジショナリティなのかという位置付けも知ることなく。わたしの場合、そういうことは全部、いったん高校を中退してから学んだことだったりする。

生田 数日前に日本の不登校の数がまた史上最高を更新しちゃったんで、その問題はずっと進行中でしょうね。

 フリースクールをやっている山下耕平さんも言ってたけど、オルタナティブになっているフリースクールが、やっぱり行政に取り込まれて、それこそお金が降ってきて、フリースクールが業績主義になってきちゃってて、自分がゆっくりできる居場所がますますなくなっちゃってる、という話はあって、そこは深刻だなと思います。

 僕が高校のときの同級生って、週に一日勝手に休んでたんだよね。本を読む時間ということで、学校に行かなかった。それは親も認めていて、僕、うらやましくてしかたなかったんだけど、そんな感じで柔軟に休めればいいんだけど、今では難しいみたい。そんな感じで自主的に学校の休日や早退ができたらいいんですけど、日本は「学校行きなさい」という空気が依然として強いんでしょうね。

栗田 今埼玉県では、子どもを1人で放置させてはいけないし、子どもが1人で遊んでてもいけない、という条例を出しちゃって、「それじゃシングルマザーとか共働きで働いている人どうするんだよ」と騒ぎになっていて、子どもを囲い込み取り込む力が強くなっている(この条例は後日取り下げとなりました)。

 正直、私はそんなに勉強熱心な方ではなくて、世界を見せてくれたり、自分の生存を支えてくれたりする言葉や学問や知識というのは、人との出会いで全部学んできたような気がする。生田さんはおそらく本で学べるタイプで、わたしは人と会って学んできたような感じがある。なにぶん動物問題との出会いというのも、生田さんが知り合いで、その本を読んだところからのスタートだから、生田さんが知り合いじゃなかったら、生田さんの本を自分がちゃんとピックアップして読めたかというと自信はないよね。

 だから、人によっては本だけで勉強ができる人もいるんだろうけど、いろんな形の学ぶスタイルが選べるような社会状況じゃないと、「あんた勉強しなさいよ」みたいな言葉が消えないんだと思う。結局、個人で本を読んで勉強するしかない状況がもしかしたら強まっているのかもしれない。

生田 まあそうでしょうね。大阪でも児童館とかがばんばん潰れていて、家庭と家の往復しかなくなっちゃてるよね。埼玉県の条例も、「学校を出たら親が一緒にいなさい」ということなんで、本当に出口がなくなっちゃうと思うね。

栗田 関さんは20代だし、わたしもう50代だし、結構な世代の差があるじゃない? その間の数十年の歴史がまた、今この話題のなかにも影響しているのかもしれない。「勉強する場がなくね?」という話ひとつとっても。たとえばわたしが子どもの頃は、江ノ島の中に女性会館というものがあったんだけど、それももう潰れているし。生田さんが言ったように児童館も潰れてる。かつてあったものが潰れているというのも、人を追い詰める要因の一つになっているんだろうな、と思います。

生田 ヨーロッパでは教会がある程度「第三の領域」みたいなところがあったけど、日本ではあんまり機能してないしね。

栗田 寺とかね。日本も案外、戦後は宗教施設が第三の場所——サードスペースみたいな機能を果たしていた。うちの父親も日曜学校に行ってたみたいなんですけど、キリスト教徒じゃない子もお菓子もらえるから行く、ということがあったらしい。だけど、そういうのも今は別にないし、だから他に勉強する場がないし、学校とか家とか、勉強する場所で暴力を受けると致命的なことになってしまうというのは、より強くなっているのかなと思います。

生田 僕、中学・高校で「野宿・貧困の問題」の授業をやるんですけど、話すとショックを受けて、「夜回り行きたい」と言う子が必ず何人かいて来てくれる。それはある意味、学校でも家庭でもない、一般の地域でもない、別の社会を知るきっかけにはなっていると思うんですね。


*「ホームレス」と出会う子どもたち




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(構成:深沢レナ)

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